くりくりまろんのマリみてを読む日々

瞳子と「演劇」を中心に④ 瞳子と祐巳の絆はどこに

マリみて版「カインとアベルの物語」?

前記のような祐巳の中の幼子と、祐麒瞳子の中に見たような荒ぶる「幼稚園児」(それぞれの「資質」と言い換えても良いですね)を並べるとどのように見えるでしょうか。この点、マリみて解題の試みさまが瞳子について考察の上、

祐巳に甘えている」の中身が、単に「祐巳さまが好き」というだけでなく、依存のような含みがあるように思うのですね。しかしそれは、例えば白チビ聖さまの栞に対するようなものではなく、あるいは恋愛に類するものでもなく、一番近いのは祐麒祐巳の関係、つまり実のきょうだい(姉妹)であるように感じられるのです。

と述べられているのが興味深いです。瞳子祐巳は性質・資質が全く相反する「きょうだい」と言うのが最も近いというのが相応しいのではないでしょうか。実際「ショコラとポートレート」に描かれた内藤笙子とその姉のように、実のきょうだいは相反する価値観をもつ存在として影響を与え合うことが多いものです。自分と少し違う生き方をしている、かけがえの無い半身とも言えましょう。「姉と正反対の生き方をして、幸せになれることを証明してやる」と「姉と二人で密かにチョコレートを摘んでいる方が、ずっと自分らしい」という一見相反する思いが自然に両立する、そんな関係です。
そして祐巳に関しては、薔薇様の妹にならなくても充実した学園生活が送れていたであろう、という証言(?)があります。すなわち少なくとも、大過のない幸福は約束されているのです。
しかし荒ぶる「幼稚園児」を素質として持つような瞳子の場合はどうでしょう。
幸運な場合は、エイミーのように活発な、祐巳とはまた違った魅力のある姿となるでしょうし、それは瞳子自身も最も良い姿として目標とし、しかも「見た目と地」といわれるほど獲得していたものです。
しかしそうでなかったら、力を無理に矯められ、怒り悲しんで泣き喚きながらも暴れようとする…それが今の瞳子の中の「子供」なのだと思います。そして、ジョアナ」に漂う寄る辺無さ、見捨てられ感、底知れぬ虚無感は、全体としてはただ一つの心象に集約されると思います。「私は誰にも愛されて来なかった」と。個別具体的なことを語りながら、同時に底の方にある情緒の世界がどんなものであるかを描いたところと解しています。
また、祐巳瞳子は「きょうだい」に近いのではないかという考えは、少し広げると興味深い点があります。またしても大仰な題材ですが旧約聖書の「カインとアベルの物語」(状況から見るとカイン=瞳子アベル=祐巳なのですが、気持ちの上ではむしろ逆のことがあったと思われます)。
(強引にこじつければアベルがカインに殺される、すなわち事情はどうあれ祐巳瞳子の存在のおかげで立ち直れないほど落ち込むということはあったのですが。しかし瞳子祐巳にときどき批判的ですが、さほど嫉妬はしていないと思います。ただ、イン・ライブラリーで寝起きの祐巳さまの顔がひどく不細工だったというくだりは祐巳にはそういう顔ができる「姉」がいて羨ましいな、という意味だったと思います。)
ここでは…
カインとアベルは性質が逆
・カインの怒りと悲しみは瞳子のそれであり、アベルの呑気さは祐巳のそれではないだろうか。
祐巳の方がむしろ一時期はカインのような気持ちであったかもしれない。
・「居場所」を追われたカインは、その先で町を作った(この点は後述します)。
といった点に接点があるのではないかと思っています。

瞳子祐巳は対抗しているから

あまり複雑に考えずに淡々と材料を拾うような読み方でも瞳子が「誰からも愛されて来なかった」という状態との戦いをしてきたと考えるのは可能です。瞳子祐巳の特徴を見ていくと光と影と言えるほど多くの点で対称性が際立っています。そして祐巳は誰からも好かれ愛される幸せというものを体現してきました。これに対応するものは誰からも愛されない辛さと言えるのではないでしょうか。抽象的には聖母の胸に抱かれるほどの幸福と、人形「ジョアナ」の無惨が対比されています。
また、こんなことも考えます。
祐巳と祥子、志摩子乃梨子由乃と令、そして佐藤聖久保栞において書かれてきたのは「どのように」好きであれば良いかという方法の問題です(なお、聖と志摩子との間は特殊で恋愛感情もしくは類似のものは全く無いですね)。そして可南子ですら愛憎の両極端を統合するという大仕事の末、愛されているということを確信できました。するとここに至って、マリみてでは誰からも愛されていないとしたらどうするのかという話を展開しようとしているのだと思います。

