「未来の白地図」 ― 古典に見出すモチーフ

マリみてTTの掲示板にて。冬紫晴さん(マリみて解題の試み)によると、瞳子の演じた小公女に関連して
・Amy(エイミー)と同じ名前であるEmily(エミリー)という人形が出ている
瞳子には、小公女を彷彿とさせるものが感じられる
そうです。《青空文庫》の中に全訳があるようなので、興味のある方は是非どうぞ。
原文はこちら。ttp://etext.lib.virginia.edu/toc/modeng/public/BurLiPr.html

姉妹制度の知恵⑥ ― マリみての人物造形

姉妹制度の知恵⑤のコメント欄の続きです。よーすけさまからいただいているのを改めて張り付け直します。

舞台裏的な見方をすると、祐巳の、周囲の動向に対するリアクションでしか自己主張が出来ない、自意識の薄い、曖昧模糊としたキャラクター造型は、古風なミッション系女子高という特殊な舞台の中で個性的なキャラクターたちを見つめる語り手、という位置づけからはやむを得ない部分もあります。
祐巳は作品世界における読者の分身、あるいは水先案内人としての役割が課せられているのであり、それが明らかな個性を主張することは読者の感情移入の妨げになります。
それ故に祐巳は、誰とでも合わせられるけれど、本当に親密な相手は実は誰もいないという、やや歪つなキャラクターになってしまいました(祥子との関係すら、他の姉妹たちと比較すると、どこか上滑りな印象が拭えません)。
しかし実際にそのような祐巳のキャラクターによってシリーズ初期が成功を収めていることもあり、その点はなかなか変更しがたいものがあったでしょう。
一方瞳子はと言えば、当初の役割は完全にトリックスターのそれです。
パラソルをさして」以前の瞳子は、ただ物語の要請がそうであるからそこにいてそのように行動する、という以上の存在意義は一切持たない、状況を動かしかき乱すための都合のいい狂言回しとしてのみ存在するキャラクターであり、瞳子自身の意思や行動原理というものは、劇中においてほぼまったく考慮されていません。
レイニーブルー」においてすら、彼女はただ祐巳と祥子の関係に波風を立てるための材料としての意味しか持たされていません。
それぞれ登場当初には狙い通りの成果を挙げていたと言えますが、しかし中盤以降彼女らが中心になって物語を動かしていかねばならない局面が現れ始めると、逆にそうした役割が足枷になってきています。
水先案内人と狂言回しはいずれも普通は物語の中心からは外れているものですが、それらを敢えて中心に置いて物語を作ろうとするのは、作家にとってかなり困難な挑戦であり、相当に苦心する作業なのではないでしょうか。
「パラソル」で瞳子はようやく物語の駒というだけではない、自由意志を持ったキャラクターとして(半ば強引に)独立しましたが、この時に表した感情が「怒り」であったがために、それ以後の瞳子の性格は怒りを基調としたものになってしまい、「パラソル」以前に見せていた茶目っ気や悪戯好きな部分は、大半が本質的でない表層部分のカモフラージュ、ということにされてしまいました。
これは今にして思えば大きな失敗ではなかったのかという気がしなくもありません。
この結果、瞳子のキャラクター造型が実に余裕のない、殺伐としたもの(「ジョアナ」に現れているような)に変質し、それが祐巳の側にも大幅なキャラクターの変化を要求してしまう、せざるを得ない状況を招いてしまったからです。
しかしそれに対して、読者の分身であり続けなければならない祐巳の側は、そのような瞳子のキャラクターの変質を受けて立てるような大きな変化がなかなか進められず(可南子との交流を通じてそれを試みた形跡はありますが、腰砕けに終わりました)、結果としてただ時間のみが過ぎて巻を重ねるだけという状況に陥っています。
正直なところ、近巻の内容では、著者はこのふたりの扱いを持て余しているのではないか?という印象があります。
妹オーディション」以降、それまであまり多くはなかった由乃視点の描写が急激に増加し、かつそのパートの筆致がたいへん生き生きしているのを読むと、そうした感想を一層強くせざるを得ません。
祐巳が自己意思に基づいて主体的行動を起こすことは、読者の分身としての役割を放棄することに直結します。
また率直に言って、能動的な主人公を求める時、祐巳は残念ながら由乃乃梨子などに比べて大きく精彩を欠くのは否めません。
シリーズの存続を考えれば、祐巳が自意識や個性を主張し始めるのは大きなリスクを冒すことであり、実際に「未来の白地図」において祐巳が遂に瞳子を妹として指名するという意思を表明したことで、読者の何割かの共感は確実に失われてしまうでしょう。
それでもなお祐巳が自らの意思を貫き、大きな変化を成し遂げ、瞳子を妹として獲得することができたならば、その瞬間に祐巳の「自由意志を持ったキャラクター」としての自立(=柏木の言う「上のステージ」への到達)が完成するわけで、あるいはその時点で福沢祐巳を主人公とした「マリア様がみてる」シリーズは終結を迎えるのかも知れません(「ロザリオの滴」で藤堂志摩子の物語が事実上完結しているように)。

