くりくりまろんのマリみてを読む日々

姉妹制度の知恵② ― もう一組の内藤姉妹

瞳子と祥子の間柄について考え直してみたいと思います。一体どうなっているのか不思議な気がしてくるのが瞳子と祥子です。瞳子にとって憧れのお姉さまなのが祥子であるという認知がクラスの中でされているようですし、祐巳の目から見てもほぼそのようです。しかし一方では互いに妙に距離を置いているようだとか冷淡に過ぎるように見えるところもあり、実は不仲なのではないかとも思われます。
「親戚で、長いつき合い」というその内容はいろいろなふうに捉えられます。端的に、瞳子と祥子は血はつながっていなくても感覚としては実の姉妹に近く、少なくとも瞳子からは実の姉を投影するような形にあるとすると分かりやすいのではという見方から考えてゆきたいと思います。マリみてでは希少な実の姉妹である笙子・克美と、縁続きという点などで共通点のある由乃・令と照応させるのも良いと思われます。
瞳子祐巳と初対面のとき祥子を「お姉さま」と呼んで不快感を催させました。また、親戚であることを主張して由乃とやりあっています。祥子との距離が傍目からはつかみづらく、それがクラスの中でも祐巳などから見た場合からでも少し食い違った認識を持たれてしまうようです。
思わず「お姉さま」と呼んでしまうことと、『B.G.N』での親戚だと紹介してほしいという瞳子の意思は、付き合い方の「質」が違うことを表していると解することもできます。例えば「子羊たちの休暇」で登場した取り巻きのように祥子を慕うお嬢様方と違って、はるかに強い結びつきです。また同時に、スールの間とはまた違った相互関係があるのではないでしょうか。
[▽続きます]

姉妹制度の知恵① ― スールとは異なる「姉妹」の形

マリみては刺激的な題材が多いものですから、つい意気込んで深読みをしたくなることがあります。しかしその前に思い起こされるのは前回popさまがコメントで述べられているように、誰にでも覚えがあるような心の動きや葛藤がきめ細かく丁寧に扱われている小説でもあるということです。これまで述べてきた瞳子の攻撃性にしてもマリみての中でだから際立っているのであって、若い頃の衝動はもっとすごいものだという感想を持つ方がいてもおかしくはないわけです。
「あとがき」では若年層へ寄せる今野先生の思い入れがこれまでになくはっきりと述べられていました。『妹オーディション』では思春期の葛藤や課題となること、そしてマリみてに通低している題材が凝縮され、深化されて描かれていたと思います。テーマの大きな部分を背負うのは内藤笙子ではなかったでしょうか。新刊の感想と共にスール制度の持つ意義について考えてみたいと思います。瞳子の話は別立てで続きます。…別立てというより、連続性があって先に述べた方が良いことも多いです。

甘く儚いチョコレート

実の姉妹というのはめったに出てこない関係です。『ショコラとポートレート』での「姉と正反対の生き方をして、幸せになれることを証明してやる」という宣言が印象的でした。初対面のつぼみたちに与えた印象の良さからは、例えば瞳子やかつての可南子には無い、バランスの取れた円満さを持っていることが伺えます。この円満さと比べると宣言は少々気負い過ぎであり、「少し違う生き方で頑張りたい」くらいが丁度良いのではなどと口を差し挟みたくなるところです。
終盤での「姉と二人で密かにチョコレートを摘んでいる方が、ずっと自分らしい」という感興が、前半での宣言と対をなしています。姉との隠微で優しいささやかな世界が幻のように一瞬現れ、しかし現実に落とし込まれることなく消えてゆくようです。チョコレートのすぐ消えて無くなってしまう儚さは、『静かなる夜の幻』で蟹名静が見たマッチの炎の儚さを連想させます。
小ぢんまりとしたチョコレートの甘さとそれを「摘む」ことは、情緒的なものになぞらえて置き換えることもできるでしょう。すなわち、極私的でささやかな姉に対する甘えの気持ちと、それを満たすことを抽象的に意味しているように思われます。ここでの自分らしさとは高等部のイベントに紛れ込むような逸脱的な行動を取るより、じっくりと甘えの気持ちを満たしたいのが本当の姿であるということをさしているようです。

スールの関係以外から浮き彫りにされる

ここに、学園内での「姉妹」ではなかなか起こらない葛藤が描かれています。なぜそこまで反発しなければならないかというと違和感を感じる生き方にも、どこかで価値を認めざるをえずに迷ってしまうということがあるでしょう。違和感を感じることは可能性の萌芽でもありますが、受け入れていくのは大変なことです。これに加えて、姉がやさしくしてくれないという不満足感があって拍車をかけます。ガリ勉は嫌としても笙子もそれほど勉強が嫌いというわけではないのかもしれないし、さらに言えばむしろ勉強好きなのですが、そうなった場合の負の側面ばかりを姉の中に見てしまうのかもしれません。効率ばかりを追求してイベントごとをばかにするような「ものの考え方」に姉を取られた!とまで思っているかどうかは不明ですが。
あっさりと理想を言ってしまえば、違う生き方にも十分価値を認めつつ自分独自の生き方を確立してゆくということになると思います。しかしそれは言うだに難しいことです。
血を分けた姉妹であればそれは自らの分身のようなもので自然に親しみのもとになるでしょう。しかしそれ故に違う部分も一緒に突きつけられると、自分のあり方も強く問われることになります。全面的に受け入れることも、遠ざけて無関心でいることも共にできない「少し違うもう一人の私」として実の姉妹が描かれていると言えます。これは、もとは赤の他人でありながら実の姉妹のように仲が良いのが基本のスールとは対照的です。「近くにいて、ところどころ違うところはあるけれども仲が良い」というのと「近くにいて、違うところを意識せざるを得ない故に仲が悪い」というのが対比されています。前者はマリみてで十分に描かれています。そこで時には後者によって、普段とは違う側面から主題が語られるということが出てくると思います。スールと実の姉妹というのは対抗するものとして扱われているのではないでしょうか。
マリみての登場人物の大部分に年の近い実の姉妹がいないのも、この観点からは必然性があると思われます。実の姉妹がたくさん出てきてしかも仲が良いとなれば、学園内の「姉妹」と実の姉妹とどう違うのかということになって話が曖昧になってしまうのかもしれません。今回出てきた田中四姉妹も二人きりではない点が注目されます。「若草物語」のような賑やかさがありますね。
作品上の構成の問題ということを離れても、笙子と克美の関係は現実味があると個人的には思います。実の兄弟のあいだに起こりがちな、愛着を内在させながらも反発が前面に出るといった葛藤を旧約聖書に題材を取ってカイン・コンプレックスと言うこともあります。…私事ながら自分の母親などを見ていると、やはり姉妹というのは一筋縄ではいかないらしくて時々ぎくしゃくしていて、そこには「生き方が違うから仕方がないか」としか言いようのない相容れなさを感じます。非常に余談なのですが(笑)。
笙子の話は必ずしも実の姉妹の間での姉妹愛が中心の話ではなく、若い人は自分なりの価値観や生き方をどのように形作っていったら良いのか迷うものだということが前面に出ている話のように取れます。しかし同時に「血は水よりも濃い」といった言葉を思い浮かべられるような、笙子と克美との間の離れ難さの感覚も感じ取ることができます。
姉との仲の悪さと、笙子が気にする写真映りの悪さ、そして「輝きたい」という希みは少しずつ接点があると考えます。それは自分に対する観察眼や自意識と呼ばれるものと関わりがあるのでしょうが、人目を気にするあまり自由が損なわれるといったものとは少し違うようです。ただ、写真に関するときに限定されてはいるものの自分が「きれいでない」という意識は姉との葛藤が醜い自己像に集約されかけたようなところもあります。カメラを向けられると妙に意識してぎこちなくなるというのは、「自分らしさ」がどこにあるのかを見失って落ちつかない気持ちを表しているようです。価値観は完成に程遠くて揺らぎやすく、自分らしさをどのようにして求めるべきか分からないといった、若年層に顕著と思われる心性が端的に現われています。これはマリみての中できちんと扱われている題だと思います。

