姉妹制度の知恵① ― スールとは異なる「姉妹」の形

マリみては刺激的な題材が多いものですから、つい意気込んで深読みをしたくなることがあります。しかしその前に思い起こされるのは前回popさまがコメントで述べられているように、誰にでも覚えがあるような心の動きや葛藤がきめ細かく丁寧に扱われている小説でもあるということです。これまで述べてきた瞳子の攻撃性にしてもマリみての中でだから際立っているのであって、若い頃の衝動はもっとすごいものだという感想を持つ方がいてもおかしくはないわけです。
「あとがき」では若年層へ寄せる今野先生の思い入れがこれまでになくはっきりと述べられていました。『妹オーディション』では思春期の葛藤や課題となること、そしてマリみてに通低している題材が凝縮され、深化されて描かれていたと思います。テーマの大きな部分を背負うのは内藤笙子ではなかったでしょうか。新刊の感想と共にスール制度の持つ意義について考えてみたいと思います。瞳子の話は別立てで続きます。…別立てというより、連続性があって先に述べた方が良いことも多いです。

甘く儚いチョコレート

実の姉妹というのはめったに出てこない関係です。『ショコラとポートレート』での「姉と正反対の生き方をして、幸せになれることを証明してやる」という宣言が印象的でした。初対面のつぼみたちに与えた印象の良さからは、例えば瞳子やかつての可南子には無い、バランスの取れた円満さを持っていることが伺えます。この円満さと比べると宣言は少々気負い過ぎであり、「少し違う生き方で頑張りたい」くらいが丁度良いのではなどと口を差し挟みたくなるところです。
終盤での「姉と二人で密かにチョコレートを摘んでいる方が、ずっと自分らしい」という感興が、前半での宣言と対をなしています。姉との隠微で優しいささやかな世界が幻のように一瞬現れ、しかし現実に落とし込まれることなく消えてゆくようです。チョコレートのすぐ消えて無くなってしまう儚さは、『静かなる夜の幻』で蟹名静が見たマッチの炎の儚さを連想させます。
小ぢんまりとしたチョコレートの甘さとそれを「摘む」ことは、情緒的なものになぞらえて置き換えることもできるでしょう。すなわち、極私的でささやかな姉に対する甘えの気持ちと、それを満たすことを抽象的に意味しているように思われます。ここでの自分らしさとは高等部のイベントに紛れ込むような逸脱的な行動を取るより、じっくりと甘えの気持ちを満たしたいのが本当の姿であるということをさしているようです。

スールの関係以外から浮き彫りにされる

ここに、学園内での「姉妹」ではなかなか起こらない葛藤が描かれています。なぜそこまで反発しなければならないかというと違和感を感じる生き方にも、どこかで価値を認めざるをえずに迷ってしまうということがあるでしょう。違和感を感じることは可能性の萌芽でもありますが、受け入れていくのは大変なことです。これに加えて、姉がやさしくしてくれないという不満足感があって拍車をかけます。ガリ勉は嫌としても笙子もそれほど勉強が嫌いというわけではないのかもしれないし、さらに言えばむしろ勉強好きなのですが、そうなった場合の負の側面ばかりを姉の中に見てしまうのかもしれません。効率ばかりを追求してイベントごとをばかにするような「ものの考え方」に姉を取られた!とまで思っているかどうかは不明ですが。
あっさりと理想を言ってしまえば、違う生き方にも十分価値を認めつつ自分独自の生き方を確立してゆくということになると思います。しかしそれは言うだに難しいことです。
血を分けた姉妹であればそれは自らの分身のようなもので自然に親しみのもとになるでしょう。しかしそれ故に違う部分も一緒に突きつけられると、自分のあり方も強く問われることになります。全面的に受け入れることも、遠ざけて無関心でいることも共にできない「少し違うもう一人の私」として実の姉妹が描かれていると言えます。これは、もとは赤の他人でありながら実の姉妹のように仲が良いのが基本のスールとは対照的です。「近くにいて、ところどころ違うところはあるけれども仲が良い」というのと「近くにいて、違うところを意識せざるを得ない故に仲が悪い」というのが対比されています。前者はマリみてで十分に描かれています。そこで時には後者によって、普段とは違う側面から主題が語られるということが出てくると思います。スールと実の姉妹というのは対抗するものとして扱われているのではないでしょうか。
マリみての登場人物の大部分に年の近い実の姉妹がいないのも、この観点からは必然性があると思われます。実の姉妹がたくさん出てきてしかも仲が良いとなれば、学園内の「姉妹」と実の姉妹とどう違うのかということになって話が曖昧になってしまうのかもしれません。今回出てきた田中四姉妹も二人きりではない点が注目されます。「若草物語」のような賑やかさがありますね。
作品上の構成の問題ということを離れても、笙子と克美の関係は現実味があると個人的には思います。実の兄弟のあいだに起こりがちな、愛着を内在させながらも反発が前面に出るといった葛藤を旧約聖書に題材を取ってカイン・コンプレックスと言うこともあります。…私事ながら自分の母親などを見ていると、やはり姉妹というのは一筋縄ではいかないらしくて時々ぎくしゃくしていて、そこには「生き方が違うから仕方がないか」としか言いようのない相容れなさを感じます。非常に余談なのですが(笑)。
笙子の話は必ずしも実の姉妹の間での姉妹愛が中心の話ではなく、若い人は自分なりの価値観や生き方をどのように形作っていったら良いのか迷うものだということが前面に出ている話のように取れます。しかし同時に「血は水よりも濃い」といった言葉を思い浮かべられるような、笙子と克美との間の離れ難さの感覚も感じ取ることができます。
姉との仲の悪さと、笙子が気にする写真映りの悪さ、そして「輝きたい」という希みは少しずつ接点があると考えます。それは自分に対する観察眼や自意識と呼ばれるものと関わりがあるのでしょうが、人目を気にするあまり自由が損なわれるといったものとは少し違うようです。ただ、写真に関するときに限定されてはいるものの自分が「きれいでない」という意識は姉との葛藤が醜い自己像に集約されかけたようなところもあります。カメラを向けられると妙に意識してぎこちなくなるというのは、「自分らしさ」がどこにあるのかを見失って落ちつかない気持ちを表しているようです。価値観は完成に程遠くて揺らぎやすく、自分らしさをどのようにして求めるべきか分からないといった、若年層に顕著と思われる心性が端的に現われています。これはマリみての中できちんと扱われている題だと思います。

付記Ⅰ・萌へ萌へな二人

まるで分身のようだというと、祐巳祐麒です。親しみと反発の気持ちが混淆していて、しかもお互いに異性であることを微かに認識しているようでもあります。もう、麗しいとしか言いようがありません。

付記Ⅱ

ショコラとチョコレートがほぼ同じものをさすとは知りませんでした。ぼくは酒は飲めませんが甘いものは好きなので、たまにファミリーレストランに一人で飛び込んでパフェを頼んだりしています。
薔薇のミルフィーユ』のミルフィーユとは一体?交流あるところに食べ物あり、というマリみてですが意味深ですね。そろそろ別れを意識しはじめる時なのでしょうか。
[▽続きます]