作品論に近いコメント、はなはだ僕の手には余りまして熟した返しができないのを詫びつつ、関連することを述べさせていただきますね。

二作品の完結性

>「ロザリオの滴」で藤堂志摩子の物語が事実上完結
ロザリオの滴」終盤の耽美的な抒情性には圧倒されます。志摩子については「銀杏の中の桜」「ロザリオの滴」を最小のマリみてとすれば、完結しているとみることが確かにできると思います。この話は「突然出会って同性愛傾向に浸りきりそうになる二人が、最も適切な距離を姉妹制度に見出し、その中で安定を得るに至る」というふうに言えるでしょう。志摩子は無自覚の、あるいは隠蔽された、または欲求が極めて薄い同性愛者であることが、…そうですね、暗示されている、またはそういう風に読めなくもないという形で表現されていると思います。志摩子の孤独と疎外感は同性愛者のそれを連想させるという視点での解釈であって、もちろんこの考えに固執しているわけではありません。深く読めばそうなるといったこととは少々違い、二重の物語が(文芸に特有の象徴を用いながらの手法で)流れているのではないかという見方にたった場合です。マリみてでこのような形の話が書かれることは今後ないと思われます。
現在のところ志摩子乃梨子は最もバランスの良い姉妹に見えるのが興味深いです。
 さてそうすると佐藤聖なのですがどうにも「白き花びら」の印象が強く、何をしても意味深に見えます。生身の人間の中に極めて尊いものを見出して失敗してしまうということからは、必ずしも同性愛自体が問題にされたわけではないとも読めます。ちなみに柏木優も僕は女性を「崇拝」しているといった少々看過できない発言をしており(『涼風さつさつ』)、気になるところです。今の柏木の振舞いも崇拝によるものだろうか、などと思われるのです。
====[と、この辺りで朱夏さまからコメントをいただきました。]=======