付記

とある方から、ロザリオを断るという形でカインがアベルを殺してしまうという事態はむしろこれから起きるのではとの反応をいただきました(ありがとうございます)。
ただそうすると、祐巳の場合は自分をもう少し見てほしいといった矜持とかロザリオの意味を純化しようという意味合いの前向きな姿勢があったのに比べ、瞳子の場合はかなり自己否定的な意味合いのあるものになりそうでせつないです。それでもおそらく祥子がそうであったように「自分が相手を分かっていなかったことが分かる」ということには繋がると思います。
瞳子の分からなさというのは登場人物からみた場合もそうなのであって、祐巳から志摩子に至るまで、それぞれの理解の度合いとか見方が違うのでしょうね。
[▽続きます]

瞳子と「演劇」を中心に③ 祐巳の中の「子ども」の物語

祐巳の透過性

イメージに注目した話を続けます。
祐巳の中には、天真爛漫で天使のような微笑みを持つ幼子がいるのでしょう。子供というものの一つの理想形で周りの大人を引き付け癒します。決して暴れたりはしません。しかし虚弱体質で良くぐずり、その意味で手間がかかるといったような。
祐巳の特徴は、この中の「子供」と外の世界との間の境界がすぐになくなるところです。
何か聞かれると「へ?」と返し、外側から見ると無防備で危なっかしい雰囲気です。そして逆に内側に対しても無防備なため「百面相」で中身がすぐに外に出る。薄いフィルターしかかからない構えの無さは、言わば透過性があると言えるのではないでしょうか。

「福沢時空」とは

そしてこの幼子が力を得て転がり出たようなシーンが「いとしき歳月」で「どぜう掬い」を踊るところと「子羊たちの休暇」で歌を歌うところです。稚気溢れる踊りをし、「天使」に喩えられています。「福沢時空」が祐巳の資質の何かを表し、周りを巻き込んで物語を進める推進力を言うならば、「福沢時空」とはこの種の子供の持つ力の別の名ではないでしょうか。
もちろんマリみて全編が福沢時空に覆われているわけではないし、祐巳の限界もきちんと書かれていると思います。もしかすると祐巳の本当の限界というのは、作品の今の時点から問題になるのかもしれません。

祐巳の弱力性

天真爛漫で暴れたりしなさそうなのは、両親に対して極めて良い印象を持っていて反抗期がなさそうな祐巳の姿と重なります(そのため祐巳の両親はどんな人だか印象が薄いです)。
そして子供が感じさせる相反する二つの性質、力強さと無力な感じのうち後者に偏っています。誰を責めるでもなく自己完結してさめざめと泣く。祐巳が泣く場面は多いですね。
瞳子のことについて何もできなかったと乃梨子に語る「特別でないただの一日」の祐巳に見られるような小ぢんまりとした自己像はほぼ一生ものに見えるくらい変わらないもののようです。家は庶民派であり、顔は狸顔であり…。私などが祥子さまの「妹」に、から連綿と続いています。内藤笙子が始めて祐巳を見かけた時の、突いたら泣き出しそうな感じというのも関係がありそうです。
それは失望感のある自己否定というのでも、強さへの嫉妬を感じさせる卑屈というのでもないのでしょう。ただ当たり前のこと、自明の理として受け入れていて葛藤がありません。力弱き子が、別にそのことを何とも思わないように。
そうすると、祐巳の辿っている道はさほど険しくはなくとも狭く難しい道なのだと思います。自分の像を肥大させずに満足を得るというのは大変なのではないでしょうか。
祐巳の変わらない部分に注目してみるのも面白いですね。

