くりくりまろんのマリみてを読む日々

瞳子と「演劇」を中心に⑨ 瞳子の特異さ ― 稀な破壊性、そして演劇

"よーすけ"さまより、「演劇」をめぐっての瞳子と祥子の関係などを中心に、コメント欄が伸び過ぎではとのこともあってメールをいただきました(ありがとうございます)。

こちらでくりくりまろんさんのご意見などを伺いながら考えが至ったのは、瞳子のキャラクターの中心は当初の印象以上に表現者」としての比重が高いものなのだなということです。(瞳子の「演技」が「日常における性格のカモフラージュ」という意味でしか読者に受け取られていない傾向が強いのは、著者の誘導の巧さでしょうか。)
祥子と瞳子の間の温度の低さというのも、この部分に原因があるような気がしてきました。祥子は瞳子の演劇に対する情熱に共感できず、瞳子が理解できない。また瞳子も、人並以上の才能を持ちながら、山百合会に参加するにあたって習い事の一切をやめてしまい、何の未練もない祥子が理解しがたい。そうした価値観の違いから来る理解の遠さが、そのまま両者の間の距離感になってしまっているのではないでしょうか。
それでも「BGN」で薔薇の館を訪れた瞳子は、祥子にそこまでさせる山百合会という場所がどのようなものであるのか、興味があったのかもしれません。しかし、結局瞳子は何らかの理由でくりくりまろんさんの言葉の通り「幻滅」し、そこに自分が求めるものはないと判断して、以後は迷いなく演劇部に集中することにした、とも考えられます。その後、可南子を通じて祐巳という興味の対象を再発見するまで、瞳子は薔薇の館に戻ってこようとはしません。
「パラソル」以降の祐巳瞳子の対話・交流の場面はことごとく祥子の介在しないところで発生しているため、祥子は祐巳瞳子の関係がどのように変化・発展していったのか、直接的にはほぼまったく知り得ません(この点、可南子に対してはその関わり方を傍らで見ていたので、祥子が瞳子よりも可南子に対しての方により理解が深く見えるのもある意味当然と言えます)。祥子は、「特別でない〜」で、自分が遂に理解できなかった瞳子の演劇に賭ける熱意に対して祐巳が深い理解を示しているのを、驚きを持って見たのではないでしょうか。祥子が瞳子祐巳に任せてもよいのではないか、と考えるに至ったとすれば、それはこの時点をおいて他にないでしょう。祥子がこの巻で祐巳に妹を作ることを促すのも、そのことと無関係ではないと思われます。
瞳子のキャラクター造形については、やはり「パラソル」以前と以降では大きな変化が加えられているように思います。「強い情熱を持った表現者」という核の部分はおそらく最初期から不動であろうと思われますが、「銀杏」「BGN」限りで陰を潜めてしまう「やりすぎる悪戯者」的性格が、「パラソル」以降で急に現れる「獰猛な攻撃衝動」に置き換えられたのではないかと感じます。瞳子が薔薇の館の住人となる際に試練となる、瞳子自身の問題を描くために用意した部分が、その後のシリーズの変遷によって(特に祐巳に対するカウンターパートとして再設定するにあたって)、どうしてもそのままでは都合が悪くなり、キャラクターの修正を行わざるを得なかったのではないか、という気がしています。もちろん作品内容的にはそれなりに整合性のある辻褄をつけてくるものと期待はしていますが。
気になるのは、この、時に理性の制御も受け付けなくなるほどの激しい攻撃衝動がどこからやってくるのか、ということです。瞳子がこの攻撃衝動を解放してしまった事例は本編中では「パラソル」と「ジョアナ」の二度しかありませんが、いずれも攻撃対象をひたすら打ち据え、叩きのめす為だけに行われ、結果をまったく考慮しない、非常に暴力的なものです(その二度の機会が共に深刻な禍根を残し、現在に至るまで引きずられています)。祥子も時折ヒステリーを起こしますが、これほどの残虐さは持っていません。由乃の癇癪は甘えの表現に過ぎませんし、新旧山百合会メンバーの中でおそらく最も激情的だった聖も、ここまでの攻撃性は持っていなかったのではないかと思われます。
個人的には、瞳子と本質的な部分で最も近いところにいるキャラクターは志摩子ではないかと思っているのですが(問題を自分の内に抱えてしまう傾向や、情熱や信念の強さなどの点で)、志摩子は寺という宗教の場で育ったためか、人や物事に対する姿勢が穏やかさという殻を纏っているのに対して、瞳子の場合は過剰な攻撃性として現れる、その差は一体何なのか。
この瞳子の特質が一体何を理由に起こってくるものなのか、興味深いと共に、なかなか難しそうな問題を予感させます。もしかしたら、祥子も過去にその攻撃衝動の餌食になった経験があり、それが瞳子に対する態度を及び腰にさせる一因なのかも知れません。