付記Ⅰ・萌へ萌へな二人

まるで分身のようだというと、祐巳祐麒です。親しみと反発の気持ちが混淆していて、しかもお互いに異性であることを微かに認識しているようでもあります。もう、麗しいとしか言いようがありません。

付記Ⅱ

ショコラとチョコレートがほぼ同じものをさすとは知りませんでした。ぼくは酒は飲めませんが甘いものは好きなので、たまにファミリーレストランに一人で飛び込んでパフェを頼んだりしています。
薔薇のミルフィーユ』のミルフィーユとは一体?交流あるところに食べ物あり、というマリみてですが意味深ですね。そろそろ別れを意識しはじめる時なのでしょうか。
[▽続きます]

瞳子と「演劇」を中心に⑨ 瞳子の特異さ ― 稀な破壊性、そして演劇

"よーすけ"さまより、「演劇」をめぐっての瞳子と祥子の関係などを中心に、コメント欄が伸び過ぎではとのこともあってメールをいただきました(ありがとうございます)。

こちらでくりくりまろんさんのご意見などを伺いながら考えが至ったのは、瞳子のキャラクターの中心は当初の印象以上に表現者」としての比重が高いものなのだなということです。(瞳子の「演技」が「日常における性格のカモフラージュ」という意味でしか読者に受け取られていない傾向が強いのは、著者の誘導の巧さでしょうか。)
祥子と瞳子の間の温度の低さというのも、この部分に原因があるような気がしてきました。祥子は瞳子の演劇に対する情熱に共感できず、瞳子が理解できない。また瞳子も、人並以上の才能を持ちながら、山百合会に参加するにあたって習い事の一切をやめてしまい、何の未練もない祥子が理解しがたい。そうした価値観の違いから来る理解の遠さが、そのまま両者の間の距離感になってしまっているのではないでしょうか。
それでも「BGN」で薔薇の館を訪れた瞳子は、祥子にそこまでさせる山百合会という場所がどのようなものであるのか、興味があったのかもしれません。しかし、結局瞳子は何らかの理由でくりくりまろんさんの言葉の通り「幻滅」し、そこに自分が求めるものはないと判断して、以後は迷いなく演劇部に集中することにした、とも考えられます。その後、可南子を通じて祐巳という興味の対象を再発見するまで、瞳子は薔薇の館に戻ってこようとはしません。
「パラソル」以降の祐巳瞳子の対話・交流の場面はことごとく祥子の介在しないところで発生しているため、祥子は祐巳瞳子の関係がどのように変化・発展していったのか、直接的にはほぼまったく知り得ません(この点、可南子に対してはその関わり方を傍らで見ていたので、祥子が瞳子よりも可南子に対しての方により理解が深く見えるのもある意味当然と言えます)。祥子は、「特別でない〜」で、自分が遂に理解できなかった瞳子の演劇に賭ける熱意に対して祐巳が深い理解を示しているのを、驚きを持って見たのではないでしょうか。祥子が瞳子祐巳に任せてもよいのではないか、と考えるに至ったとすれば、それはこの時点をおいて他にないでしょう。祥子がこの巻で祐巳に妹を作ることを促すのも、そのことと無関係ではないと思われます。
瞳子のキャラクター造形については、やはり「パラソル」以前と以降では大きな変化が加えられているように思います。「強い情熱を持った表現者」という核の部分はおそらく最初期から不動であろうと思われますが、「銀杏」「BGN」限りで陰を潜めてしまう「やりすぎる悪戯者」的性格が、「パラソル」以降で急に現れる「獰猛な攻撃衝動」に置き換えられたのではないかと感じます。瞳子が薔薇の館の住人となる際に試練となる、瞳子自身の問題を描くために用意した部分が、その後のシリーズの変遷によって(特に祐巳に対するカウンターパートとして再設定するにあたって)、どうしてもそのままでは都合が悪くなり、キャラクターの修正を行わざるを得なかったのではないか、という気がしています。もちろん作品内容的にはそれなりに整合性のある辻褄をつけてくるものと期待はしていますが。
気になるのは、この、時に理性の制御も受け付けなくなるほどの激しい攻撃衝動がどこからやってくるのか、ということです。瞳子がこの攻撃衝動を解放してしまった事例は本編中では「パラソル」と「ジョアナ」の二度しかありませんが、いずれも攻撃対象をひたすら打ち据え、叩きのめす為だけに行われ、結果をまったく考慮しない、非常に暴力的なものです(その二度の機会が共に深刻な禍根を残し、現在に至るまで引きずられています)。祥子も時折ヒステリーを起こしますが、これほどの残虐さは持っていません。由乃の癇癪は甘えの表現に過ぎませんし、新旧山百合会メンバーの中でおそらく最も激情的だった聖も、ここまでの攻撃性は持っていなかったのではないかと思われます。
個人的には、瞳子と本質的な部分で最も近いところにいるキャラクターは志摩子ではないかと思っているのですが(問題を自分の内に抱えてしまう傾向や、情熱や信念の強さなどの点で)、志摩子は寺という宗教の場で育ったためか、人や物事に対する姿勢が穏やかさという殻を纏っているのに対して、瞳子の場合は過剰な攻撃性として現れる、その差は一体何なのか。
この瞳子の特質が一体何を理由に起こってくるものなのか、興味深いと共に、なかなか難しそうな問題を予感させます。もしかしたら、祥子も過去にその攻撃衝動の餌食になった経験があり、それが瞳子に対する態度を及び腰にさせる一因なのかも知れません。

演劇をめぐって祥子と瞳子の間には埋め難い溝があったのではとのご意見、興味深いです。祥子もまだ瞳子は一年生なのだし突き放すのは良くないと言っていて、演劇部に帰そうとするのも瞳子のことを思ってのことであり、はなはだ順当な判断をしていたとは言えます。しかし瞳子がまだ不信感を抱かざるを得なかったというのは、理解や共感ということは自らのありかた全体に関わるもので生易しいものではないことが示されていると思います。
それをしたのが唯一祐巳であるとすれば、瞳子祐巳でなければだめであるという意味の乃梨子の言葉に繋がってゆくものかもしれません。
ただおそらく祥子は理解している振りをする、といった欺瞞を行うようなことはこれまでもしていなかったでしょう。それは祥子が持っている種類の純粋さとは相容れない器用さというものです。その点はむしろ救いがあるのかも知れません。

激昂する乙女たち

瞳子にとって日常での「演技」というのは感情のコントロール、特に攻撃性などの負の感情のコントロールのことを意味するのではという趣旨のことを⑦で述べました。「攻撃性」及びそのコントロールということを大掴みに捉えた上でマリみての人物を振り返ってみると、それぞれ少しずつ姿を変えながら、大きな意義を持っていることが分かります。

