くりくりまろんのマリみてを読む日々

瞳子と「演劇」を中心に ⑫ ― 感情との交流

…そして、祐巳瞳子の役を聞き「ピョンコピョンコ」と飛び跳ねて喜ぶところは、瞳子にも何らかの感慨を与えたに相違ありません。瞳子に対する共感を示すという点では最上のものであった可能性もあります。演劇が題になっているシーンでこのような全身を用いた表現がされているのは、必ずしも偶然ではないのかも知れません。
ただこれらのことは他にも多々見受けられるところであって、特に瞳子において際立っているように見えるというにすぎません。例えば類似のものとして…
・「立ち上がって、身を乗り出して、顔を真っ赤にして、テーブルを叩いて」いる令を由乃がひややかに見つめるところがあります(『妹オーディション』)。
由乃ジェスチャーで「反対」する場面があり(やや形式化された身体的表現と言えましょう)、このようなところは何となく似た者姉妹です。
・ハンカチをキリキリと絞って怒りを表す祥子。
これは、やや芝居がかっています。
…などが描かれています。

祐巳の「百面相」はバイパス(抜け道)?瞳子の場合は?

ところで祐巳にもこのような瞳子の特徴と類似する点があり、他ならぬ「百面相」です。傍目からはややユーモラスであり、時には場を弁えないものになるのでしょうが、取り繕いのない自然なものであることは両者に共通するところです。
祐巳はどちらかというと訥弁であまり流暢に話すほうではありませんし、柏木氏に言われているように普段は嫌悪感などを直接表すことはしません。それでは捌け口が無いということにつながります。しかし百面相というからには、時には不快な気分などあまりよろしくない感情も出ているのかもしれません。どちらかというと不都合なものも含めて、感情との接触が無理することなく図ることができているという意味があるように思われるのです。
瞳子にとってもそうなのかもしれません。この観点から演劇との関連を考えると、劇の中では怒りや憎しみや悲しみといった日常では不都合な感情も積極的に扱われています。「シンデレラ」でも、劇であるから安心して見ていられるのであって、シンデレラを苛める姉たちというのはもし生々しいものであれば相当おぞましい様相を呈するものでしょう。…心理療法の一分野として演劇が位置付けられるとき(演劇療法)、一番最初に期待されるのが感情の吐き出し効果ですし、次いで役を通してさまざまな種類の感情との交流が容易になることも期待されています。役に関して言えば良い人ばかりでなく悪役もいます。そして本人の内面的布置とも密接な関連を持ち、どうしても役と沿うことがなければ可南子のようになかなか掴み難い、しかし強い抵抗を感じるものでもありましょう。…マリみてで劇の話が出て来るときは、本人の内面との関わりという側面ばかりが扱われているわけではありません。しかし可南子の場合はまさにその点が重要でしたし、役を嫌がる祐麒、役を喜びそうなアリスなど、関連性のあるものとして語られています。
日常では「演技」する必要を感じ、物事に対して冷静な姿勢を取ることの多かった瞳子はどことなく窮屈そうです。しかし、最も原初的な部分で演劇との親和性を持つ瞳子は、知らず知らずのうちに演劇の持つ表現形態に惹きつけられ、そこに豊かな感情の世界を見出したのではないかと想像されるのです。演劇を内側として見れば、日常という外側よりはるかに自由でリアルなものではないだろうか、と。

付記

非言語的な面に着目して、冬紫晴さまが正面だあれ?と題して『薔薇のミルフィーユ』で「正面に回る」場面が三薔薇のそれぞれの物語の中で現れていることを指摘されています。類似した身体の挙措(「型」)によって、異なる情景(「場」)が出来しているありさまと言えばよいのでしょうか。
柏木氏と対峙した後、部屋から出て行くときの祐巳の様子は剣呑で隠微な感じです。
意味合いはよく考えようとすると難しいのですが、ここでどうしても連想してしまうのが「涼風」で祐巳に服を脱がせかけられての「僕は脱がすのは好きだが、脱がされるのは苦手」という言葉です。
日頃の姿勢をも知らず知らずに含んでいるとして翻訳すると…
「脱がすのは好き」:柏木氏の手にかかれば温厚な人物でも普段の態度を脱ぎ捨てて怒らせることができます。柏木氏は嫌悪感を露わにする祐巳に手応えを感じて満足の様子で、ここまでは予想の範囲内です。
「脱がされるのは苦手」:苦手というのは必ずしも嫌いとは限らず「慣れていないから不得手」というふうにも解せます。不得手だから手伝ってほしいとまでいくかどうかは別として、この場面では多少うろたえながらも、微かに柏木氏は生身の自分を祐巳に知ってほしいという気配を発しているような気がします(気のせいでしょうか)。そのような矛盾を抱えながらの意思を祐巳が感じ取り、身を固くするしかなかったのではと想像します。
[▽続きます]