遊び戯れる二人の子供 ― 佐藤聖祐巳

佐藤聖の中にも祐巳と似たような「子供」がいるようです。「パラソルをさして」ではこう述べられています。

聖さまは本当のところ後輩の面倒をみるより、誰かに甘える方が向いているのではないだろうか。本人は否定するかもしれないけれど、潜在的に求めている、ようにも見える。

そして、「いとしき歳月」での別れの場面ではこう述べられています。

愛してるよ、祐巳ちゃん。君とじゃれあってるのは本当に幸せだった。

じゃれあう、そして「君」という呼びかけは、性別や上下の区別も無い対等でのどかな関係を示します。いくら祐巳ちゃんになりたいと思ってもそれは佐藤聖には不可能なことでしょう。しかし、そう強烈に思ったのは同じものが根っこのところに確かにあるからだ。それを佐藤聖祐巳を通して実際に体験することができた。そして祐巳へは自立を促し、佐藤聖は自己形成への覚悟を新たにして自分だけの道を開いてゆく。一時の幸せな時間を過ごし、二人の「子供」は離れてゆきます。片方は未だ外から透けるようであり、片方は奥深いところにしっかりと根を張りに。

聖母と幼子の物語 ― 祥子と祐巳

そのような幼子の眼に映るものと言えば、聖母の像でありましょう。人が聖母の投影を受けるのは乃梨子にとっての志摩子、そして祐巳にとっての祥子です。しかも(記憶違いでなければ)それぞれ一度きりですが、しっかりと「マリア様」と書かれていますね。「黄薔薇革命」の最後の一文です。

するとマリア様のようにきれいなお姉さまは、よく響く声で「はい」と振り返って、満足げに笑ったのだった。

祐巳が初めて見て憧れたとき、祥子がオルガンで弾いていたのが「アヴェ・マリア」というのが象徴的です。祥子は祐巳に自分を「お姉さま」と呼ぶように言う。このとき「お姉さま」は聖母の別の名です。それは、女性の持ついろいろな性質のうち最も良いものでしょうか。祥子は祐巳に、自分の中の最も良い部分を呼び覚まして欲しいと請うたのでしょう。何しろ奥深くに隠れていて引き出すのは難しく、小さな声だと「聞こえなーい」ものです。
すると、聖母と幼子の物語は次のようになるのではないでしょうか。
幼子はふと、聖母の姿を目にとめる。その呼び声に応じて振り返った聖母は、時に互いの姿を見失いそうになりながら(「レイニーブルー」)歩み寄り、ついに胸にしっかりと抱き上げることができた。
特別でないただの一日」で祐巳の感じた、自他の境界が判然としなくなるほどの感激は抱き上げられた瞬間の幼子の恍惚そのものです。特別でないという祥子の言葉は恒常性、すなわち「永遠の」母を暗示し、「ありがたい」ものです。
そうすると、どぜう掬いを踊る祐巳を見て祥子が笑っているのを見て蓉子が安心するところは、次のように解することができます。
何かの理由で悲しんでいた聖母が、幼子が遊んでいるところを見て微笑んだ。
実際のところは祥子は祐巳の様子を見てふと心が明るくなって笑ったというところでしょうか。どのように祥子が笑ったのかは具体的に書かれていません。いくら祥子が普段から硬い態度を崩さないとは言っても、祥子が笑っているのを蓉子は初めて見たというわけではないでしょう。すると、祥子は佐藤聖と同じくらいげらげらと笑っているのに気付いて蓉子は祥子は確かに変わってきていると思ったのかも知れません。
こうしてみるとマリみてでは強烈なイメージがきめ細かく、しかし大胆に扱われていると思います。そして福沢祐巳は稀代の「妹」キャラであり、お子様キャラだと思います。

付記

似たモチーフに晴子に「ゴール」するAIR神尾観鈴がいます。しかし、観鈴より祐巳の方がはるかに幸せですね。がお。
[▽続きます]

