追体験の重奏① ― 「未来の白地図」から

一言の下にネタと切り捨てられかねない、しかしそれでも一つの見方として纏めてみたい、今日はそんな葛藤に満ちた題です。
柏木氏の言葉や後には山百合会も巻き込んでさまざまな考え方があることを知り、それでも祐巳は「私の妹に」と瞳子に言って断られてしまいます。祐巳瞳子に対する気持ちの俄かとも思える昂まりは、情緒の面に限って言うならば祐巳瞳子を家に引き入れるところに主に描かれています。
「かわいそうでならなかった」「肩を引き寄せて抱きしめていたのかもしれない」というのは、自分が守ってあげたいという強い衝動の表れであり、「頬がカッと熱くなる」というのも衝動を言い当てられたことによるのでしょう。祐巳瞳子の間の「姉妹関係」の端緒がどこから具体的に現れてくるのか楽しみにしながら待っていたのですが、それは祐巳の気持ちの変化であり、しかも祐巳が「姉妹関係」に関して持っている文脈のうちのおそらくは最も大きなものに沿っています。以前「薔薇のミルフィーユ」に関して「姉というものの無視し得ない属性がお母さん役にあるとするならば、その役に失敗したと思っている祐巳が今後姉としての自分を想像し現実の中で形作ってゆくことができるのか、とても覚束ない気がしてきます。」と書いたことがあるのですが少し訂正しなければなりませんね。挫折し、回復を経て、再びより強い気持ちが持てるようになったのだと言った方が良いでしょうか。なお「姉」を守るのに失敗したと思い深い後悔の念を持つ「妹」というのは祐巳が始めてではなく、可南子がそうでした。祐巳は(祥子を)愛したいという気持ちを傾ける機会を失って泣き、次いで(瞳子に対して)流れが堰き止められて大泣きすることになるのですから、このようなあり方自体、マリみてはたいへん優しい世界だなと改めて思いました。
さて…

パラさし」・「未来の白地図」にみる心身一如の思想

・手を引いたときの手は、ものすごく冷たかった
・今は何も言わずに冷えた身体を温めてやりたい。疲れた心を休ませてあげたい。

冷たい感覚を祐巳が知ることに大きな焦点が当たっています。
①心の葛藤により、自ら体を冷やしてしまう。
②葛藤そのものは直接扱われることなく、拾われて他所の家で温まってから家族のもとに帰る。
…という形で話を大掴みにすると「未来の白地図」の祐巳の家は「パラさし」での加東景の下宿先の家のようです。かつて祐巳は雨に濡れてすっかり身体を冷やしてしまいました。それが今瞳子の身に起こっているかのようです。身体感覚の生々しさを手がかりにしながら祐巳は自らの体験を瞳子に重ね合わせたのではないか。瞳子が辛い状況にあることに文字通り身をつまされ、今度は自らが瞳子を温めたいと思ったのではないか、ということが伺えるようです。
レイニーブルー」では三題とも、雨が効果的な心象風景として描かれていました。風景は感情と密接な関係にあります。しかし単に心象風景というにとどまらず、感情と身を置いている状況とが一体化して後々まで記憶に残るようなイメージとして構成されるためには、身体感覚が大きな手がかりとなるでしょう。(ちなみに「ロザリオの滴」の終幕、「だったらもう、私は寒くはないわ」は極めて身体的な感覚に重きを置いた表現です。寒さという身体感覚に志摩子の持っていた孤独感が集約されています。関係がスール制度に定位されることでぴったりとくっつくことができると言っているようです。)
中村雄二郎著『術語集〈2〉 (岩波新書)』の「記憶」の項から。

想起的記憶はまったく身体から切り離せるものであろうか。いうまでもなく、人間は心身の高次の統合体であり、いまや人間において、精神とは、活動する身体のことだと見なされている。そして、記憶が担うイメージ的な表象は、つまりは、身体的なものを基盤とした感性的なものだからである。

…少し込み入った文体ですね(汗)。記憶とイメージとの関連性、イメージは身体に依拠していること、そして心身は一如であるという思想について述べられています。なおイメージというと通常は視覚イメージをさしますが、心理学の分野で研究対象となるときは五感全てを含み、視覚イメージはその一部をさすに過ぎないことがあります。おそらく上記では五感全てにまつわるイメージのことをさしているのでしょう。また「イメージは心と体を結ぶ言語である」とも言われます。
パラさし」で祐巳が落ち込んでいる様子、そして救われるところは、心身は一如であるという見方・立場を話の基礎に導入しているかのようです。「濡れた体で冷えた心を抱きしめて」「冷えた身体を温めて、〜それこそが、今の祐巳に必要なものだったのだ」等となっています。身体的なことは心の中の出来事の結果なのですが認識の世界ではいつの間にか一緒になっています。また二回目に訪ねたときは聖にぬいぐるみ扱いされながら心地よさと甘えの気持ちを自覚し、このとき(聖の側からですが)身体が温かい、ふわふわとしているなど、直截な身体的表現がなされています。冷たさとは対極にある感覚と言えましょう。
ただ同時に注目されるのは、「自分が笑えるくらいの余裕があることを知って、少し驚いた」「傷ついたのは心だけで、この肉体に直接のダメージはないんだ」「じゃあ、心って何だろう」と、心と体は別物であるという考えも述べられていることです。心身が冷え切っている状態をおおもとにしながら、それに抗うかのような理性の働き、自我の働きを認識することまでが描かれているのです。
未来の白地図」で祐巳の感じ取った瞳子は、体が冷えていながら祐巳の前に現れたときは気丈にも微笑んでいます。また、割合はっきりと受け答えをしています。瞳子にしてみれば初めて訪ねる他人の家に、いかにも悄然として現われるわけにはいかないといった気遣いがあったのかもしれません。すると祐巳は、瞳子の冷えた身体のみならずそれとは相反するような瞳子の態度・姿勢をも含めて感じ取ることで、いや増して瞳子の辛さを自身の経験に重ね合わせて知ることとなった、と言えないでしょうか。
そして記憶を呼び覚ますという点では、身体感覚が重要な手がかりになったのではないかと思われるのです。

直截には書かれていない構造

話の仕組みから以上のような推測ができるものと仮定しても、厳密にはもう少し複雑です。読み取れるようになっているだけで、祐巳が具体的に思い出したとは全く書かれていません。書かれていないのだからもちろん実際に思い出したわけがないという立場を取れば、上記引用文に言う「想起的記憶」とは異なってきます。
これは《無印》での話の仕組みと似ています。祥子の「内実の伴わない婚約を強制される」という状況と祐巳の「一方的にロザリオをかけられそうになる」という状況は重なっていました。祐巳が「ロザリオを下さい」と翻意するのは、身をもって祥子の立場を理解することができたからだ、あるいは少なくとも無視し得ない要素の一つではあっただろうという推測が成り立ちます。…推測ができるだけで具体的には何も書かれてはいませんが、重要な構造ではありましょう。「未来の白地図」の冒頭は、「パラさし」と「無印」へのオマージュであり翻案ではないか、そんな想像をするのです。
想起ということを緩やかに解せば、祐巳は仮に意識には浮かばなかったとしてもまさに身体で覚えていたのであり、想起の過程を一気に省略し、かわいそうでたまらない気持ちが沸いてきたのではないかとも取れるところです。

付記:心の優位 ― 形あるもの・形のないもの

一方、「涼風さつさつ」では目に見える身体は本質ではなく、目に見えない「心」が本質であるという考えを説いています。身体と精神を二元的に捉え、さらに「心」を見つけることの難しさと歓喜が描かれているようです。
[▽続きます]