瞳子と演劇を中心に⑪ 演劇の周辺

マリみてでは人物の関係が、それぞれどのように変化してゆくのかということを軸に話が展開されています。しかし人物どうしの相互関係とはまた違った視点で注目したいのが、深く特定の活動・物事に関わり、しかもそれが何らかの表現行為へと結びついている様子が描かれていることです。瞳子の他にも幾人かがいます。

音楽

本格的に音楽の道に取り組むとなると、生活のほとんどを練習に捧げなければなりません。在校中の蟹名静も、他のことにはあまり手が回らないとのことでした。
…「のだめカンタービレ」を読むと音楽を学ぶ人たちがの生活ぶりが良く伝わってきます。音楽の分野に限らないものでしょうが、どのように音楽を続けていくかという進路の問題も重要なものであることが分かります。一年留学を先延ばしにするというのは大変なことだったでしょう。(進路と言えば、あみだくじで決めたという芸術学部で鳥居江利子は今何をしているのでしょうか。)

記事を書く

ふと思うのは、三奈子が薔薇さまたちと同時期に高等部で過ごせて幸せだったと言えたのは(『いとしき歳月(後編)』)、記事を書くという手段・能力を持っていたからではないかということです。それがいかに「創作」を含み、山百合会に迷惑をかけて筆禍を招こうともです。そして三奈子の何かに衝き動かされているような情熱が紙面に現われ、生徒たちを楽しませていたのだろうと想像されます。それ以後の三奈子が一歩退いた形で祐巳たちを見ていて落ち着きを感じさせるのは、十分に満たされるものがあったからだろうと思われます。

写真

蔦子のかけている眼鏡は伊達ではないのですが類型的には「分析・客観視メガネ」であると言えば良いでしょうか。蔦子は物事が良く見えます。しかしそれはともすれば自分自身をも良く見えるということであり、却ってつまらないことになりかねないものでしょう。自身が写真に写るのは乗り気でない、という笙子との話の中にそれが窺えます。しかし、写真という方法があることで蔦子はその特質をうまく生かし、自分も他人をも楽しませることができるという面があるのかも知れません。

「感激屋」乃梨子の持つ瑞々しさ

入学当初から瞳子と付き合いができた乃梨子です。「銀杏の中の桜」では住職から見せられた仏像にすぐに引き込まれる様子が描かれます。『真夏の一ページ』で祐巳が自分は到底身につけることは無いだろうと思ってショックを受けた乃梨子のクールさは建物で言えばファサード(正面から見たときの外観・門構え)であり、そのすぐ内側には瑞々しい感性の世界が広がっているのだろうと思われます。薔薇さまの入れたお茶に感動するところは、ふとその感性が目の前の人物に向けられたものだったのでしょうか。『羊が一匹柵越えて』で乃梨子は一人白ポンチョに刺繍を施す瞳子に親しみの情を示します。乃梨子瞳子との間には、ちょっとしたクリエイティブ仲間の感覚が横たわっているように思われます。

瞳子と演劇の親和性 ― 身体と感情との結びつき

瞳子はバイオリンを能くするなど芸事の面で才能があること、あるいは努力を惜しまないことを窺わせます。そして特に、演劇と瞳子の間には親和性、あるいは演劇者としての徴候があるように思われます。
演劇が一体何を「表現」しているのか、なぜ演劇においてリアリティを持ってそこにその役の人物が「いる」と感じられるのか。
あくまで切り口の一つとしてですが、演劇とは生々しい人の感情を表現するものであり、感情の表現が最もうまくなされたとき、リアリティも生じてくるという見方があるでしょう。
音楽でも絵画でも感情とは強い関連性があります。その中で、感情というものを最も直截に扱おうとしているのは演劇ではないだろうか、と。
そして、例えいかに「感情豊か」といっても外から窺うのは難しいものです。そこで手がかりとなるのは(顔の色艶を含めた)表情であり、声の抑揚であり、そして全身での所作・体の動きです。演劇での感情の表現ということにおいて、身体性は切り離すことのできない要素と言えましょう。そして、観客が知覚することができるのは「表現された感情」のみであるとも言えます。
パラソルをさして』から。

・「違ーう!」
両手でグーを作って、思いっきり上から下に振り下ろす瞳子ちゃん。そんな激しいアクションをギャラリーの皆さんに披露しては、いざ泣く演技をするときにマイナスなんじゃないだろうか。
瞳子ちゃんは茹でたタコみたいに真っ赤な顔をして、その場でジリジリと後ずさりした。