瞳子と「演劇」を中心に② 変容を遂げた少女の物語

「プール帰りの女の子たち」から

話が広がりすぎるのをおそれずに。瞳子が幼稚園児の姿に重ねられたように、実際の年齢と違う姿によってその人の重要な部分が示されているところがあります。
同じく「OK大作戦」で作戦を練り終え、祐巳が祥子と落ち合うために乗るバスの車内でのことです。プール帰りで皆が疲れて眠りこけているところへ、乗り越さないために一人だけ睡魔と戦って頑張って目を覚ましていて、皆を起こして回る少女の姿が描かれています。この描写をワトソンさまが04/11/13付のコラム「プール帰りの女の子たち」で取り上げられ、「お気に入りエピソードのひとつですが、同時に違和感も感じます。唐突な感じがするのです。」とされていました。このとき僕も投稿していて、恐縮ながらログを再掲します。
《これは「昔の自分もそこにいるよう」な題材であることから、どちらかというと解釈というよりは、読んでいるそれぞれが自由に連想を働かせることで物語の幅がでてくるように描かれたシーンではないかと思います。
ただ敢えて言うならば、祐巳が現在生きている現実の世界は、リリアンや花寺の人たちで賑やかな生き生きした世界です。そこから離れ、少し退行することで祥子の心に最も寄り添う、といった終盤での祐巳の姿につながっていったのではと考えます。デリケートな問題なので皆でワイワイとやっているところでは見過ごしてしまう点があるのではないだろうか、と思われるところです。
「作戦」というのは祥子のためを思って皆が動くという罪の無いものなのです。しかしそれでも、曝露的で乱暴なものではないかという疑問を祐巳は感じていったのではと思います。祥子は強い人なので少々のことでは傷付かないかも知れません。しかし、幼子に対するような気持ちで祥子の男嫌いという問題は大切に扱わねばならないとも言えます。祐巳の迷いというのは優しさの表れなのでしょう。そのような意味で心理状態の変化のきっかけとして捉えられると思います。
特に報われることはなくとも、義務感やら責任感やらで必要なことを一人で頑張るというのは、祥子の姿に良く重なります。そしておそらく、祥子のそのような性質は随分昔からのものなのでしょう。さらに深読みすれば、緊張を解くことができないという姿勢は男嫌いの症状にも少し関係があるようにも思われます。より幅のある祥子に対する祐巳の理解が、プール帰りの女の子の姿に仮託してなされていったのではないでしょうか。》

「内なる少女」の物語

今読み返してみるとその少女の姿は今の祥子の多くの場面での原則として力を及ぼし、姿を現すような中心的なものを象徴する存在として描かれていると思います。祥子の中の人、とでも言えば良いでしょうか(笑)。本質というと言いすぎなのですが、中核的な部分がいくつかあってそれが例えば祥子の場合は厳しい態度などの「鎧」をまとって出てくるのではないかと。
「幼い姿」との関連からは次のようなことも言えると思います。かつて怪我をした鵜沢美冬をなじり、まるで突き放すかのようにハンカチを渡すことしかしなかった少女は、皆を起こして回る少女にいつしか変容していたのだ、と。
[▽続きます]

瞳子と「演劇」を中心に① 祐麒が見た瞳子の素質

月も改まって今日は「妹オーディション」の発刊日。「妹」の字を冠するとはずいぶんとまた直截なと思いつつ、楽しみにしております。土曜が休みで金曜の深夜にじっくり読める、という方は多いのではないでしょうか。

一人の中の対立軸

「『マリア様がみてる』アレンジ日記」さま〔id:asax〕は『イン・ライブラリー』の「のりしろ」の中の一節をさして

「別れた時と同じ場所、同じ姿勢のままで待っていた。」と何だか祐巳ちゃんの言いなり(操り人形みたく・・・)になっている様にも見られる訳です。

という指摘をされています。
「のりしろ」部分での瞳子祐巳のやや上滑り気味の雰囲気と比べて落ち着いていて、自己沈潜とでもいうような考え事をしていたのではないかという印象を受けました。深刻な話に祥子さまがつかまっているのかもという瞳子の連想が暗示的です。そこでこの場面でもそうだったのだろうと思ったのですが、確かに物言わぬ人形をかたどっているようにも読めますね。(このような読み方には気づきませんでした。さすがは瞳子ファンの方です。)
瞳子の描かれ方については少し考えるところがありまして、一人の人間の持つ重層性とか多面性の不思議さということに注力されているように思うのです。確かに祐巳の目から見たときの「分からなさ」というのは祥子と同じようなところもあって、祐巳の視点に立って読者も考えたり感じたりした上で他にもいろいろな見方ができるのでは、という楽しみが提供されています。…未だに祐巳にとって祥子が「宇宙人」の面があるというのは驚きです。それ故に求め方は強くなるのではと思います。
瞳子はこれに加えて、同じところに根ざしたものが別々の表れ方をしているようです。あえて言葉にすれば…

大胆さと慎重さ

チェリーブロッサム」での行動力と「レディ GO!」での玉転がしにみられるような慎重さ。

親しみの感覚と荒涼とした心

外部から入学してきて右も左も分からない乃梨子にかける言葉は温かく優しいです。また、「レイニーブルー」や「パラソルをさして」では祥子や周りの状況に精一杯気を使いながら付き従っていたとも取れます。しかし可南子に対しては酷薄だったり、祐巳に対しても辛辣です。「ジョアナ」では瞳子の冷徹な面が良く出ていますね。