佐藤聖

幼少にあっては江利子と取っ組みあいの喧嘩をし、「片手だけつないで」では蓉子に手を上げかけるといったカッとしやすい傾向を持つことが述べられています。それは、ケーキをホールで食べながら志摩子を待っていたり、豪快に笑ったり、柏木氏と大いにやりあうといった、より適応的な形になっていったのではないでしょうか。そして「白き花びら」で私はそんなに弱くはないという趣旨の独白をみると却って、底の方では傷つきやすさを持っており、その頃とは随分変わっているであろう今に至ってもなお蓉子には頭が上がらないのだろうと想像されるのです。

祥子

怒りをため込んでいるようで、蓉子に言わなければ分からないと注意されたというエピソード、そして幼少のときから何かと戦っているようだったことが述べられています。境遇の難しさがあると同時に自分は理解されないだろうと最初から諦めてしまったかのような強固な思い込みがあって(このあたりに父親の影を感じます)、それではいけないのだと蓉子はたしなめたのだと言えます。蓉子などの上級生にさんざんいじられることで、ため込んでいる内容は「ヒステリー」という数少ない出口を見つけ、表現されることができたのだということでしょう。祥子の攻撃性はさほど地のものではないのかもしれません。
そして今では自分から必要なことを言わない瞳子に対して「昔の自分を見ているよう」だという理解を示しています。

由乃

いつも令を由乃は振り回し、少しずつ迷惑をかけているようなところがありました。「もう少し、振り回されてみることにしたよ」と諦めが入り混じったような覚悟を表明するのは、令の駄目なところであり同時に包容力であって、由乃は随分それに守られて来たと言えます。ほんの微かに互いに求めているものが食い違っていてそのズレ具合が悩みの種になっているようです。一方由乃や祥子は聖の観察にあるように「内弁慶」「猫かぶり」でいるようなところ、すなわち状況に応じておとなしい振りをするという柔軟性も持ち合わせているようです。
しかし入部した剣道部は最初からそのような場所ではないことが示されているし、令の与える枠組みからはみ出そうとする「黄薔薇革命」や剣道部入部は一面では逸脱行為と言えると同時に、由乃の成長力なのだろうと思います。

志摩子さんは欲ばり ― 銀杏を拾う聖女(のような人)

攻撃性ということに関して、少し違った意味で重要性をもって語られたところがあると思います。ひたすら優しく美しく、桜の景色の中に溶け込むような浮世離れしたところもある志摩子は、言わば聖女のアイデンティティーをしっかりと身に着けていたのだと言えます。しかし人に求めることをせず、自らの欲求もすっかり抑えてしまうことの代償であるかのようにうっすらとした寂しさも漂わせていました。乃梨子志摩子さんは本当は欲ばりなのだという言葉により、志摩子は自分の中にも周りの世界や人にさまざまなものを求めてゆくような欲深さ、つまり攻撃性があることをはっきりと認めます。そのことによって現実的で地に足のついた姿勢を身につけてゆくことができたのだと思います。
《無印》で出てきたギンナンの異臭は、「乙女の園」の中にあっても美しくきれいなだけではいられない人の生臭さ、俗っぽさを表していたのではないでしょうか。それでもギンナンが落ちるのが楽しみと言っている志摩子は、一見異質なものも統合してゆく力があることを示していたのだと思います。

幅広い自己を持つ瞳子

そして瞳子の持つ攻撃性については、少なくともマリみてで描かれる人物としては際立っていて、述べられているように特別なもののように感じられます。例えば瞳子祐巳に対して時々みせるふてくされたような態度は、繊細で傷つきやすい自分を守り、あるいは攻撃性を先取りして表すことで相手をも守ろうとしているのだと一通りは解することができるでしょう。しかし、「繊細さを持っているから」というだけではなかなか収まりきれない部分もあると思います。
そうすると破壊性を持つようなエネルギーの解放とも言える攻撃衝動は一体何によってもたらされるのかということになりますが、一つには佐藤聖が急に気付くことになった相手を壊してしまうような傾向のように、本来的には周囲の状況とは無関係な、独自の性質に基づく部分が大きいということになると思います。志摩子の信仰に対する熱意もそうです。マリみてでは「成長」と言うとやや物足りないほどの、関係性の再構築や人は変わりうるといった希望がダイナミックに示されています。しかし同時に、「生まれつき」というものに大きく左右され、規定される存在でもあるのだという人間観が伺われるような気もします。志摩子も私はつまらない性格なのだろうかと思い、しかしもって生まれた性格はなかなか変えられないものなのだとひとりごちています。①では、瞳子の「素質」が描写されているのではないかということを述べました。…ただこれではほとんど何の説明にもなっていないという見方もあるでしょうし、他の理由があるのかもしれません。
さらに一つの可能性に過ぎませんが瞳子自身の性質に振り回され、それに悩む人ではないかということも言えると思います。「若草物語」の次女のジョーは、末娘のエイミーと仲が悪くて大喧嘩したりします。しかし反省が無いわけでは決してなく、自らの「悪性」に悩んで母親に相談したり、物静かで優しいベスを心のよすがとし、大変可愛がっています。その意味で案外瞳子ジョーに一番近いのかも知れないと言えるわけで、その繊細さは深い自己反省に結びついているのではとも思われます。
そして演劇に対する熱意も際立っていることを合わせると、一つのことに考えが至ります。あまりに雑駁になるのをおそれずに言えば、瞳子が感じさせる演劇に対する熱心さと破壊性・攻撃性は対をなしていて、瞳子という一人の人間が持つ光と影であると言えます。良い悪いの価値観を抜きにすれば瞳子は相当幅のある自己とでもいうものを生きており、その姿が描かれるのが一つの目的となっているのではないでしょうか。祐巳の妹としてどうかということも大切なのですが「悪戯者」に始まりつつもキャラクタは分化・発展してゆき、そのままでは終わらないというメッセージが感じられる気がします。
ここで祐巳と比べると、祐巳はあまり光と影と言えるものを持っていません。「レイニーブルー」では随分落ち込みましたが祥子に対する思い入れの延長上にあるものです。むしろ祐巳は周りの人の思いをいろいろな形で映し出してきました。祐巳と深く関わる人物は、今まであまり生きてこれなかった側面に良いものも悪いものも含めて気付かされます。
祐巳は光と影を映し出すスクリーンであり、瞳子は自ら光と影を体現しているのではないでしょうか。

瞳子にとっての演劇を見直したい

そうすると瞳子の持っている一方の極である演劇についても十分に考える必要があると思います。

親戚で、長いつき合いがあるはずの祥子さますら騙せてしまうほどの、完璧な演技をしてのけた。
松平瞳子は間違いなく才能のある女優であり、そしてとてつもなく嘘つきなのだった。

特別でないただの一日」でのこの描写は、一つの事実というべきでしょう。しかしそれは祐巳が気付き発見した事実なのであって、瞳子が才能のある女優である理由や瞳子自身の思い入れや動機は何ら語られていません。あたかも瞳子がその才能を器用に使い回し、日常でもそうしているに過ぎないのだろうと読めてしまうところです。
しかしこれは述べられているような「著者の誘導の巧さ」、ミスリーディングの気配すら感じられるところです。熱心さがどのようなものであるのかが詳しく描かれているところは少なく、瞳子のキャラクタの掴みづらさに繋がってるのかも知れません。もう少し瞳子と演劇には深いつながりがあるのではないかと思うのです。

付記Ⅰ ― 「役割」の中に

キャラクタ造形ということについて冷静に考えると、「銀杏」での初登場時と今の瞳子を比べるとずいぶんかけ離れているように見えるので統一的な見方はできないか、という意識を含みつつ「瞳子と演劇を中心に」を書き始めたように思います。…自分のことなのに「ように思います」もないものですが(汗)。造形がいつどのように切り替えられた(と見える)のかはあまり意識していませんでした。
《殿下執務室》さまよりトラックバック瞳子のギミック、或いは瞳子はどこで「壊れた」か。をいただいております。