瞳子の言葉の意味内容はさて措き、文中での「演技」とはまた違った意味合いで極めて「演劇的」な場面だと思います。前者からは何がどう「違う」のかはさほど明らかではなく、祐巳もそれをどう解したのか示されていません。しかし、「違う」のだという強い気持ちはよく伝わってきます。この後はっと気付いたようになって祐巳に顔を近づけて囁くシーンが続きますが、それでも瞳子所作の一つ一つが生き生きとしたものに感じられます。
後者でも、顔の色艶、そして全身の雰囲気から、強い焦燥感や葛藤が感じられるところです。
自称「女優」である瞳子が「演技」をしているという意識の埒外で、却って演劇に近接する「身体全体を通しての感情表現」がなされていることが示されているようです。そして言わば天然のものであるこれらの瞳子の特徴は、やはり野放しにしておいては単なる特徴に終わってしまうものであり、本当に「表現」と言えるようになるには訓練によって洗練される必要があるものなのでしょう。
そして、何かを隠蔽したり目的を果たすという意味合いでの「演技」というのは瞳子自身が気づき光の当たっている側面であり、演劇にまつわる営みの一部でしかない可能性もあるのかもしれません。

付記

少し勢い込んで書いてしまった感もあるのですがぼくは全く演劇については素人です。付け焼刃でも、これを機会に少しでも知ろうと思いまして次のような本を注文しました。というより読み始めるのが遅すぎです。反省。
演劇入門 (講談社現代新書) 演技と演出 (講談社現代新書) 演劇やろうよ!
[▽続きます]

姉妹制度の知恵④ ― 可南子と夕子の「姉妹」性

可南子について祐巳がこんな感想を述べています。

口に出して言わなかったけど、可南子ちゃんにとって、お姉さまと呼べる人がいたら、それはこの世で夕子さんだけなのかもしれない。祐巳は、そう思った。

この世でただ一人、といった強い言葉がさり気なく出てくると恍惚としてしまいます。祐巳と可南子のこの場面でのやりとりからは、姉妹制度に関連していくつか注目されるべき意味合いが見て取れるでしょう。
・第一に、可南子の話は「姉妹関係」の一つが描かれていたのではないかと気付かされます。祐巳の妹候補という形で見られることが多く祐巳もそのような気分でいたのですが、「姉妹」の形成または変容の物語でもあったのかも知れないと。祐巳はたまたまそれに関わることができた稀有の人です。
・そして、夕子は学園とは直接の関わりを持たない人であることが目立ちます。にもかかわらず祐巳は可南子と夕子の間柄を垣間見ることによって「姉妹」になぞらえました。すると、見方によっては「姉妹」が学園の外でも存在しうるものであることになります。これは、はっと不意を衝かれるような事柄ではないでしょうか。学園に固有で特有の制度としてこれまで描かれているとばかり思い込んで安心していたら、その実、より普遍性を持つ関係を表すものでもあることが示唆されています。マリみての持つ世界観が、急激に身近に感じられてくるわけです。
・さらに可南子が「俗なこと」として祐巳との姉妹関係を早くから拒む一方、妹は持つかも知れないと言っています。この違いはどこから来たのでしょう。そしてどのように、あるいはなぜ「ただ一人」と言えるようになり得たのでしょう。
・この場面では過去の思い出として語られており、夕子は過去の人となっています。しかし夕子はお姉さまと「呼べる」人、すなわち可南子にとって現実味を帯びた今現在の存在でもあることが暗示されてもいるようです。祐巳が「口に出して言わなかった」一番の理由は、ことによると可南子と夕子との間を現在のものとして受け取ったことによるのではと思います。気楽に評を述べずに今現在のものとして尊重した、あるいは可南子に対して特に言う必要を感じなかったのだと思われます。
以上のことはほとんどが、祐巳が抱いた一つの感想に過ぎません。しかし「涼風さつさつ」以来の可南子の話がこの一節で一挙に引き締まり、総括されているようです。作品が祐巳を通して発する強いメッセージとも言えましょう。可南子と夕子の関係がどのようなものであるのか、そこから滲み出てくる姉妹制度の意味合いがどのようなものであるかを考えてみたいと思います。