快活さと自己抑制

瞳子祐巳の前に出てくるときは楽しい場面が多いのですが、すっと身を引くこともあります。「子羊たちの休暇」での場面や、「略してOK大作戦(仮)」での帰り際など。私もそれほど暇ではありませんから、と言っているところもあります。

自立心と依存心

祐巳の働きかけをきっかけに現実検討力に満ちた姿を取り戻した瞳子は、自立的でしっかりとしていて、エイミーに譬えられるところでしょう。祐巳の言うことをまるっきり聞いていたとしたら、それはそれでおかしなことになるところです。しかし祐巳にすっかり依存しきったような面もさらりと書かれたのかも知れませんね。

「我が身を捨ててしまう」話

さてそうするとどちらが本当の瞳子に近いのだろうかといった考えも出てきます。しかしその前に、共に「演劇」が重要な題になり、瞳子の立場に立ってみると「ジョアナ」と通低していると思われる「銀杏の中の桜」を見たいと思います。
これは、それぞれの立場での自己犠牲の話というふうにも取れます。最大の自己犠牲を行ったのは志摩子乃梨子です。互いのために身を捨てようとし、そのこと自体によって普通では得られないような大きなもの、友情(または「姉妹愛」)や信仰の純粋性の証を得て不安から開放されています。祥子と令は薔薇様というあまりにも良い位置にいて、自己犠牲というには無理があるかもしれません。ただ、わざわざしなくても済むような努力を義務感にかられてしています。
一方瞳子は堂々と随分危険なことをしています。「演技」がうまいということから本当は相当怖かったのでは、という見方もあるでしょう。また、乃梨子の鞄の中に手を突っ込むという行為も見つかったら断罪されます。「悪いこと」の中に身を投じたとも言えます。止める人はいませんでしたが、場合によっては他ならぬ瞳子自身のために中止することを奨める人がいてもおかしくありません。
では瞳子にとっての動機は何だったのかというと、乃梨子たちへの友情、薔薇様たちのために役立ちたいといった気持ちはあげられます。それが無くては意味がありません。ただそれにも増して強く感じられるのは、自分の気に入った方法なら是非やりとげたいという強い意志なんですね。そのためには自らが犠牲になりかけてもかまわない、といったような。修正は加えられましたが多くは瞳子によるプロデュースです。そのときの瞳子は生き生きとしていたと思います。

荒ぶる幼稚園児 ― 御し難いがエネルギーに満ちた「子供」のイメージ

銀杏の中の桜」や「ジョアナ」で瞳子を動かしている中核的なものや瞳子らしさというのは何かを考えるとき、祐麒瞳子に対する評が手がかりになると思うのです。「真夏の一ページ」で「ボーイミーツガール」の後、帰りがけにバス停で祐麒祐巳が話し合っているところです。

「あの子、可愛いね」
さらりと祐麒が言った。
「可愛い!?」
ああいうのがタイプか? って、祐巳は、驚きとちょっとした抗議を含んだ声をあげて弟を見た。(中略)
「幼稚園児を眺めて『可愛いなぁ』って思うことない?そんな感じに近いかな」(中略)
「…別に、わかってくれなくてもいいや。俺自身も、誰かに説明できるほどはよくわかってしゃべっているわけではないから」

直感的で曖昧なところこそ、何かの真実を示しているのではと思います。
幼稚園児とはまた随分突拍子もないですね。この後祐麒の好みのタイプに話題は変わりますが瞳子はあまり当てはまらず、祐麒は普通の意味での女の子の可愛らしさがあると言っていたのではないことが分かります。また、か弱く大人に頼ることしかできない小さな子供をあやすときに感じる「可愛さ」とも違うようです。祐巳も「ああいうの」と思っています。
幼稚園児というと第一に思い浮かべるのは実際のところ、ピーピーと煩いことです(笑)。天使のように愛らしい面もありますが決してそれだけではない。そして中には大人にとってはどうしようもなく御し難い子供もいます。周囲の大人の対応が悪いためであることもありますが、しかし同時に素質としか言えないような癇の強さに手を焼くということもあるのではないでしょうか。また、わがままでもあります。それは大人の目から見れば悪いこと、困ったことです。しかし当の子供からすれば正当性があるのかもしれません。幼稚園児を穏やかに余裕を持って「眺める」ことのできる立場にいたら、そのような未分化で困った部分もひっくるめた全体を「可愛い」と言えそうです。大人が当たり前のことのように身に付けている自己統制の枠から、どうかすればはみ出してしまいそうなエネルギー祐麒瞳子に感じたのではないでしょうか。