瞳子という子は「自分が役に立ちたい」的意識が強いというか、自分の能力を認めてもらうことに対して渇望のあるキャラクターなのかなぁとも思われます。

に関連して、当初は無かった「どうせ私なんか」「ご迷惑でなかったら」といった自信の無さを伺わせる言葉が瞳子に多いことが思い浮かびます。
指摘されているように山百合会に自分のキャストが存在しないことに気付いていること、あるいは祐巳を知っていくに従って祐巳に対して自分が役に立たないと思い残念な気持ちでいることの表れと考えることができると思います。祐巳に対する瞳子のアドバイスは、その気持ちは別としてことごとく届かず実効性を持ちませんでした。
山百合会瞳子にとって、憧れの場所というよりは自分を活かすことができるかもしれない場所として最初は捉えられていたのかもしれません。この点、「片手だけつないで」で志摩子が言った「こんな私でも、必要としてくれる場所があるのなら」という言葉が思い出されます。周囲に関心がなかったという聖ですら志摩子の言葉に共感しています。さらに「銀杏」の頃から役に立ちたいという意識が伺われるとすれば、もともと深いところに自分に対する無価値感や自信の無さがあってそれを補いたいという気持ちが強いのだということになるのでしょうか。

付記Ⅱ ― 薔薇の館を機能として捉える

《『マリア様がみてる』アレンジ日記》さまにいただいているトラックバック「山百合会と部活動の両立の実現化」について。

たとえ薔薇様たちの妹に選ばれなくても「薔薇の館」は皆が楽しめる場所にすべきでしょう!!
 (去年の12月の「いばらの森」の段階で、「薔薇の館」をそういう風にしていれば、例え佐藤聖さまが久保栞さんを妹にしなくとも「転校」させる必要が無かったはずなのですが・・・)

興味深いご指摘です。聖のお姉さまは栞が現われる前も去ってからも、薔薇の館や姉妹制度をフル動員して聖を学園の生活になじませ、つなぎとめようとしていました。使えるものは何でも使うといいますか、ツール(道具)と見なしていたようです。薔薇の館がもう少し大きな器として機能していたら、あるいは違っていたかもしれません。
そうすると、蓉子が開かれた山百合会というのを悲願としていたのも分かる気がします。蓉子も聖のお姉さまに大きな影響を受けていると思われます(『Answer』というのはまだ読んでいないのですが)。山百合会のことで祥子を振り回して習い事をやめさせたというのも聖のお姉さまの方法を連想させます。大局的にものを見て、どこを動かしたらどのような結果が期待できるのかを判断するといった、物事をシステム的に捉えるようとする傾向が二人ともあるのかも知れません。蓉子の目指しているかもしれない弁護士という職業にも少し関連がありそうです。高度な専門知識が必要ですが実務ではそれだけでなく、多くの関係者がいる複雑な状況の中から、問題の解決のために最善の方法を選んでゆくといったことが要される職業なのですね。
[▽続きます]

瞳子と「演劇」を中心に⑧ 小笠原一族の心的傾向に関して

"はちかづき"さまより、登場人物の姿勢についての精緻な考察をメールでいただきました(ありがとうございます)。ほぼ全文を転載させていただきます。文中リンク等を加え、余計かもと思いつつ強調表示も入れました。

くりくりまろんさまが『「特別でないただの一日」④』と『瞳子と「演劇」を中心に②』で述べていた、祥子の「構え」に関する考察をまとめると、「構え」とは、正しい行動方針を採るための指針である「中の人」と、その場にあった正しい行動様式である「鎧」の二つの姿から成り、それらが内と外から祥子の行動を規定しているのだ、と言えるのではないでしょうか。
プライドが高く、またお嬢様として厳しく躾けられた祥子には堅固かつ狭量な倫理観、行動方針が育ちました。祥子の行動はこの別人格といっていいほどにまで育った倫理観、つまり「中の人」によって決定されています。
また祥子は何かをするにあたって、その場面にふさわしい行動様式を完璧にこなす事ができます。これもまた、厳しい躾けと無様な真似はできないというプライドのなせる業です。
要するに、彼女は「したい」ではなく「しなくちゃ」で行動している、と言うわけです。正しい行動を正しいやり方で行える祥子は、常に完璧です。しかしそれはひどく窮屈でストレスのかかる生き方であり、ついには心がぽっきり折れてしまうなんてこともあったわけです。

さて、くりくりまろんさまが指摘されているように、幼稚園時代の祥子はこの「中の人」をうまく扱えず、けが人に追い討ちをかけるような態度をとってしまっていました。
この様子は現在高校一年生の瞳子とよく似ています。瞳子もまたお嬢様であり、プライドは高く、躾けも行き届いています。そして彼女もまた、自分にも他人にもやたら厳しい「中の人」に振り回されていると言えます。「中の人」に従わなければならない瞳子は、「中の人」が必要であると判断したのなら憎まれ役も自ら進んで引き受けますし、「中の人」が間違っていると判断したことに対しては相手が先輩だろうがなんだろうが容赦なく批判します。
さて一方で、瞳子にとっての「鎧」とは当然「演技」であるわけですが、この「演技」には単に的確な行動様式として以上の意味があります。瞳子は「中の人」にしたがっていろいろな正しい行動をしなければならないわけですが、それはしばしば周囲との衝突を招き、瞳子自身の心をも傷つける結果となることもあると思われます。
そのため瞳子は、チェリブロの宗教裁判などにおいて、その「演技」によってえらくハイテンションなもう一人の自分を作り出し、本当の自分が傷つくのを防ぐための盾としています。「演技」の瞳子が非難を浴びるのはその行動から考えて当たり前のことですが、それらの非難を浴びているのはあくまで「演技」の自分であり、本当の自分ではないわけです。これによって瞳子は批判や悪意の直撃を防ぐとともに、自らや世間を客観的・俯瞰的に眺めることが可能になります。
さて、ここで面白いのはこの心の鎧が後づけ可能だということです。
ジョアナにおいて瞳子は演劇部の先輩に対して「そんな風に思われていたなんて、私の演技力もたいしたものだ」と言う趣旨の独白をし、「このこじれた関係が修復することなどありえない」と演劇部での人間関係を切り捨てました。どなたかが仰っていらしたのですが(すいません失念しました)、捨てられる前に捨てたわけです。
しかしながら、チェリブロ等でのハイテンションでかわいこぶりっこな瞳子が演技であることは割合わかりやすいと思いますが、それ以外の場面における瞳子には特にキャラクターの違いは見受けられません。また、あらゆる場面で演技の自分を貫けるほどの神経を瞳子が持っているかといったら、僕は疑問です。
ジョアナにおいて瞳子は、傷ついた自分は演技の自分であり、本当の自分は傷ついてなんかいないんだと自分をだまし、さらに傷ついた演技の(演技だということにした)自分をそれに付随する人間関係ごと切り離すことによって、それ以上の問題の発生を抑え、自分の心の平衡を保っているのでしょう。
これはある意味、祐巳と可南子の間の火星のたとえに近いものがあります。しかし現実に向き合うための「火星」に対して瞳子の「演技」は何もかもを拒絶することにもなりかねないかなり乱暴なスキルです。瞳子は自分が傷つくことを、あまりにも恐れすぎているのだと思います。