制度の多面性 ― 「俗」の部分を除いて考えると

姉妹制度で注目されるのは、その多様性です。「三薔薇」のそれぞれの物語という形で違いが強調されていますが「標準的な姉妹像」というものがあるのかどうか、あるとすれば果たしてどのようなものかといった問いを敢えて立ててみるのも逆に興味深いかもしれません。…さらに重要なのはなぜ多様でありうるのかということでしょう。これらについては後に改めて考えてみたいと思います。
そして「姉妹」は多様であると同時に、相反する事柄が状況に応じて入れ違いに立ち現われてくるといった鵺のような多面性、あるいは一見相反するものを同時に実現することで新しい意味合いが出てくるような性質を持っているのでしょう。端的な例として、『B.G.N』では制度が「公」のものであると同時に「私」のものであるらしいことが示されています。
厳密に考えようとすると難しいのですが、「公」と「私」の対比と合わせて、可南子の言う制度の「俗っぽい」面(『涼風さつさつ』)はいくつか表わされていると思います。
・『チョコレートコート』の冒頭では寧子の視点から、日頃の生活での波風の立たない、「ほどほどの」楽しみが姉妹関係を通して得られるであろうことが強調されています(寧子の寧は安寧の寧…という含みがある気もしてきます)。この「ほどほど感」は「さつさつ」でのパンをめぐるエピソードから伺われる可南子の中庸ということを知らない生真面目さ、そして日頃の生活の中から楽しみを見出そうとはしない姿勢とはなかなか相容れなかったと思われます。生真面目な人物の多いマリみての中でも可南子のは少し群を抜いています。物腰の柔らかさが前面に出ている「マリア様の星」では、生真面目さが適応化したと言えばよいのでしょうか、可南子の育ちの良い感じに繋がっているようです。
・あるいは、「俗」というのは俗世間という言葉があるように「身近な社会的つながり」を表わします。殊に薔薇様というのは姉妹制度を通しての学園とのつながりが多いものであり、可南子はそれらを俗なものとして切り離していたのだと言えましょう。
以上のように、可南子と夕子の関係は姉妹制度の中から「俗」の部分、さらには前回述べたような'hold'するといった機能を取り払い、純化して取り出した、「私」の側面が特に強いものではないか、そして純化して取り出すには夕子は学園の外の人である必要性もあったのではと思われるわけです。

付記・「マリア様の星」チャート図を考え中です

ほぼプリキュアの決意マックスハートさんのところで、異なる要素を縦軸と横軸に置いてチャート化し、登場人物の成長や変化の力動性を詳細に考えるということをされています。
いいなぁ、ぼくもそういうのをやってみたい!と感銘を受けました。
ところでベクトルを用いたチャート図というと「星の一生」の説明で有名なHR図というのがありますね。これになぞらえて星の大きさのような概念も入れ、可南子・夕子を含めたそれぞれの姉妹がどういう位置にいるのかを示せないかと思いました。題して「マリア様の星」チャート図です。…早くもネタ化の予感がしますが何とか頑張りたいです。書いてしまった以上はやめにすることはできません(汗)。
[▽続きます]

姉妹制度の知恵③ ― マリみての心性は重層的

前回、母性などという言葉を持ち出し、だいぶ違和感を持たれた方もいるかもしれません。あるいは今更当たり前のことと思った方もいるかも知れません。誰もが容易に了解できるようであると同時に全てを語ることは到底不可能な大きな概念ではありますが、マリみてではどのように描かれているのかを姉妹制度の意義も織り込みつつ、考えていきたいと思います。

重層的で、多様なものを含む

マリみてで描かれる「姉妹」の多くが恋愛感情もしくは類似のもので結びついているように見えます。例えば「レディ・GO」での祐巳の「お姉さま、凛々しい…!!」の下りなどは恋愛感情に特有の陶酔感を思わせ、微笑ましいです。また、「ロザリオの滴」での志摩子が感じたのは私的な気持ちの純粋さが保てなくなることへの抵抗であり、乃梨子もそれを良く理解していました。
しかし最近では乃梨子志摩子に対して敬慕というにふさわしい気持ちをはっきり感じていますし、祐巳も祥子に対して「お母さん役」をつとめようとしており、当初の未分化な憧れとはかなり違ったものです。まだ年が若く、子供と大人の境界上にある年齢であるからさまざまな感情が入り混じっているのだろうというのはおそらく適切ではありません。
このような複雑な気持ちが出てくるのは、心性の分化と深化がなされてきたのだと言えましょう。マリみてでそれぞれの姉妹の結びつきを端的に表す言葉を見つけるのが難しいように見えます。独特なものだから適切な表現が無いということもあるのでしょうが、多くの場合重層的になっていて、「○○のようでもあるし○○のようでもある」という言い方にならざるを得ないからかもしれません。

"hold"するということ

そして姉妹制度が心性の重層性を促しているとみるならば、それは姉妹制度少々扱いに手こずらざるを得ないようなさまざまな気持ちをうまく抱きかかえ、維持する助けになっているからではないでしょうか。このニュアンスを良く伝えるのは、英語で"hold"という言葉だと思います。抱きかかえる、支持する、…etc.ですが、上手に"hold"し続けることにより安定感を得ることができ、未分化な感情は分化して重層的になっていきます。「白薔薇のためいき」でうっとりと「素敵な方でしょう」という志摩子は、当初からの聖との緊張感のある絆を維持しつつ、やっと今の段階になって安心して陶酔感にひたることができているようです。
ここで"hold"するということが、「押さえ込む」という意味をも含んでいることを合わせて考えたいところです。例えば由乃が令と言い争って、ここでロザリオを突き返したらまた「黄薔薇革命」になってしまう、ロザリオをかけて来なくて良かったと思う場面では、姉妹制度がひとつの歯止めとなって暴走を食い止めるはたらきがあることを示しているようです。また、「ロザリオの滴」では志摩子は一旦制度によって箍を嵌められたようにも見えます。
そして「チョコレートコート」ではぎりぎりまで気持ちを押さえ込む様子が描かれます。「イン・ライブラリー」では浅香と真純のその後までが描かれているのが注目されるところです。浅香と真純は、失敗に終わった姉妹関係の後に取り残された者同士の残滓のような情緒を共有しています。しかし互いを慮っている点で、失望感のみでは終わらないかも知れないというかすかな希望も感じられます。
「押さえ込む」ということは必ずしも良い方向にばかり働くとは限らないものですが、制度を拠り所にしうる要因の一つであろうと思います。不自由さの中から、新たな意味での自由が得られるように思われます。そして周囲との関わりも視野に入れるならば、姉妹制度は一対一の関係を保証することで安心感を与え、そこからさらに外の社会へと向き合う基盤となりりうるものであり、その点婚姻に類似したはたらきがあるのだと言えましょう。
[▽続きます]