付記

『ほぼプリキュアの決意マックスハート』さまのところで、ポルンをめぐって子供の持つ特質や子供に対する評価について詳しく述べられています。(第一次ポルン戦争)
[▽続きます]

ジョアナ④

第4章「重荷」はそれぞれが持っている悩みや希望を中心に書かれ、四姉妹のプロフィール紹介といった意味合いが強いところで、ベスの「人形」についても詳しく書かれているところです。

ベスは人見知りが激しくて学校へは行っていなかった。行ってみたことがあったがあまりにも辛そうなのでそれは諦めて、家で父親に勉強をみてもらうことになっていた。父親がいなくなり、母親が軍人援護会に精魂を傾けなければならなくなってからも、ベスは堅実に一人で勉強を続け、できる限りのことをしていた。ベスは子供ながらも家の切り盛りが得意で、ハンナ*1を手伝って、働きに出ている家族のために家をさっぱりと快適にするようにしていた。しかし何かの見返りを望むのでもなく、かわいがられるだけで満足していた。
長く静かな日々だったが、一人ぼっちでじっとしていたわけではない。彼女の小さな世界は想像上の友達であふれていて、そこでは働き蜂のように忙しかった。ベスもまだ子供で、通例通り自分のペットが大好きだったので、毎朝六体の人形を抱き上げて服を着せてやらなければならなかった。これらの人形のうちに五体満足で見映えのするものは一つも無く、ベスが引き取るまでは打ち棄てられた存在だった。姉たちが大きくなってこれらの人形が要らなくなったとき、エイミーが古くてみっともないものを持ちたがらなかったのでベスに回されたのだった。
そのような事情もあって一層ベスは弱った人形たちを大事にし、病院を作った。木綿でできた体にピンを突き刺したことはないし、ひどい言葉をかけたりぶったりしたことも一度もなかった。最も醜いものに対してもほったらかしにして悲しませるようなことはなかった。尽きない情愛をもって皆を養って服を着せ、看病しながら可愛がっていた。
この中で一つ見捨てられた人形の残骸があったが、以前はジョーの持ち物で、波乱万丈の生活を送ったあげくぼろ入れの中に破損物として放置されていた。そのわびしい救貧院の中からベスが救い出して自分のところにかくまったのだった。
頭部に髪は無かったのでこぎれいな帽子をかぶせ、四肢もみんな取れてなくなっていたので毛布で覆ってそれを隠し、この癒えることのない病人に最も良いベッドを提供した。

ささやかで、しかし同時に切実な話

ここでは名前は出ていませんが、その特別な人形の名がジョアナ(Joanna)であることが後の方で分かります。残骸(flagment)とされているように、もはや原形をとどめていないほどの状態になっています。新鮮な空気を吸わせるために外に連れていったり、本を読んでやったりと、特にこの人形をベスは良く面倒をみているのですね。
人形というものはいろいろと豊かなイメージを起こさせるものですが、特にジョアナというのは陰惨と言えるほど否定的なものです。繕いようもないほど壊れていて、見捨てられています。祐巳に手を差し伸べられたとき、瞳子は一瞬ジョアナを自己のイメージとして重ね合わせ、すぐにそれを否定しています。傷ついていることと見捨てられていることのどちらに一層重きが置かれているのかは分かりません。
「やさしい手」はいらないと思い、なかなか素直に祐巳の差し伸べる手を握り返すことができなかったということからは、傷ついた自分(あるいは、傷ついた自己像)とどう関わるのか、そして他の人は傷ついた人とどう関わることができるのか、といった話が展開されていたのだと思います。それは必ずしも今回始めて出てきたものではありません。
この場面で最初に想起されるのは、二つのことです。