演劇をめぐって祥子と瞳子の間には埋め難い溝があったのではとのご意見、興味深いです。祥子もまだ瞳子は一年生なのだし突き放すのは良くないと言っていて、演劇部に帰そうとするのも瞳子のことを思ってのことであり、はなはだ順当な判断をしていたとは言えます。しかし瞳子がまだ不信感を抱かざるを得なかったというのは、理解や共感ということは自らのありかた全体に関わるもので生易しいものではないことが示されていると思います。
それをしたのが唯一祐巳であるとすれば、瞳子祐巳でなければだめであるという意味の乃梨子の言葉に繋がってゆくものかもしれません。
ただおそらく祥子は理解している振りをする、といった欺瞞を行うようなことはこれまでもしていなかったでしょう。それは祥子が持っている種類の純粋さとは相容れない器用さというものです。その点はむしろ救いがあるのかも知れません。

激昂する乙女たち

瞳子にとって日常での「演技」というのは感情のコントロール、特に攻撃性などの負の感情のコントロールのことを意味するのではという趣旨のことを⑦で述べました。「攻撃性」及びそのコントロールということを大掴みに捉えた上でマリみての人物を振り返ってみると、それぞれ少しずつ姿を変えながら、大きな意義を持っていることが分かります。

佐藤聖

幼少にあっては江利子と取っ組みあいの喧嘩をし、「片手だけつないで」では蓉子に手を上げかけるといったカッとしやすい傾向を持つことが述べられています。それは、ケーキをホールで食べながら志摩子を待っていたり、豪快に笑ったり、柏木氏と大いにやりあうといった、より適応的な形になっていったのではないでしょうか。そして「白き花びら」で私はそんなに弱くはないという趣旨の独白をみると却って、底の方では傷つきやすさを持っており、その頃とは随分変わっているであろう今に至ってもなお蓉子には頭が上がらないのだろうと想像されるのです。

祥子

怒りをため込んでいるようで、蓉子に言わなければ分からないと注意されたというエピソード、そして幼少のときから何かと戦っているようだったことが述べられています。境遇の難しさがあると同時に自分は理解されないだろうと最初から諦めてしまったかのような強固な思い込みがあって(このあたりに父親の影を感じます)、それではいけないのだと蓉子はたしなめたのだと言えます。蓉子などの上級生にさんざんいじられることで、ため込んでいる内容は「ヒステリー」という数少ない出口を見つけ、表現されることができたのだということでしょう。祥子の攻撃性はさほど地のものではないのかもしれません。
そして今では自分から必要なことを言わない瞳子に対して「昔の自分を見ているよう」だという理解を示しています。

由乃

いつも令を由乃は振り回し、少しずつ迷惑をかけているようなところがありました。「もう少し、振り回されてみることにしたよ」と諦めが入り混じったような覚悟を表明するのは、令の駄目なところであり同時に包容力であって、由乃は随分それに守られて来たと言えます。ほんの微かに互いに求めているものが食い違っていてそのズレ具合が悩みの種になっているようです。一方由乃や祥子は聖の観察にあるように「内弁慶」「猫かぶり」でいるようなところ、すなわち状況に応じておとなしい振りをするという柔軟性も持ち合わせているようです。
しかし入部した剣道部は最初からそのような場所ではないことが示されているし、令の与える枠組みからはみ出そうとする「黄薔薇革命」や剣道部入部は一面では逸脱行為と言えると同時に、由乃の成長力なのだろうと思います。

志摩子さんは欲ばり ― 銀杏を拾う聖女(のような人)