「薔薇のミルフィーユ」感想② ― マリみての次のステージ

マリア様がみてる 薔薇のミルフィーユ (コバルト文庫)

突如現われた要素

少し総括的で抽象的な話です。「紅薔薇のため息」で最も驚いたのは、一見マリみてにそぐわないような「上のステージ」「勝てない」「同志」などといった言わば男性原理的な匂いのする言葉が次々に祐巳に投げかけられたことです。勝つ・負けるとか、たたかうという文脈はマリみての中ではほとんど出てこなかったものです。…もちろん男性原理といっても、本来男性がするべきことなどという意味ではありません。学生でも社会人でも、女性がいろいろな「ステージ」でたたかっていることを少しは知っているつもりです。
マリみての中のたたかいというのは自らの思いや性質をどうすれば良いのかといった、相当内在化されたものを中心としていました。(この点、周囲の状況や江利子などとたたかう姿勢を示してきた由乃は貴重な存在です。)

顕在化してきた祐巳の母性と挫折 ― 言語化を伴う自己認識

そして、祐巳が「お母さん」のようであろうとして深い挫折感を味わうという情景もまた印象的です。マリみてでは随分早くから母性を連想させる話は多かったのですが、特に可南子の話では子供を生み育てるといった、より広範で直接的な母性への認識が扱われました。可南子にとってお姉さま、すなわち「お母さん役」と言える人はただひとり夕子であり、同時にそれは学園内の制度の枠を超えています。そして「妹オーディション」での先代薔薇様方が可南子を評しての「マザコン」、祐巳の「お母さん」という独白がこれに続いています。母性を連想させる話が数々扱われながら、端的な言葉で直截に表現されるに至っているのはそのテーマが一つの着地点に至ったという作品上の「宣言」とも言え、大きな意味があると思います。そして祐巳も(心の中でですが)明確に意識し始めています。…ただ、祥子の面倒をみるときに祐巳が柏木氏にはるかに及ばなかったこと、あるいはさほどの落ち度は無かったにもかかわらず自身ではそう思い込んでいることをどうみるのかなど、まだ考えるべき点は多そうです。それに、どうにも母性的な関係の中に入らなさそうな瞳子がどうなるのかという話も残されているのでは、という想像もめぐらしたくなるところです。
祐巳由乃のまだなしえていない「妹選び」というのは特定の対象に対する深い関わりを持つという、割合年相応の課題と言えます。これは一生にかかわることでもあり、課題となり始める年齢である、と言いなおした方が良いかもしれませんが。
祐巳の母性はやっと形を成しはじめたまだ未熟なものですし、「妹選び」にまつわる課題もクリアになっていません。しかしその上にまた、母性的な面と柏木氏の語るような男性原理に基づく考え方とをどう両立させ、あるいは統合していくのかというさらに難しい課題が早くもあらわれているのかもしれません。それが小笠原家という「家」を通して描かれるのだとしたら、祐巳・祥子の物語とマリみては、次のステージに入り始めているのではないでしょうか。
自らを「お母さん役」とする気持ちは、本来「妹」に対して、あるいは少なくとも妹候補になるような下級生に向けられて然るべきとも思われます。
しかし一通りは次のように解することはできるでしょう。同じ一つの気持ちを発する側と受け止める側の差異は同じ文脈の中にある点でさほど大きなものではなく、容易に混交し、逆転しうるものです。「パラソルをさして」での「聖さまは本当のところ後輩の面倒をみるより、誰かに甘える方が向いているのではないだろうか。」という祐巳の推察が示しているように。決まった「妹」がいるわけではなく、そして既に祥子からは十分な補充を受けていると感じている祐巳が祥子に対して「お母さん」のような気持ちを抱く機は熟していたのだと言えます。
それにしても、祐巳は著しく出鼻を挫かれました。「妹選び」についても祐巳の気持ちに関して言えば一歩進んで二歩も三歩も後退した雰囲気です。もし「姉」というものの無視し得ない属性が「お母さん役」にあるとするならば、その役に失敗したと思っている祐巳が今後「姉」としての自分を想像し現実の中で形作ってゆくことができるのか、とても覚束ない気がしてきます。祥子の境遇に対する先行きの見えない不安を度外視しても、祐巳は祥子の言葉によってもなかなか癒えないような傷を負い、自信を失って今現在の苦悩となっています。

