瞳子と「演劇」を中心に② 変容を遂げた少女の物語

「プール帰りの女の子たち」から

話が広がりすぎるのをおそれずに。瞳子が幼稚園児の姿に重ねられたように、実際の年齢と違う姿によってその人の重要な部分が示されているところがあります。
同じく「OK大作戦」で作戦を練り終え、祐巳が祥子と落ち合うために乗るバスの車内でのことです。プール帰りで皆が疲れて眠りこけているところへ、乗り越さないために一人だけ睡魔と戦って頑張って目を覚ましていて、皆を起こして回る少女の姿が描かれています。この描写をワトソンさまが04/11/13付のコラム「プール帰りの女の子たち」で取り上げられ、「お気に入りエピソードのひとつですが、同時に違和感も感じます。唐突な感じがするのです。」とされていました。このとき僕も投稿していて、恐縮ながらログを再掲します。
《これは「昔の自分もそこにいるよう」な題材であることから、どちらかというと解釈というよりは、読んでいるそれぞれが自由に連想を働かせることで物語の幅がでてくるように描かれたシーンではないかと思います。
ただ敢えて言うならば、祐巳が現在生きている現実の世界は、リリアンや花寺の人たちで賑やかな生き生きした世界です。そこから離れ、少し退行することで祥子の心に最も寄り添う、といった終盤での祐巳の姿につながっていったのではと考えます。デリケートな問題なので皆でワイワイとやっているところでは見過ごしてしまう点があるのではないだろうか、と思われるところです。
「作戦」というのは祥子のためを思って皆が動くという罪の無いものなのです。しかしそれでも、曝露的で乱暴なものではないかという疑問を祐巳は感じていったのではと思います。祥子は強い人なので少々のことでは傷付かないかも知れません。しかし、幼子に対するような気持ちで祥子の男嫌いという問題は大切に扱わねばならないとも言えます。祐巳の迷いというのは優しさの表れなのでしょう。そのような意味で心理状態の変化のきっかけとして捉えられると思います。
特に報われることはなくとも、義務感やら責任感やらで必要なことを一人で頑張るというのは、祥子の姿に良く重なります。そしておそらく、祥子のそのような性質は随分昔からのものなのでしょう。さらに深読みすれば、緊張を解くことができないという姿勢は男嫌いの症状にも少し関係があるようにも思われます。より幅のある祥子に対する祐巳の理解が、プール帰りの女の子の姿に仮託してなされていったのではないでしょうか。》

「内なる少女」の物語

今読み返してみるとその少女の姿は今の祥子の多くの場面での原則として力を及ぼし、姿を現すような中心的なものを象徴する存在として描かれていると思います。祥子の中の人、とでも言えば良いでしょうか(笑)。本質というと言いすぎなのですが、中核的な部分がいくつかあってそれが例えば祥子の場合は厳しい態度などの「鎧」をまとって出てくるのではないかと。
「幼い姿」との関連からは次のようなことも言えると思います。かつて怪我をした鵜沢美冬をなじり、まるで突き放すかのようにハンカチを渡すことしかしなかった少女は、皆を起こして回る少女にいつしか変容していたのだ、と。
[▽続きます]