攻撃性ということに関して、少し違った意味で重要性をもって語られたところがあると思います。ひたすら優しく美しく、桜の景色の中に溶け込むような浮世離れしたところもある志摩子は、言わば聖女のアイデンティティーをしっかりと身に着けていたのだと言えます。しかし人に求めることをせず、自らの欲求もすっかり抑えてしまうことの代償であるかのようにうっすらとした寂しさも漂わせていました。乃梨子志摩子さんは本当は欲ばりなのだという言葉により、志摩子は自分の中にも周りの世界や人にさまざまなものを求めてゆくような欲深さ、つまり攻撃性があることをはっきりと認めます。そのことによって現実的で地に足のついた姿勢を身につけてゆくことができたのだと思います。
《無印》で出てきたギンナンの異臭は、「乙女の園」の中にあっても美しくきれいなだけではいられない人の生臭さ、俗っぽさを表していたのではないでしょうか。それでもギンナンが落ちるのが楽しみと言っている志摩子は、一見異質なものも統合してゆく力があることを示していたのだと思います。

幅広い自己を持つ瞳子

そして瞳子の持つ攻撃性については、少なくともマリみてで描かれる人物としては際立っていて、述べられているように特別なもののように感じられます。例えば瞳子祐巳に対して時々みせるふてくされたような態度は、繊細で傷つきやすい自分を守り、あるいは攻撃性を先取りして表すことで相手をも守ろうとしているのだと一通りは解することができるでしょう。しかし、「繊細さを持っているから」というだけではなかなか収まりきれない部分もあると思います。
そうすると破壊性を持つようなエネルギーの解放とも言える攻撃衝動は一体何によってもたらされるのかということになりますが、一つには佐藤聖が急に気付くことになった相手を壊してしまうような傾向のように、本来的には周囲の状況とは無関係な、独自の性質に基づく部分が大きいということになると思います。志摩子の信仰に対する熱意もそうです。マリみてでは「成長」と言うとやや物足りないほどの、関係性の再構築や人は変わりうるといった希望がダイナミックに示されています。しかし同時に、「生まれつき」というものに大きく左右され、規定される存在でもあるのだという人間観が伺われるような気もします。志摩子も私はつまらない性格なのだろうかと思い、しかしもって生まれた性格はなかなか変えられないものなのだとひとりごちています。①では、瞳子の「素質」が描写されているのではないかということを述べました。…ただこれではほとんど何の説明にもなっていないという見方もあるでしょうし、他の理由があるのかもしれません。
さらに一つの可能性に過ぎませんが瞳子自身の性質に振り回され、それに悩む人ではないかということも言えると思います。「若草物語」の次女のジョーは、末娘のエイミーと仲が悪くて大喧嘩したりします。しかし反省が無いわけでは決してなく、自らの「悪性」に悩んで母親に相談したり、物静かで優しいベスを心のよすがとし、大変可愛がっています。その意味で案外瞳子ジョーに一番近いのかも知れないと言えるわけで、その繊細さは深い自己反省に結びついているのではとも思われます。
そして演劇に対する熱意も際立っていることを合わせると、一つのことに考えが至ります。あまりに雑駁になるのをおそれずに言えば、瞳子が感じさせる演劇に対する熱心さと破壊性・攻撃性は対をなしていて、瞳子という一人の人間が持つ光と影であると言えます。良い悪いの価値観を抜きにすれば瞳子は相当幅のある自己とでもいうものを生きており、その姿が描かれるのが一つの目的となっているのではないでしょうか。祐巳の妹としてどうかということも大切なのですが「悪戯者」に始まりつつもキャラクタは分化・発展してゆき、そのままでは終わらないというメッセージが感じられる気がします。
ここで祐巳と比べると、祐巳はあまり光と影と言えるものを持っていません。「レイニーブルー」では随分落ち込みましたが祥子に対する思い入れの延長上にあるものです。むしろ祐巳は周りの人の思いをいろいろな形で映し出してきました。祐巳と深く関わる人物は、今まであまり生きてこれなかった側面に良いものも悪いものも含めて気付かされます。
祐巳は光と影を映し出すスクリーンであり、瞳子は自ら光と影を体現しているのではないでしょうか。

瞳子にとっての演劇を見直したい

そうすると瞳子の持っている一方の極である演劇についても十分に考える必要があると思います。

親戚で、長いつき合いがあるはずの祥子さますら騙せてしまうほどの、完璧な演技をしてのけた。
松平瞳子は間違いなく才能のある女優であり、そしてとてつもなく嘘つきなのだった。