祐巳の「嫉妬」にみる成長の契機

祐巳の柏木氏に向ける嫉妬は、第一には(かつて瞳子に向けた感情と同じように)祥子を挟んで取り合うという構図、そして自分は未熟で柏木氏は「大人」であることによります。しかしそれだけではなく自ら観察しているように、「独占しない」という柏木氏の姿勢自体が祐巳にとっては異質であり、反発を感じてしまうものです。嫌なものでありながら同時にいくばくかの価値を認めざるをえないところに葛藤と成長の契機があるようです。

テーマが「女性の生き方」に拡大しているのでは

祐巳の落ち込みと強い関わりを持った柏木氏と彼が示そうとした言葉の意味は、祐巳がこれから乗り越えるべき高い壁となって立ちふさがっているようです。今の祥子に対する思い入れを越えるような視点が必要だと言っているのでしょう。そして作品のテーマから見た場合のメッセージとして捉えると、抽象的にはこんなことも意味しているように思われます。柏木氏が新しい要素である男性原理的なものを表しているのだとしたら、それは単に乗り越え「勝つ」べき対象ではありません。マリみての中で祐巳たちが獲得し体現してきた母性的な部分だけにとどまらず、(「同志」たり得る)男性原理的な部分をも味方につけることによって、より幅広い女性としての生き方(上のステージ)に至ることができるのではないだろうか。「お母さん役」に失敗したと思っている祐巳ですが、「姉妹」をめぐる母性のやり取りを超えた、あるいは包含するような場所もあるはずです。そんな主題をマリみては掲げ始めたのではないかと思われるのです。
もし母性をめぐるやりとりにだけ収束しきるものならば、祥子との関係を深めた祐巳が何らかの形で絆を維持し、その延長線上で自らの「妹」を作って世代交代が起きてマリみて終結するという形できれいに収まると思います。しかし、広く女性の生き方というものも問おうとするならば、少し新しく、祐巳が強い抵抗を示すような要素も必要だということではないでしょうか。「結婚」という言葉が(どれだけの現実味を帯びているのかは別として)祐巳の前に投げかけられたのも象徴的です。

付記Ⅰ

・「妹オーディション」での祐巳との会話の情景での可南子からは、落ち着いた母性的な雰囲気が濃厚に漂っているような気がします。…それこそ気のせいでなければ、ですが(汗)。ところで長身で長髪という身体的特徴といえば「Air」の美凪、「あずまんが大王」の榊さんといったキャラクタがいるわけで、母性的なものをイメージさせるエピソードを持ってます。何か関連があるのでしょうか。
祐巳が泣いてはいけないと思いつつもやはり泣いてしまうところは、あー、何だかすごく可哀想です。「姉」が直接母親にたとえられているところは今までさすがに無いのですが、グラン・スールを「おばあちゃん」、二世代下の「妹」を「孫」にたとえているところはありますね。それに「白き花びら」での「お姉さまは、偉大だ。」という聖の独白は「母は偉大だ」という常套句を容易に連想させるものです。
マリみてにおける母性というのはいろいろな面から語れるほど出てきていると思いますし、祐巳・祥子について言えばほぼ全編に渡ってと言って良いほどです。
その一方で、今後男性原理的なものがマリみてに入ってきて重要な意味を持つのではという予測をしてみたのですが、その内容はほとんど明らかではありません。柏木氏の言葉は今のところ曖昧でどこまで男性原理的と言えるのか定かではありませんし、どのような行動をし、どのような考えを持っているのかがこれから十分に描かれるのか、あるいはさほどの登場はしないのかも分かりません。しかし重要なのは、祐巳・祥子がどのように新しいものを獲得し、育んでゆくのかということなのですね。柏木氏は祐巳の(そして祥子の)導き手でもなく敵でもなく、言ってみれば「我がものとして取り込んでゆくべき対象」として描かれてゆくのではと思います。
そしてこれと呼応するように「白薔薇の物思い」で志摩子の兄が登場しています。

付記Ⅱ

殿下執務室さまマリア様がみてる「薔薇のミルフィーユ」トラックバックさせていただきます。

この兄貴との関係を見てる感じだと、どうも兄貴が家を出たのは「宗教者として志摩子に勝てない」みたいなところをどっかで悟ってしまっていた、みたいな部分があったのかな……なんてことも妄想してみたり。