「中の人」と「演技」による三重構造を取り除くと、瞳子のキャラクターは割合ありふれたわかりやすいお嬢様キャラになると思います。彼女はプライドが高くひどく繊細で、意地っ張りなのは誇り高いからであり、ひねくれているのは心の弱い部分を隠すためです。
そして瞳子は、それぞれ性質の違う3人のキャラクターによって成り立っています。演技の瞳子は、元の瞳子の戦闘用の別人格で、しかも使い捨て可能なそれであり、元の瞳子とは別のキャラクターです。また元の瞳子の行動は、瞳子の中のもう一人の瞳子によって厳しく監督されていて、この瞳子は元の瞳子の心が傷つこうともその手綱を緩めることはありません
瞳子のキャラクターの掴みにくさと、現在の彼女の孤立は、傷つきやすい心と独自の倫理観に突き動かされた行動との乖離、そして人間関係および「演技」の自分の使い捨てからくるものだと思います。
瞳子に必要なのはやはり、「マリみてTT」の「コラムあるいは雑文」の柏木さん関係の話題で少し言及されていたように、「境界を踏み越える」存在である祐巳だろうと思うわけですが、祐巳が自分の価値をまるで自覚していない現状ではなかなか難しいものです。

さてその祐巳ですが、祥子や瞳子ほどではないとはいえ、彼女にも「構え」は存在します。しかしそれは、他の登場人物においてのそれと比べても著しく弱いものであり、祐巳には「しなくちゃ」ではなく「したい」という思いに突き動かされての行動がしばしば見られます。だからこそ、祐巳へのほめ言葉は「躾がいい」ではなく「育ちがいい」であるわけです。
そんな彼女がレイニーでへこみまくった時に、「構え」を心の支えのひとつとしていたのはとても面白いと思います。自分を追い詰めるほどに強力なものでさえなければ「構え」はとても有益なものなのです。

もう一人興味深いのが柏木氏です。彼もまた小笠原の一族であり、いいとこのお坊ちゃんです。しかし彼の場合、「中の人」も「鎧」も彼自身と完全に一体化しており、何の問題も発生させていません。「したい」事と「しなくちゃ」いけない事がまったく同じである柏木氏は、世界が彼を中心に回っている限りにおいて、無敵の存在であると言えます。

以上、ほとんどがくりくりまろんさまをはじめとしたマリみてのディープなファンのかたがたの考察の寄せ集めではありますが、僕なりの小笠原一族の「構え」に関してのまとめです。お粗末さまでした。

構造的で分かりやすくて、複数の人物に及ぶ考察、お見事です。繊細さを持つ瞳子は日頃でも二重三重の守りを自ら築き上げる必要があり、それは「銀杏の中の桜」でも特にそうだったのですね。演劇はあくまで舞台の上でするもので、その枠組みの中で行われるから誰もが安心していられます。しかし外で「演じる」のはいわば禁じ手であり、瞳子を守るものも何も無かったと言えるのでしょう。
以下は補足というよりは、話を広げる形での感想です。

緩やかな祐巳の期待と望み

祐巳には「したい」という思いに突き動かされての行動がしばしば見られるというのは、言われて見れば確かに思い当たるご指摘です。「特別でないただの一日」で皆に背中を押されて瞳子を説得しに行った祐巳もそうでした。ほとんどが「したい」という希望に覆われていて、しなければという部分は少ないのです。瞳子の役を聞いてピョンコピョンコと飛び跳ねて喜び、その後の演劇部までついて行ってあげる、家に来れば良いというのも断られると「つまらない」という感想を持っているように本人の楽しみの部分が多いです。
ここで見られた瞳子祐巳の関わりは、「真夏の一ページ」で見られた祥子と祐巳に相通じるものがあります。始めは祥子に問題に直面させなければというニュアンスの強いものでしたが祐巳は暑気当りをきっかけにして意気阻喪し、自分から立ち向かってほしい、克服する筈であるという期待と望みのみが伝えられ、これによって祥子は自発的に動く気になるのです。
前回のコメント欄の最後でよーすけさまが

特別でないただの一日」で、祐巳だけが「あなたの才能を認めない者を沈黙させ得るのは、あなたの才能だけである」という道を指し示し、「その才能を私のためにも発揮せよ」と光を与えています。

と述べられているように、祐巳の期待のこもった言葉によって瞳子は自分がしなければならないことに気付かされ、自発的に解決する道を選びます。
瞳子にとって、演劇部を追われ山百合会からも引くように言われた帰属に関する問題は寂しくもあり切実な事柄であったでしょう。しかしそれでもなお、一番必要だったのは救いの手というよりも、ただ自分がうまく演ずることができるのを期待し、喜んで心待ちにしているような存在であったのかもしれません。
瞳子祐巳に多くの「姉妹」関係の中に多かれ少なかれ生ずる守り守られるといった関係を期待せず、むしろ自分が祐巳を何としても守るべきであり、傷つけてはならないと思っている可能性すらあると思います。

マリア様の星 ― 可南子の獲得した現実検討力

基本的には「構え」は有益なものであり、瞳子のそれが現実に向かい合うための「火星」に近いと述べられていることに関連して。

幻だったものは、私の想いです。ずっと抱いていた想いを否定されたら、…心を否定されるのは、それはとてもせつないことだから

ここで可南子のいう「心」とは「涼風さつさつ」で祥子の述べていた、捉え難く発見するのは難しいが「ある」ものと確信できる何らかの実体、に近いものをさすのでしょう。「理想の祐巳さま」が既に失い、そうであってほしかったと痛切に願った夕子の姿に強い影響を受けていることは祐巳は知りませんでした。しかしそれを無いものとして否定しなかったのは祐巳のやさしさであり包容力です。可南子の心の存在を認め、そのことによって可南子は次第に「別の人間」である祐巳の心を次第に発見したという話だったと思います。…なぜツーショット写真を可南子は希望したのかがとても気になって [考察]細川可南子の謎というのを以前書きました。SSもどきも付けましたがいろいろな意味で向いていないようです(汗)。
祐巳は何かの線引きが行われているときに境界を踏み越える存在であり、おそらく強い「構え」を持つ瞳子にとってもそうです。しかし逆に厳密な線を引くことが稀にあり、それは祐巳強い現実検討力の表われだと思います。
例えば「パラソルをさして」で

辛くて、自分ではもうどうしようもなくなった時に必要となるのが聖さまなのだ。
喩えるならば、トランプゲームの切札。

というふうに、自分の頭で考えることが無くなってしまうから甘えるのは特別なときだけなのだと限定し切り分けています。
「火星」は、何とか「理想の祐巳さま」が住めるそのとき思いつく限りの遠い場所だったと思います。これが「どこか遠い場所」にいるなどと中途半端なものであれば、双子の片方は幽霊かドッペルゲンガー(二重身)のようにふらふらとさまよい、現実の方に近づいてしまうかもしれません。
限定したことで幻想の姿は安定し、まず最初に可南子は少なくとも「おめでたい」という属性を持つ祐巳の心を発見します。写真の希望を祐巳が了承したとき少しだけ嬉しそうだったのは、抜け殻ではない何らかの実質があると思ったからだと思います。そして「理想の祐巳さま」を自分が大切にしたのと同様、現実の祐巳も祥子などに大切にされていることに気付き「紅薔薇のつぼみの不在」で大切な祐巳さまを傷付けたという表現が出てきました。それは可南子自身が夕子や父親にとって大切な存在であるという実感に繋がっていったと思われます。
このような働きを通して、およそ荒涼としたイメージしか湧かない火星は永遠性をも備えた美しい「マリア様の星」になることができたという話だったのでしょう。可南子と祐巳が手をつないで走り、枯葉がカシャカシャと鳴る情景(写真をとるときの音になぞらえられているのかも)は素敵です。そしてこの情景こそが読者に約束された可南子と祐巳の一つの到達点であり、「ツーショット写真」だったのですね!(どうしてもこの一言が言いたかったのです)