特別でないただの一日」でのこの描写は、一つの事実というべきでしょう。しかしそれは祐巳が気付き発見した事実なのであって、瞳子が才能のある女優である理由や瞳子自身の思い入れや動機は何ら語られていません。あたかも瞳子がその才能を器用に使い回し、日常でもそうしているに過ぎないのだろうと読めてしまうところです。
しかしこれは述べられているような「著者の誘導の巧さ」、ミスリーディングの気配すら感じられるところです。熱心さがどのようなものであるのかが詳しく描かれているところは少なく、瞳子のキャラクタの掴みづらさに繋がってるのかも知れません。もう少し瞳子と演劇には深いつながりがあるのではないかと思うのです。

付記Ⅰ ― 「役割」の中に

キャラクタ造形ということについて冷静に考えると、「銀杏」での初登場時と今の瞳子を比べるとずいぶんかけ離れているように見えるので統一的な見方はできないか、という意識を含みつつ「瞳子と演劇を中心に」を書き始めたように思います。…自分のことなのに「ように思います」もないものですが(汗)。造形がいつどのように切り替えられた(と見える)のかはあまり意識していませんでした。
《殿下執務室》さまよりトラックバック瞳子のギミック、或いは瞳子はどこで「壊れた」か。をいただいております。

瞳子という子は「自分が役に立ちたい」的意識が強いというか、自分の能力を認めてもらうことに対して渇望のあるキャラクターなのかなぁとも思われます。

に関連して、当初は無かった「どうせ私なんか」「ご迷惑でなかったら」といった自信の無さを伺わせる言葉が瞳子に多いことが思い浮かびます。
指摘されているように山百合会に自分のキャストが存在しないことに気付いていること、あるいは祐巳を知っていくに従って祐巳に対して自分が役に立たないと思い残念な気持ちでいることの表れと考えることができると思います。祐巳に対する瞳子のアドバイスは、その気持ちは別としてことごとく届かず実効性を持ちませんでした。
山百合会瞳子にとって、憧れの場所というよりは自分を活かすことができるかもしれない場所として最初は捉えられていたのかもしれません。この点、「片手だけつないで」で志摩子が言った「こんな私でも、必要としてくれる場所があるのなら」という言葉が思い出されます。周囲に関心がなかったという聖ですら志摩子の言葉に共感しています。さらに「銀杏」の頃から役に立ちたいという意識が伺われるとすれば、もともと深いところに自分に対する無価値感や自信の無さがあってそれを補いたいという気持ちが強いのだということになるのでしょうか。

付記Ⅱ ― 薔薇の館を機能として捉える

《『マリア様がみてる』アレンジ日記》さまにいただいているトラックバック「山百合会と部活動の両立の実現化」について。

たとえ薔薇様たちの妹に選ばれなくても「薔薇の館」は皆が楽しめる場所にすべきでしょう!!
 (去年の12月の「いばらの森」の段階で、「薔薇の館」をそういう風にしていれば、例え佐藤聖さまが久保栞さんを妹にしなくとも「転校」させる必要が無かったはずなのですが・・・)

興味深いご指摘です。聖のお姉さまは栞が現われる前も去ってからも、薔薇の館や姉妹制度をフル動員して聖を学園の生活になじませ、つなぎとめようとしていました。使えるものは何でも使うといいますか、ツール(道具)と見なしていたようです。薔薇の館がもう少し大きな器として機能していたら、あるいは違っていたかもしれません。
そうすると、蓉子が開かれた山百合会というのを悲願としていたのも分かる気がします。蓉子も聖のお姉さまに大きな影響を受けていると思われます(『Answer』というのはまだ読んでいないのですが)。山百合会のことで祥子を振り回して習い事をやめさせたというのも聖のお姉さまの方法を連想させます。大局的にものを見て、どこを動かしたらどのような結果が期待できるのかを判断するといった、物事をシステム的に捉えるようとする傾向が二人ともあるのかも知れません。蓉子の目指しているかもしれない弁護士という職業にも少し関連がありそうです。高度な専門知識が必要ですが実務ではそれだけでなく、多くの関係者がいる複雑な状況の中から、問題の解決のために最善の方法を選んでゆくといったことが要される職業なのですね。
[▽続きます]