くりくりまろんのマリみてを読む日々

ジョアナ②

先日歯科医に行きまして右下奥から三番目の歯をかなり深く削られたのですが、昨夜からずきずきと痛み出しました。痛み止めも効きません。歯痛というと黄薔薇革命の折の江利子さま。今まで歯痛というものを知りませんでしたけど、侮ってはいけないものですね。自分のは普通程度のものなのでしょうが、さらに親知らずで顔がはれるほどとなると大変な苦痛だったと思います。「なーんだ」という落ちになっていましたが、江利子さまも確実に「戦う乙女たち」の中に入っていたのだろうと思い当たりました。しかし由乃のことを背負いながら明鏡止水の境地に近づいた支倉令と比べると、歯痛はどうにも格好が付かないように見えるのも事実ですね。
休日診療のところを探して朝一番で行ってきます。

瞳子の「演技」の意味

ジョアナ」で描かれた瞳子の内心は荒涼としています。特に私の演技もなかなかのものだというくだりでは、それでは瞳子の日頃の様子は全て外面にすぎず内心は全く別なのではないかという印象すら与えます。
しかし、それはそれで極端な見方だと思います。時々芝居がかってはいるのですがやはり瞳子は快活で面倒見も良いところがあり、その時内心との乖離が著しいとも思えません。なぜ瞳子がことさらに「演技」であると言っているのかを考えると、ユングの「ペルソナ」の考え方が手がかりになると思います。
もともと自分の上につける仮面を意味しており誰もが持っているもので、世の中に向かい合うために不可欠のものです。自分はこうでありたいと思い、いつしか本人のものとしてしっかりと身について「人となり」を作りあげるしくみをさします。エイミーの表象するのは瞳子のペルソナなのでしょう。…新しい言葉を持ち出しておきながら力不足のため、このあたりを深く書くことはできません。すみません。
ここで重要なのはエイミーというのは数々の美点を備えていて、何といっても適応的なことです。
一方、ジョアナはその下に隠された瞳子の本来の姿である、とするのも短絡的に過ぎます。ただ、普段の自らの姿勢に影響を及ぼしているのかも知れない直視できない影の部分もあることに気づきはじめ、その様子が「ジョアナ」で描かれているのではないかと思うのです。何かのきっかけがあって意識することが無ければ自分の様子をさしてことさらに仮面や演技などと言う必要は無く、自分そのものであって問題ないものです。ただ、今のあり方を見直す必要や違和感を薄々感じるとき、その動機となっているものを垣間見たり普段意識しているのとは違う別の自分があることに気づきはじめます。
珍しく瞳子視点による「ジョアナ」は演劇部の出来事や祐巳を通しての自分観察日記でもあったのだろうか、と思っているところです。

エイミーの日常

若草物語」第4章「重荷」からの抄訳です。

エイミーはできる限り自分の課業をこなしていて、お行儀は模範的だったので叱られずに済んでいた。気が良くて、努力無しに周りを喜ばせる恵まれた才能を持っていたのでクラスメイトにとても人気があった。小ぢんまりと品が良くて、絵のほかにも曲を12曲弾き、クロース編みをし、フランス語を三分の二以上発音を間違えることなしに読むことができるのは賞賛の的だった。また、パパがお金持ちだったころのことをあれこれと物悲しげに言うことがあってとてもいじらしいのだった。それに、エイミーの使う長い語句は周りの少女たちに「完全なまでに上品」だと考えられていた。
みんなが彼女を可愛がるので、ささやかな自惚れやわがままが強くなっていき、すんでのことで甘やかされて育つところであった。しかし一つのことが、その自惚れを相当押しとどめることになった。従兄弟のお古を着なければならなかったのだ。

みんなに好かれる良い子で、少し無理をして背伸びをしているような向上心と才気があり、のびのびとわがままも言える状況のようです。「見た目と地」として瞳子に重ねられているのは恐らくこれらの全てなのであって、わがままという点だけではないのでしょう。自らの可愛らしさを知り、遠廻しに主張しているように見えるところもありますね。
上演時間が足りなくてカットされた塩漬けライムのエピソードというのは、とても流行っているのだけれども持ち込みを禁止されていたものを学校に持っていき、張り合っていたジェニー・スノウに告げ口されて先生に叱られるという話です。塩漬けライムというのはそんなに夢中になるほど良い物なのか、詳細は分かりません(笑)。第7章「エイミーの屈辱」で手をむちで打たれたあげく教壇に立たされるところです。
[▽続きます]