付記Ⅰ

以前も紹介させていただいた《ランゲージダイアリー》さまは、異なる人間同士の相互理解の物語がマリみての中心部分であるとして、関係性を三つの発展段階として捉えています。今野緒雪『マリア様がみてる 妹オーディション』感想で、茶話会に参加した妹候補たちと、昇華した可南子と祐巳の今の関係が対比されていることを述べられています。

付記Ⅱ

《幽霊図書館員が読む本》さまは「マリア様がみてる 妹オーディション」にみる「関係性の落ち着き方」について で、マリみてでは

友情/恋愛感情をきっちり分けるのではなく、むしろ両者をグラデーションのように連なるものとしてとらえていて、そのあたりの複雑な心情や関係性の描写が肝となっているわけです。

と述べられた上、可南子と祐巳において「姉妹にならなかったけど、互いのことは好もしく思う事例」が描かれた意義に注目されています。よく出てくる「好き」という言葉は、全て少しずつ違う内容を持つものなのだろうと思わされます。
佐藤聖祐巳もそうでした。そして、より複雑で繊細に描かれたのが志摩子蟹名静であったと思います。志摩子と聖は互いに導き・導かれる関係であって恋愛感情は皆無でしたが蟹名静にとっての聖は違います。しかし両者とも聖が「好き」であることを確認することでお互いの了解が生まれていました。そして蟹名静にとっての志摩子は聖が志摩子を見る目に近かったでしょう。しかし志摩子は聖に、蟹名静が「好き」であると言っています。これはかなり直截になされた恋愛感情の表白ではなかったかと思います。
三者の関係について、そして乃梨子も合わせた場合について、ぜひ詳しく考えたいところです。
[▽続きます]

瞳子と「演劇」を中心に⑦ 瞳子の原則・攻撃性との折り合い

第一に「性格」の問題として描かれているのではないか

瞳子というとまず目立つのが激しい気性です。あくまでその気になればですが先輩も半泣きにさせることができます。髪型などと違って眉というのは生来のものですから「気の強そうな眉」という描写は、気性の激しさを地のものとして持っていることを示していると思います。…反対に、挿絵などを見ると表情の問題とも言えますが祐巳の眉は確かに垂れ気味になっているような気がします。蛇足ながら祐巳の困ったような顔は味があっていいですね。
そして、もうどうにでもなれという自棄を起こして失調した状態ではありながら、殺伐とした頭の中の考えを度外視すれば「ジョアナ」での瞳子の言動は一面の正しさが確かにあります。理不尽で中途半端なことをぐだぐだ言う先輩に対してビシッと「だったら、あなたがエイミーをやれば?」…と、すがすがしいですね。そして、瞳子の方がはるかにうまくやれるというのも事実なのでしょう。しかしそれを真っ直ぐに主張するのは相手を傷つけ、自分も居場所を失うことになります。瞳子の抑制が外れた状態が示されているとすると、これは瞳子の「地」に近いものです。
ここで、マリみてできちんと書かれてきた当たり前ながら冷厳な事実を認めないわけにはいきません。人には生きづらい種類の性格というものが確かにあって、聖や志摩子がそうでした。瞳子も地のままではなかなか難しいのです。
また、こんなことも言えます。祐巳の中にいるような幼子ならば誰もが抱きかかえることができるでしょう。しかし、祐麒の見たような「幼稚園児」ならばうまく抱きかかえるのは至難であり、衝突を繰り返してしまいには罰せられることになります。「個性の強い」人というのが現実の姿になるでしょうか。幼くあっては遊び友達に怪我をさせ、長じてはふとしたことで親友と大喧嘩をして絶交したり、クラスから「個性的」であるため酷い苛めを受けたり。また、同じ兄弟なのになぜか片方は親から可愛がられないなど。大人でも「あの人は個性的だから」などと称して敬して遠ざかるの表現を取る場合もあります。…これらは例であって瞳子の過去がそうだったとはもちろん言いません。それに志摩子や聖のように、一定の年齢に達してから自分の動かしがたい性質に気付くこともあります。しかし瞳子もいくつかのできごとがあってボロボロになった人形のようになり孤独感や失望を深める一方、物事をそつなくこなす術を身に付けていったのかもしれませんね。
「血が濃い」故にいろいろな苦労を背負い込みやすい人瞳子はそんなイメージです。

瞳子の実感・厄介なのは人の「念」

それでは、瞳子自身はそのことについてどう思っているのでしょうか。「ジョアナ」では投げやりでしたがむしろ日頃は逆の態度であるように思われます。祐巳のように性質を野放しにさせておくということはできませんし、大変気を使っています。祐巳に対しては厳しく当たって来る印象が強い場面が多いのですが、それは祐巳に対しては地の部分が良く出ている、あるいは自分の攻撃性を先取りして表現することで折り合いをつけようとしているのだと解することもできます。気性の激しさに合わせて敏感さと慎重さも持っていて、これは祐巳が穏やかで鈍感で危なっかしいというのと対照をなしています。…ただ、祐巳が本当に鈍感であるのかどうかは少し考える必要がありますね。
そして敏感さというのは何かのことですぐ傷つくといった形で直接的に表われるのではなく、人の感情、とくに負の感情というものに対して良く注意していることと、その注意の向け方の繊細さに表われていると思います。「涼風さつさつ」では昼休みに見かけて祐巳が声をかけると、「よくない気がこもっている」と瞳子は言います。迂遠な言い回しであり、祐巳が霊感云々の話をすると。

瞳子ちゃんはしばらく黙って聞いていたが、やがて自分自身を納得させるように小さくつぶやいた。
「相手が人間だから厄介…。本当に、そうだわ」

ずいぶんしみじみとしています。具体的には可南子のことをさすとすぐに分かります。しかし可南子に対してこれだけの感慨を持つならば、自らに対する視線もあると思うのです。少しだけ汎化すると、人の感情・情緒の世界、そしておそらくは自分自身のそれに対する感想も込められていると言えるのではないでしょうか。
気性は激しくて感情は色濃く、それでいて情緒の世界に対しては慎重な態度をとっていて、その態度との関係は必ずしも明らかではないけれども空虚感も底に抱いているというのが瞳子ではないでしょうか。そこには自らが持っている攻撃性への恐れがあるのかもしれません。(どちらが優先されているかは分かりませんが)自分や他人を守り傷つけないためには攻撃性を宥めすかす工夫が必要であり、その工夫が瞳子の日常生活における「演技」です。瞳子についてもいくつか見ることができます。
・「ブリッ娘」というのは原初的でやりやすくて意味があるのではないでしょうか。瞳子乃梨子に出会って間もなく、目をうるませて大げさに泣いています。普通に泣いたら悲しいという感情は伝わりますが生の感情をぶつけることになり、困った状況になります。少し大仰に泣いて見せることで目的は達せられるのであって、ちょっとした演技ということもできます。
・「特別でない〜」でも困難な状況にある様子を少しも伺わせず機嫌良さそうにしているので祐巳は感心しています。ここで、喧嘩をして飛び出してきた雰囲気を漂わせていたら相当怖い「気」を発散させていたところかもしれません。
さらに、同列の話ではないのですがどうしても連想されるのが佐藤聖ですね。大切な相手を傷つけて遠ざけ自分も捨てられることになるような攻撃性は実際に持っているものですから無いものとすることはできません。そこで「一歩引きなさい」という忠告に従うことになります。瞳子の冷めたような態度は、この距離の取り方を連想させます。
そうすると日頃の原則としては、自分が騒ぐことで物事を引っ掻き回すことは厳に慎みながら状況をしっかりと見届け、必要なことだけきっちり済ませるという態度になるのではないでしょうか。「略してOK大作戦(仮)」ではこのような姿勢が何となく伺えます。
柏木氏を交えて「密談」しているところに突然瞳子は挨拶に現われます。柏木氏はこのとき、祐麒が祥子と結婚したらなどと言って持ち前の無神経さを発揮し、すっかり祐巳に「おばか」扱いされています。怒ってもさほど迫力の出なさそうな祐巳ですが、祐巳としては激怒の部類に入るほど怒っていたのかも知れません。このような感情を波立たせる話を引戸ごしに瞳子はしっかりと聞き耳を立ててすっかり把握していた…のかは分かりませんが、もし聞いていたとしたら瞳子自身も内心では随分言いたいことがある場面ではなかったでしょうか。密談の内容は祥子お姉さまに関することだろうと言い当て、会ったことを口外しないと言っています。不穏な動きがありながら、内容がほぼ安全だと思ったら瞳子は安心して何もしないことを選んだように思われます。祐麒は、瞳子の言葉を具体的な根拠なく信じていますね。
そして瞳子の姿の消し方が変わっています。

