くりくりまろんのマリみてを読む日々

「特別でないただの一日」⑥可南子

父親の話の最高潮

物悲しく、しかし希望の持てる話でした。
可南子の父親が突然登場するのには驚きました。そして何よりも意外だったのは、夕子という慕わしい先輩が既にいたことです。話を読めばなるほどと納得のいくような描かれ方はしていますが、少々取っ付きにくい印象のあった可南子にそのような先輩がいたというのは意外です。それはリリアンの内部でスール制度との関連性で語られるのが通常の話ではないだろうか、特に可南子の場合は一年生なのだからこれから話の中に身を置くべきではないか、と思ったわけです。
しかし「涼風さつさつ」以来の展開をありのままに見ると、生徒同士の話ではなくて父と娘の愛憎劇に他なりません。マリみての中では父親の話というのは連綿と出てきていてそのうちの最高潮となったのだと言えます。可南子は極めて葛藤の多い状況に置かれていました。しかし可南子の悩み方というのは、「お父さんて、一体何者なの?」という誰でも考えたことのある疑問につながるものであって普遍的な意味合いもあると思います。
マリみてで中心を占める先輩、後輩、友人といったつながりの他に、あれども無きが如くに扱うことはどうしてもできなかったのが父親との関係だったのでしょう。(ただこの話を良く見てみると、めったにマリみてでは出てこない母親というのも重要な影を落としていると思います。)
最初に書かれた「銀杏の中の桜」でも志摩子父親というのは気になる存在です。随分早いうちに信仰に目覚め、思いつめている風情の娘にアドバイスをしなければならない親というのはどんな心境だろうか、と逆の立場から考えさせるところです。また「黄薔薇まっしぐら」で伺われた江利子の父や兄たちの様子は少々偏っていて江利子の性質に何らかの影響を及ぼしているのではないか、と思わせます。「パラソルをさして」の加東景も、過去に葛藤があったことが語られています。しかし、祐巳については両親に対して極めて良いイメージのみを持っている様子で、そのためか祐巳の両親というのは無個性な印象すら与えるのが却って目立つと言えます。

治り方はいろいろ・略してOK大作戦(仮)

重い話になりそうなので、その前に脇道にそれつつ明るい作品について。
本巻では可南子に逃げないように諭し、父と夕子に引き合わせることになった祥子が目立ちます。今まで可南子に関わってきた祐巳は、ふっつりとその関係が途絶えたように目撃するだけの人になっています。これは、両親に対して肯定的なイメージしか持っていない祐巳としては可南子に対してはその点では深入りしようがないという限界を間接的に示しているのだとも考えられます。一方祥子といえば「男嫌い」であり、その原因は明らかにはされていませんが、可南子と心理的布置は似ているのではと思わせるところがあります。それで信念を持って可南子に言うことができたのではないでしょうか。
祥子の問題が扱われたのが「略してOK大作戦(仮)」ですが、内容は逆説に満ちて凝っており、コミカルさの中にも哀愁があって極めて好きな作品です。
皆で共通の目的を持ちながらいつの間にか騙し騙されのゲームになります。最初は張り切っていた祐巳も次第に自滅し、暑さと悩みのために悲哀の様相を呈しはじめ、計画は破綻して実に竜頭蛇尾の結果に終わります。
しかし、「変な画策しなくても、お姉さまは遠からずご自分の力で克服なさるはずですから。」 との祐巳の一言は祥子を力付け、おそらくそのとき達成しうる最大限の結果をもたらしたのだと言えます。しかし祐巳の方は何があってもいつもお姉さまの立場でいるのが一番、と見方によっては少し偏狭とも言える結論を出す一方で、成果の方には気付いていない様子です。この種の祐巳の偏狭さというのはある種のユーモアを漂わせていますが、「立場」というのを広く解せば祥子の状態を最も良く理解した対応を取れるのは祐巳をおいて他にはいない、ということを主張する話のように取れます。
何を根拠に祐巳がそのような予測を立てられたのかは分かりません。しかし祥子が最も必要とし欲していたのは、自分で立ち向かってほしいからと祐巳が言うような、無条件でまっすぐな期待と信頼感であったのかも知れません。
作品の終盤では祥子はやはり失神しかけ、長丁場になりそうだとの推測で終わっています。以降、「特別でないただの一日」に至るまで、祥子の「男嫌い」が明らかに良くなったとは述べられていません。しかし、可南子への対応や学園祭の準備の様子からは、あまり問題として意識する必要がなくなっているのではとも思われます。
ここで祥子の得たものは、祐巳の間接的ながら全面的な支持を背景にした、問題に対する処し方、態度ではなかったかと思います。一つの覚悟を決めた姿が、可南子への対し方に表われているように感じます。可南子のように、タイミングが合い、人々の努力もあって直接向き合うことが必要な場合あります。しかしむしろ、急には変えようのない場合もあるのかも知れません。「問題」は急には解決しようがなくとも、それとの向き合い方はより良い方向に変えることができるのでしょう。もちろん祥子の場合はさほど根が深くないのかもしれず、簡単に同列にできるものではないと思いますが。

曝露的でないことの良さ

祐巳の「成長」は明るい坂道を登ってゆくイメージであり、比較的分かりやすく示されていると思います。しかし祥子の変化は「いと忙し日々」での蓉子たちの感興にあるように、「ゆっくりだが確実」なものであって対照的な描かれ方がしています。特に目立ったエピソードはなくとも、物語の全体を通してなるほど変わっているのだということがおぼろげに分かるというしくみです。
これは祐巳の性質にも拠るところが大きいと言え、祥子が祐巳を必要とし、祐巳が祥子に「合っている」というのはこのようなところにもあるのではと思わされます。祐巳は可南子の事情について瞳子が説明しかけたとき、これを敢えて聞いていません。しかし祐巳の動きは確実に可南子に影響を及ぼしています。物事に無理に直面したり曝露したりする以外の向き合い方があるという、なかなか深みのあることをさまざまな形で示しているのが祐巳なのではないでしょうか。[▽続きます]