孤高の姿勢の強かった志摩子リリアンに入ってからいろいろな人から影響を受けてきたのですが、既に強い影響を与えていた人が最も身近なところにいたのかもしれませんね。
[▽続きます]

「薔薇のミルフィーユ」感想①

祐巳、柏木氏に完敗。
…と、いう風合いの話です。今「紅薔薇のため息」を読み終わったのですが、僕は「真夏の一ページ」所収の「略してOK大作戦(仮)」がマリみての中でも極めて好きであり、その続編のように読めて大変楽しめました。学園から一歩飛び出した形の話の面白さというのは学内でのエピソードの積み重ねが前提にあって、その上で題材が拡張されている点にあるのではないかと思います。祥子の背景にある「家」の話というのも学園内のみではなかなか表れないものですね。
「OK大作戦」では祐巳は柏木氏に心の中で怒り、終盤では「やっぱりお姉さまの立場に…」という結論を得て納得しています。この時の祐巳の示した姿勢は確かに祥子の気持ちに最も添うものではありましたが、時々祐巳が祥子に関して示すやや偏狭な趣きのする考えには微笑を誘われます。
しかし「紅薔薇のため息」では、祐巳は「嫌い」と柏木氏に対して明言して対立する一方、柏木氏が祐巳よりずっと広い視野を持っていることを閃めかされてもはやのほほんと構えていられず、暗転しています。何が祥子にとって一番良いことなのか、理解しなければならないことがまだ沢山あるようです。祥子との狭い二者関係においては祐巳はすっかり満足しているでしょう。しかし、祐巳の妹業も到達点が遠いところにあることが示されていてなかなか大変です。「パラソルをさして」で現れた「世界が拡がる」という抽象的なテーマが、他ならぬ祥子がどういう状況にあるのかを広く見なければならないという形でより具体化し、差し迫ったものになっているとも言えます。
自分は祥子について知らない点が多かった、しかも柏木氏よりも知らなかったのが悔しいというのですが、おそらくはこれから祥子自身が知らなければならないことも共に知っていかなければならないことがあるのでしょう。
「好きにもいろいろある」というのは、第一義的には相手の立場や自分の立場というものを全体的に見なければいけないこともあるし、柏木氏はそういう世界の住人であるということを自分で説明しているのだとも言えましょう。「祥子さまがどう思っているか、とか、瞳子ちゃんのこととか、そういう余計なことを取り去れば、ただ純粋に」好きであると確信を持って言えるような純粋さを祐巳は持っています。しかしこのような祐巳のあり方と違う方向を指し示しているのが柏木氏です。祐巳にとってはこれまでお邪魔虫のような存在でしたが、成長の契機となる人物に昇格しています。…昇格というよりは顕在化したと言った方が良いかもしれませんね。そのうちに祐巳も、柏木氏に対するイメージを変えてゆくことがあるのでしょうか。瞳子に対して持っていたイメージが次第に変わっていったように。
ちなみに、祐巳と柏木氏の関係は「同志」であると柏木氏は表現しています。直接的には、祥子を支える立場にある者として、協働しうるということを示していると思われます。瞳子祐巳の関係についても同じように、瞳子祐巳に実際に会うまではそう期待していた可能性もありそうです。実際は相当違う経過になりましたが。そんな想像をすると、祐巳瞳子の関係も随分過酷な道を辿ってきたのだなという気がしてきます。柏木氏の誘いを断ったという瞳子は、「OK大作戦」でもさわやかに皆の前に姿を現し祥子のことに触れておきながらいつの間にか引っ込んでいます。やや失調を来たしているような祥子を相当気にしていたことでしょうし、心配事が大抵当たる瞳子のことですからああやっぱりと思ったかも知れません。学園内での状況からは祐巳を避けたように見えるところです。しかしただ自分の都合で避けたというより、やはり祐巳たちに任せておいた方が結局のところは良いという積極的な判断があったのかもしれず、信頼感はとうに持っているものと思われます。「OK大作戦」では少し見極める必要があったが今回はその必要も無く、祐巳たちに祥子のことを丸投げしたのだと言えましょう。

注目の柏木氏

柏木氏は《無印》では悪役風の登場のしかたであり、それ以後顔を覗かせるときは的確な行動を取ってサポート役に徹してきました。祐巳の非難する無神経さによって祐巳たちの輪の中には到底入りきれないように見える一方で、祥子からは厚い信頼を寄せられているようです。端役としてしか出てこないので分かりづらい点も多々あったのですが、今回よりはっきりと方向付けられた点もあるので改めてまとめてみたいと思います。数ヶ月前のワトソンさまのコラム《痛くもかゆくもない》で柏木氏について盛り上がっていて書き込ませていただいております。
[▽続きます]