そのお邪魔虫の瞳子ちゃんはと言えば、祐巳たちが帰り支度をしている間に、また音もなくいなくなってしまった。いったい、彼女は何をしたかったんだか。

これではほとんど不思議ちゃんです。「帰る」と言ってから帰っても良いところ、場を乱さないという心得にやや偏奇、かつ過剰に従ったように見えます。…実際はある程度乱しているし、柏木氏への牽制にもなっていますが。
これらのことから、瞳子の可南子や祐巳への関わりなどについて考えてみたいと思います。

付記

よーすけさまからいただいたコメントで思いついたのですが、事情を良く知る瞳子は「一石を投じに」「テコ入れに」わざわざ顔を出した可能性が高いような気がします。そうすると両家の間を元気に飛び回る小悪魔のイメージがどうしても湧いてきます。瞳子が来たときには柏木氏の積極的な関与はすでになくなっていたのですが、これ以後思わぬ方向に話が転んで、ポコッと意外な結果になるところが面白いですね。
[▽続きます]

瞳子と「演劇」を中心に⑥ 自由に伸びる祐巳

祐巳の認識力

祐巳についてはあなたは自然のままが一番良いと祥子に言われているように性質そのものについては野放しであり、内省は多いのですが鋭く自分と対決せざるを得ないということはありません。
そして③のように祐巳の深層(あるいは二重構造)として描かれていると思われる姿も合わせて考えると、「時々幼子の力(福沢時空)を発揮するものの、基本的には可愛いらしいだけで泣き虫で甘えん坊で駄目な女の子」という形になってしまいそうです。実際「パラソルをさして」まではそのような面も強調されていたと思います。
しかしこれと対抗するかのように、「○○だろうか」という疑問形で示される強い懐疑を含んだ思弁で祐巳の頭の中は一杯です。その中にはすぐには答えが出ないような難しい問いもあり、自問自答を繰り返し、迷いながらも主体的に視野を広げて物事を認識していくことが主な課題となっていると思われます。その姿勢が祐巳の自我の力、あるいは成長力の源と言えましょう。「パラソルをさして」で現われた「世界が拡がる」という主題と接点があり、祐巳はずっとこの主題の上を辿ってきているようです。(イメージによる言い換え:聖母の放つ光は幼子の目にはあまりにも眩しく、周りのものは一切見えなかった。しかし姿が隠れ光が弱まると、今どんな場所にいるのか、周りはどのようになっているのかにも目が向くのだった。)
祥子さまを中心として薔薇様たちと出会い親友も得て、今は下級生たちともさまざまな種類の交流ができています。もともと円満な性質の祐巳はいろいろなできごとが次々に降って湧いてきて鍛え上げられるといった、状況に遭遇して逐次対応する人物となっています。そして小ぢんまりとした自己像を持つにもかかわらず認識の世界は幅広く柔軟で、スケールの大きさを感じさせる理解を時に他の人に示します。それには「子羊たちの休暇」で歌う場面で祥子がただ見ているだけで頑張れたというように、これ以後「絆」による支えを背景に持っているのが前提となっているのですね。
祐巳の持っている強い懐疑の念は敬慕する対象にも容赦なく向けられ、作品に独特の雰囲気をもたらしています。この点に関連して《日刊海燕》さまが、マリみてで使われている人称についてともども述べられています。

このていねいさと辛辣さの落差がユーモラスな風味を生みだしています。実際、彼女は最愛のお姉さまに対してもときどきひどいことを考えます。それが一見すると古風で耽美な設定をうまく相対化しているといえるでしょう。

「祥子さまの寝顔」シリーズに見る祐巳の変容(ややネタっぽく)

辛辣さを含んだ考えが祐巳の認識の変化とパラレルになされている様子が、一つの題材を巡って描かれているところがあります。「祥子さまの寝顔」シリーズ(勝手に名付けました)です。

「長き夜の」での憧憬

祥子のすぐ横に寝て横顔を見ながら、祥子さまの妹になることができる女に生まれて本当に良かったと感謝する場面です。抒情性に富んだ場面でもあり、男である柏木さんには無理なことだ、とマリみての世界における一つの宣言をしたのが祐巳だと考えると、祐巳が実質的に主人公になったのはこの「ロサ・カニーナ」の巻なのかもと想像しています。

子羊たちの休暇」での倒錯

眠れる美女を「寝込みを襲うかのように」起こしに行き、寝顔に見とれる場面があります。行き帰りの車中で祐巳は祥子の寝顔を堪能したのでしょうか。

涼風さつさつ」での疑惑

支倉令が、祥子は飛行機が苦手で薬の力で寝ているという話をする場面です。令は修学旅行のときは祥子のよだれを垂らした寝顔しか見えなかったと言うので祥子は怒ります。このじゃれ合いを聞いての祐巳の感想。

空の上で、ずっと眠り続けたこととかは実話っぽいし。ほんのちょっとくらいはよだれを垂らしていたかもしれないし。

「長き夜の」と比べるとえらい違いです。しかしこのとき祐巳は祥子と修学旅行に行けた令が羨ましいとも思っていて、行間からは…
「もしそういうことなら、私が口の周りを優しく拭いてあげても良いし…いや是非とも拭かせてくださいお姉さま」という含意が読み取れます。かつて祥子にアメ玉を与えられ、紅茶で汚した口の周りの面倒までは見きれないと言われた情景とは逆の立場を想像できるまでになっています。すなわち、祥子に対する認識の変化と相まってそういう考えも出てくることが可能となった、と言えます。

イン ライブラリー」での弛緩

ここに至ると「姉妹」でほぼシンクロして寝てしまい、祐巳は寝顔を見るどころか自分の起き抜けの顔をさらすところでした。そこまで緩んだ顔を見せられるというのは著しい進歩とも言えましょう。祥子にしても学内で居眠るというのは、いつも気を張り詰めている雰囲気が伺われることからすると良い傾向なのかもしれません。しかしかつて祥子が扉から飛び出して祐巳にぶつかった時祐巳に対する理解のなさという限界があったように、瞳子に対する祐巳の限界を示すと解することもできるでしょうか。