無垢なやさしい手を持つベスと祐巳

とてもささやかでありふれていながら、しかし考え出すとなかなか難しい事柄が述べられているのではないだろうかと思うのです。何の見返りも期待していなければなおさら、そしてそれが真に必要であるほど「やさしい手」と表現されるような、無垢の好意を素直に受け取るというのは瞳子ならずとも難しいことなのではないでしょうか。人それぞれ、その場の状況に応じてとしか言いようのないものですが。何かお返しをしなければと思ったり、微かな屈辱感を感じたりするかも知れません。さらには断固として断ることもあるでしょう。通常は互いの立場を前提としていたり、有形無形の見返りがあってギブ・アンド・テイクの図式が成り立っていたりします。一方的であっては不安を感じ、いろいろなはからいをする。極論すればそれが「大人」というものであって一方的に補充を受けるだけの立場は幼子だけなのであろうと言えるし、一方的であっても全く疑問を感じなければ甘えているとして非難されてしまうかも知れません。
それは「涼風さつさつ」で祐巳が感じた「もらいっぱなしの立場というものは世の中で成立するのだろうか。」という疑問につながるものでしょう。その答えは未だはっきりとは示されていません。
この点、祐巳はかなり上級生としての立場を意識し始めていて瞳子について実際に相談を受けたりはしています。また、劇を是非見てみたいという祐巳にとっての楽しみが用意されていたことも考慮に入れる必要があります。しかし瞳子との「姉妹」の関係を視野に入れていたわけではなく、瞳子に直接期待するものも無かったようです。祐巳はあまり人に求めたことがなく、それ故「妹」をどのように見つけたら良いのかも分からないのではないかと思われるところがあります。(ベスのような献身的な態度とはかなり様相は違っているのですが)たぶんそれが「打算の無さ」であり、人形に対するときのベスが持っている無垢性と通ずるものとして捉えられたのかも知れませんね。

直面するのは難しい

さらに、手を差し伸べられると傷ついた自己像に直面せざるを得なくなるということが言えます。…そのニュアンスは中島みゆきさんの歌『瞬きもせず』の一節「触れようとされるだけで痛む人は 火傷してるから」が良く伝えていると思います。(瞳子の怒ったような態度は、何となく「困惑」している様子のようにも見えます。)これは周囲の思いの他にあるもので、「ジョアナ」の姿は痛ましいものですがおそらく祐巳瞳子の傷付きや失望は知りません。
瞳子は今までも差し伸べられた手を拒絶することがあって、それは傷付きを回避するためのものでもあって一つの姿勢となっていたのかもしれません。あるいは誰も顧みなかった人形を救い出したのがただ一人ベスであったように、めったにそのような人物は近くにおらず、その点が祐巳がベスになぞらえられているのかも知れません。
すると「この人は、何を言っているのかしら。」というような感慨をもたらす祐巳の提案の過剰さ、「良く寝て〜」云々というあまりにも具体的で指示的な内容は、むしろ瞳子にとって救いではなかったかと思われます。瞳子の本当に必要なことを一面では満たしながら、微妙なズレ具合があったことによって瞳子は自ら行動を起こすことができたと思うのです。瞳子に対する祐巳の関心の向け方が、例えば祥子に対するときの水野蓉子が持っていたような怜悧さを備えていたとしたらなかなか耐えるのは難しそうです。
人に手を差し伸べるとき、さらに傷つけてしまうことは案外多いのかも知れません。ベスが決して人形たちにピンを刺すようなことはしなかったように、祐巳瞳子を傷つけることは無かったようです。

*1:マーチ家のお手伝いさん

ジョアナ③

「わぁ、美味しそう。」と二人して言っているかのような、ガーリーでキュートな新刊表紙です。誰の手作りなのでしょう(と、「手作り」に決め付け)。
…すっかり間が空きました。続きです。

それから15分間というもの、この誇り高くて繊細な少女はずっと忘れることがないであろう恥ずかしさと苦痛にさいなまれた。他の生徒にとっては滑稽で些細なことだったかもしれないが、彼女にとっては過酷な体験だった。というのは生まれてからの12年間、愛情のみによって育まれていてこの種の衝撃というのはこれまで遭ったことがないからだった。家で自分はこのことを話さなければならず、みんなは自分にいたく失望するだろうという考えのおかげで、手の痛みと心の疼きを忘れてしまうほどだった。

予想通り、帰ってからは母親と姉妹3人からそれぞれの反応が十分に得られるわけで、いかにエイミーが家族から大切にされているかが分かるところでもあるのですね。[▽続きます]