瞳子と演劇を中心に⑩

やさしさを引き出す「妹」であった可能性

「B.G.N」ではじめて瞳子に会ったとき、祐巳は祥子の瞳子に対する様子が妙にやさしく見えたことにもショックを受けています。そして瞳子には周囲の者に何らかの感興を呼び起こさずにはいられない、愛らしい素振りもありました。これは何を意味するのでしょうか。
笙子にとって姉のやさしさというのは写真の中にのみ表現され、今後とも姉との現実での関わりはさほど変わらないであろうと思われます。また、克美の目からみた笙子もおそらく可愛げの無い妹のままなのでしょう。「ショコラとポートレート」での情景は互いの思い付きが重なったことで触れ合う機会ができたという偶然によるところが大きく、ひと時の感興には持続性がありませんでした。
ところで祥子に身近な妹のような存在がいたとしたら、その目には「やさしくない姉」として映ったのではないかという想像ができます。「子羊たちの休暇」で分かるように、特別な折にしか息抜きをすることができない様子は克美にさらに輪をかけたような状態です。祥子は長い間心を凍て付かせたような「笑わぬ姫」であり、蓉子などがいたくそれを心配していました。
笙子は写真を見てこんなに姉はやさしくないと言って泣くしかなかったのですが、それは言い方を変えれば姉から本当はあるのかもしれないやさしさを引き出すことがこれまでどうしてもできなかったことを意味します。
しかし瞳子は祥子から「やさしさを引き出す」手段を持っており、それが瞳子自身の快活さや愛らしさではなかったでしょうか。祥子は遠目には多くの人が憧れるような雰囲気を発する一方で祐巳が《無印》で遠くから眺めていた方が幸せだったと思ったように、もっと近接した一対一の関係になると充足した相互依存関係に入れず何らかの齟齬を来たしてしまいます。それは遠くから見ているだけではなかなか分からない面でもあり、ほぼ唯一祥子に立ち向かうようにして付き合ってきたのが瞳子ではなかったかと思うのです。

負の側面に敏感

もちろん瞳子も祥子との狭い二者関係の中のみにあるわけではない以上、瞳子の素振りが全て祥子によって形作られていたとするのは無理があるでしょう。春になるまで祥子が部活に入っていなかったことを知らなかったというのも、互いの交通が実際にはあまり頻繁ではないことも示しているようです。ただ祥子の硬い姿勢、瞳子の快活さはお互いに今自分が生きていない影のような部分であり、笙子と克美のように違いを意識し反発しあう形ではなく相呼び合う関係にあったのではないかと思います。
ここで「瞳子は可愛い妹を演じていた」というのはあまり適切な言い方ではないかもしれません。これでは嘘つき・作り物のニュアンスを伴いますが、むしろやや誇張された直截な感情の表現がなされていたのだと言うべきです。瞳子にしてもさほど意図的にではなく思わずそのように振舞うというものだったのではないでしょうか。瞳子は祥子からやさしさを、そして祥子は瞳子から快活さと愛らしさを引き出し、強化するような力動性があったのだと思います。そして「やさしく相手に対するだけではなく、やさしさを引き出すのもまたやさしさと言えるのではないだろうか」という考え方があるとすれば瞳子の振る舞いは瞳子なりのやさしさの表れです。
瞳子の主観的な見方や感じ方を想像すると単なる憧れの対象ではなく、そのままでは放っておけないような痛ましさをも感じていたのかもしれません。自分には何か足りないような気がすると述べる祥子その人より、身近な他人の方が傷つきを感じてしまう。これは入学当初の乃梨子に対する態度にも通ずるものがあるでしょう。瞳子には他の人があまり見ないような側面に気づき悲しく思うような感受性があり、繊細さは自身の傷つき易さというより先に、外部への共感にあらわれていたと思うのです。

部活に入っていなくてショック ― 瞳子の期待していたもの

その一方で瞳子と祥子の間は既に熟していてそれ以上の変化が期待できず、限界が見えているようなものだったようにも思われます。祥子が何も部活に入っていないことを知ってショックだったというのは、単に一緒に過ごす時間が減ったという以上の意味合いがあったとすることもできます。
瞳子はもともと多芸で全般的に良くこなすというだけでなく、自発的な関わり方からして言わば「芸事の効用」のようなものも薄々意識していたのではないかと思います(なお、後に演劇において瞳子については多分にその効用は発揮されたと考えます)。そして部活というものは、第一義的には「本人が好きでする趣味的なもの」であると言えましょう。遊びの要素が強いものですが、しかしそれ故に堅苦しい生活から距離を置くことができ、しかも本人の楽しみために自分で選んでするものである点、学園の比較的開かれた場の中でするものであることから、習い事よりさらに意味があるものかもしれません。一緒の部活に入ろうと思っていた時の瞳子はまだ何かに特化して打ち込むものを見つけていたわけではなく、およそのことなら自らも楽しみとして祥子に合わせてゆくことができると思っていたのではないでしょうか。
[▽続きます]