「まるで犬みたいだ」 祐巳の意識と資質とのバランス

そして、祐巳の意識と中心的な資質がどのようにバランスを取っているのかが示されている話を一つ選びたいと思います。少し前に書いた美冬には無かった“K”の話 の続きです。
ウァレンティーヌスの贈り物(後編)」のあとがきに書かれている福沢祐巳にあって鵜沢美冬に足りなかったアルファベットの”K”の中身を考えると、『子どもが持つ種類の純粋さ、ひたむきさ』ということになると思います。
「紅いカード」で祐巳に間近で会うことになった美冬は、ゲームに熱中し、カードを探して土を掘っている祐巳を見ながら「犬みたいだ」と思いつつ、到底自分にはできないことだと思います。
それでは祐巳の方は小さい子のように「無心」でそれをしていたのかというと、少々違うようです。見つかったら二人で申請に行きましょうという言葉に美冬は驚き、罪障感を抱きますが、このとき祐巳は労働力は多いほうがいいという考えで言ったことが「びっくりチョコレート」で分かります。
そして掘っているときは、そっくり同じように「犬みたいだ」と自分に対して思っています。この点は美冬とは全く変わらないのですね。
意識はさほど変わらないが、『子どもが持つ種類の純粋さ、ひたむきさ』の中に実際に身を浸すことができるか否かが分かれ目であったという話だと思います。そして祥子は祐巳のそのようなところに支えられ、且つそれを守ろうとする姿勢を通して、徐々に変わっていく力を得たのだと信ずることができるのです。

瞳子の努力

それでは、瞳子はどのような種類の努力を今までしてきたのでしょう。これに関連して、瞳子の問題はちょうど一年前の志摩子のように極私的であるが故に当人にとっては深刻で切実なものなのだろう、そして背景も祐巳が自覚を得ていく過程と共に明らかになるのではという趣旨のメールをいただいております(ありがとうございます)。志摩子ロサ・カニーナに孤独の淵を見せられたり、選挙の立候補で大分迷ったりしています。そして自分を見つけてほしいという気持ちを「白いカード」に託したように、葛藤がいろいろな形で表われていました。
瞳子は周りの様子を客観的に見ることができます。しかしそれ以上に、自分自身に対する眼差しも聖や志摩子のような種類の強さを持っており、それが瞳子の「今」を作り上げているのではないでしょうか。
[▽続きます]

瞳子と「演劇」を中心に⑤ 根の深さとのたたかい

直截な解決は無い話

ただ、前記のような問題をマリみては掲げ始めたのではないかとの推測をするとしても、問題の提示とその解決というような直截なものではなく、問題の提示に続く希望の提示という形になるのかもしれません。その希望はスール制度のもたらす希望であっても良いと思います。今までどうしても生きてこれず、欠けていた側面がスール制度の中に生きることで次第に補われていくであろうという予感を抱かせる。祥子はそういう描かれ方がされていますね。それでこそいろいろな機能・役割を果たすことを示してきた制度の突き詰めた形での意義も出てくると思います。だから瞳子も…、などと思うのですがそれらは勝手な思い入れというものですし、先走り過ぎました。
ジョアナ」の意義を考えると、瞳子のいわゆる「黒くなった」状態、平常心を相当失ったいわば鬱状態で出てくる本心をなぞったものと考えられます。その中にあっても人形「ジョアナ」はすぐに否定されなければならない存在であり、急に取り扱えるものではないのですね。
そして「特別でないただの一日」でのエイミーがぎゅっと手を握り返してきたという描写を素直にとらえ、エイミーは瞳子の平常な状態を表すと考えるとすると、瞳子の根底にあるが日頃は強く抑圧されたものを垣間見せたということになると思います。そろそろエイミーに戻らなければというのは否定的な感情に浸っていないで平常心を取り戻さねばということであり、時間を置いて平常に戻った、ということになるからです。
では瞳子の苦悩はどんなあり方をしているのかを見る前に、マリみてで描かれる苦悩(という言い方が不適切であれば人物それぞれの闘い方)にはどんな特徴があるかを見てみたいと思います。

「私の素質」という名の苦悩

いかにも生き辛そうと思われるのがかつての佐藤聖志摩子、祥子ですね。そして意外なことにというか当然のことにというべきか、主に本人の生来のもの、少なくともそれに近いものとの葛藤が描かれてきたと思うのです。祥子の場合は「家」という境遇が随分大きなものではありますが。
志摩子には、確かに寺の娘という「境遇」がありました。しかしそれは必ずしも本体ではなく、内から湧いて出てくるような(すなわち生来の)信仰心との関わりが問題となり、境遇はその信仰心のありようを示す鏡となりました。そして続いて描かれた「ロザリオの滴」では志摩子の性質により純化した形で焦点が当たりました。
そして佐藤聖の場合もそうです。「白き花びら」の終盤は、久保栞と別れた後お姉さまに守られ、置き土産のアドバイスをもらって季節の移ろいと共に寂しく時を過ごした様子が抑えた筆致で語られて結ばれています。しかし「片手だけつないで」での冒頭では打って変わって、聖が激しく傷ついている様子が描かれます。その傷つきは、つまるところ問題は自らにあったと認めたことによります。もはや退路はないとばかり突進し、マリア像の前でキスを迫って頬をはたかれた貪婪さ、攻撃性が良くなかったのだと。それは常人ではなかなか持ち得ない純粋さ、集中力でもあります。久保栞に出会ったことで起きたことですが、聖は今まで全く気付かなかった傾向が自らにあることを思い知らされています。
聖や志摩子の苦悩というのは、珍しいと言えるかどうかは分かりませんが同じ年齢の者が持つ悩みとしては少し変わっています。しかしそれでも共感を得られるのは厳しい境遇と闘い辛い思いをしたからというより、抜き難い自らの素質とどう向き合ったら良いのかという形で語られているからかと思います。特に聖の場合は辛いことがあったから変わったと単にいうより、できごとによる「気づき」をきっかけにして、主体的に自己形成してゆくことの必要性を強く感じていったのではないでしょうか。そこには自身の性質に対する眼差しが感じられます。
それでは、これと対照的と思われる祐巳の場合はどうなるでしょうか。

付記・始めてお見かけしたのは聖さまでした

マリみてを知ったのは割合最近のことで、一期のアニメ放送第11話「白き花びら」の回でした。「十兵衛ちゃん2」を目当てにして録画していたのですが、その日たまたま深夜に起きていてテレビで生で見ておこうと。(アニメ全般については好きで良く見る、といった程度です。)
少し早めにテレビを付けたところ、薔薇の花を背景にしたオープニング。女性ばかりなので宝塚風のところを舞台とした少女漫画が原作のアニメなのかなという印象を受けました。
そこへ聖さま登場。長い髪の割には中性的な顔立ち。世を拗ねたようにしているのはうるおいのある生活を送る元気な高校生という典型的なイメージの逆です。しかしこれも思春期の一つの姿なのだろうか、などと思っているうちに栞さんに突撃。
見終わって、ショックを受けました。何が悪かったのかと思いました。何かすごいものを見たと思いました。学園の仲間たちが待っている、夢から醒めたようなラストシーンの明るさが印象的でした。
ネットを見るともともと小説で評判が高いと知り、翌日《無印》を一冊購入しました。後は止まらず、若干睡眠不足になりつつ次の放映日がくるまでに「チャオ ソレッラ!」まで全部読みました。
ファンサイトの絵を見るのは好きなのですが絵心は全くなし。二期のアニメが始まるのを機会に何かやりたいなと思い、ただ思ったことを書くというのを始め、今に至ります。
[▽続きます]