ジョアナ②

先日歯科医に行きまして右下奥から三番目の歯をかなり深く削られたのですが、昨夜からずきずきと痛み出しました。痛み止めも効きません。歯痛というと黄薔薇革命の折の江利子さま。今まで歯痛というものを知りませんでしたけど、侮ってはいけないものですね。自分のは普通程度のものなのでしょうが、さらに親知らずで顔がはれるほどとなると大変な苦痛だったと思います。「なーんだ」という落ちになっていましたが、江利子さまも確実に「戦う乙女たち」の中に入っていたのだろうと思い当たりました。しかし由乃のことを背負いながら明鏡止水の境地に近づいた支倉令と比べると、歯痛はどうにも格好が付かないように見えるのも事実ですね。
休日診療のところを探して朝一番で行ってきます。

瞳子の「演技」の意味

ジョアナ」で描かれた瞳子の内心は荒涼としています。特に私の演技もなかなかのものだというくだりでは、それでは瞳子の日頃の様子は全て外面にすぎず内心は全く別なのではないかという印象すら与えます。
しかし、それはそれで極端な見方だと思います。時々芝居がかってはいるのですがやはり瞳子は快活で面倒見も良いところがあり、その時内心との乖離が著しいとも思えません。なぜ瞳子がことさらに「演技」であると言っているのかを考えると、ユングの「ペルソナ」の考え方が手がかりになると思います。
もともと自分の上につける仮面を意味しており誰もが持っているもので、世の中に向かい合うために不可欠のものです。自分はこうでありたいと思い、いつしか本人のものとしてしっかりと身について「人となり」を作りあげるしくみをさします。エイミーの表象するのは瞳子のペルソナなのでしょう。…新しい言葉を持ち出しておきながら力不足のため、このあたりを深く書くことはできません。すみません。
ここで重要なのはエイミーというのは数々の美点を備えていて、何といっても適応的なことです。
一方、ジョアナはその下に隠された瞳子の本来の姿である、とするのも短絡的に過ぎます。ただ、普段の自らの姿勢に影響を及ぼしているのかも知れない直視できない影の部分もあることに気づきはじめ、その様子が「ジョアナ」で描かれているのではないかと思うのです。何かのきっかけがあって意識することが無ければ自分の様子をさしてことさらに仮面や演技などと言う必要は無く、自分そのものであって問題ないものです。ただ、今のあり方を見直す必要や違和感を薄々感じるとき、その動機となっているものを垣間見たり普段意識しているのとは違う別の自分があることに気づきはじめます。
珍しく瞳子視点による「ジョアナ」は演劇部の出来事や祐巳を通しての自分観察日記でもあったのだろうか、と思っているところです。

エイミーの日常

若草物語」第4章「重荷」からの抄訳です。

エイミーはできる限り自分の課業をこなしていて、お行儀は模範的だったので叱られずに済んでいた。気が良くて、努力無しに周りを喜ばせる恵まれた才能を持っていたのでクラスメイトにとても人気があった。小ぢんまりと品が良くて、絵のほかにも曲を12曲弾き、クロース編みをし、フランス語を三分の二以上発音を間違えることなしに読むことができるのは賞賛の的だった。また、パパがお金持ちだったころのことをあれこれと物悲しげに言うことがあってとてもいじらしいのだった。それに、エイミーの使う長い語句は周りの少女たちに「完全なまでに上品」だと考えられていた。
みんなが彼女を可愛がるので、ささやかな自惚れやわがままが強くなっていき、すんでのことで甘やかされて育つところであった。しかし一つのことが、その自惚れを相当押しとどめることになった。従兄弟のお古を着なければならなかったのだ。

みんなに好かれる良い子で、少し無理をして背伸びをしているような向上心と才気があり、のびのびとわがままも言える状況のようです。「見た目と地」として瞳子に重ねられているのは恐らくこれらの全てなのであって、わがままという点だけではないのでしょう。自らの可愛らしさを知り、遠廻しに主張しているように見えるところもありますね。
上演時間が足りなくてカットされた塩漬けライムのエピソードというのは、とても流行っているのだけれども持ち込みを禁止されていたものを学校に持っていき、張り合っていたジェニー・スノウに告げ口されて先生に叱られるという話です。塩漬けライムというのはそんなに夢中になるほど良い物なのか、詳細は分かりません(笑)。第7章「エイミーの屈辱」で手をむちで打たれたあげく教壇に立たされるところです。
[▽続きます]