親子関係の醸成・姉妹制度の中に生きた証

祐巳登場後、親子の寓意が濃厚に含まれるようになり、作品を基礎から支えるものとなったと思います。姉妹制度は親子関係を急速に醸成し、変容させる坩堝です。
銀杏の中の桜』では令と祥子は個性がさほど浮き立たない薔薇さまでしたが、
・令は《長い養育期間を経て、そろそろ娘が巣立つ時がきてもなかなか子離れができない親》
・祥子は《やや強引に養子を取った、類い稀な美貌を有するが不器用で未熟な母親》
…に分化しました。祥子は愛することを知らないのではなく、どのように愛したら良いのかという方法において躓きがちな人物でした。
「祥子は、祐巳ちゃんに夢中だ。/可愛くて可愛くて仕方がないのだ。/それは恋とはちょっと違う。」 というのは親子の寓意が含まれているからとも解せられ、『薔薇のダイアローグ』の清々しさは両者共に「子」に対する関係が完成形に至り、それぞれの道を自律的に進む準備が整ったことを示していることにあるでしょう。そして「薔薇の」と冠せられているのは、姉妹制度の中に生きた証としてそれぞれ《独立を果たす親》、《不全感の無い可愛がり方ができるようになった親》の姿に変容を遂げたことを意味しているように思われるわけです。
そしてさらにこの形を突き詰めることを目指し、より直截に「姉妹」かつ「母子」の物語として構成されたのが可南子・夕子の話でした。しかもそれを祐巳の視点からのみ描くという、ウルトラCの技法であったと思います。
>可南子との交流を通じてそれを試みた形跡はありますが
描かれるべきテーマの上からは可南子・夕子が主で従が祐巳なのではないかという見方からは、祐巳は噛み合わせるのがやっとだったと思われます。
もちろんこの視点のみでは一面的なものになるでしょう。殊に志摩子佐藤聖については親子関係とはまた違った、言わば高次の精神機能と言えるものについて述べられているような気がします。今まで極めて考察不足のところです。

「人間関係は一対一が基本だから」 ― 今現在の関係に映し込まれる背景

一体何がマリみてでは描かれているのか、あるいは描かれようとしているのかを考えるのは案外と難しいものです。
しかし作品の拡がり方からすると、それぞれの成長物語を通して、若い年代の人格形成に纏わる諸々の要素を広範に取り込み、できるだけ直截に扱おうとしているのではないかという方向性はあると思います。
昔語りの形で聖が少し前は今と随分違っていたことが示され、以後人格の変容を遂げる人物は多く続きました。およそ祐巳たちの年代というのはそれまで抱えていた矛盾や葛藤が顕在化して否定的な気分に陥りがちである一方、将来の可能性を自ら広げようとする自己意識が高まるときでありましょう。家庭という土壌から何らかの形で距離を取らなければならないときでもあります。青年期心理学の教科書の上っ面だけを撫ぜたような言い方ですが。
このような見方からすると、ユニークな設定である「スール制度」というのは今現在の一対一の人間関係を重視することを通してさまざまな果実を得られる仕組みとして描かれていると思います。(「人間関係は一対一が基本だから」というのは『パラソルをさして』での祐巳の独白です。)
・第一に姉妹制度の中に、あるいは関係を結ぼうとする過程自体の中にそれまでの歪みや癖のようなものが如実に映し込まれて像を結びます。すなわちスール制度はレンズとして機能しているようです。例えば祥子や、栞との姉妹関係を拒む聖、ロザリオを受け取らない瞳子のように。
・そして何かの歪みがあったとしてもそれをうまく保持(hold)し、互いに支えあうことができるようになります。例えば志摩子・聖のように。
・さらに一対一の人間関係は姉妹制度という坩堝の中で変わって行き、直接には関係のなさそうな問題も解決してゆく緒口を掴むことに繋がっていきます。家に縛られているような祥子も、祐巳のいる環境を選ぶという気構えを示すことができるようになっています。
以上のようなトピックの扱い方からすれば、家庭や境遇の話が背景に仄見えてくるのは目的と言うよりも必然です。この点、両親との関わりではなくて実の姉という家庭環境に焦点を絞り、「姉と違った生き方」として「生き方」にまで話の射程が及んでいる笙子の話はユニークです。笙子・蔦子が姉妹制度とどう関わるのかというところに話がシフトし、集約されていくことが期待されます。

「好きにもいろいろ」

恋愛を連想させる感情は次第に背景に退きつつあるのも一つの方向性だと思われます。
・祥子に対する令の評:「恋愛とはちょっと違う」
・笙子:蔦子に向けている感情は、本当は実の姉に向けたかった、しかし堰き止められて表現することのできなかった好きという気持ちではないか。
瞳子祐巳は頼りたいような、しかしそれもできないといった特別な存在ではあります。憧憬の念も少しはあるかもしれないのですが恋愛とは程遠いようです。全く逆の生き方をしている自らの分身のようなものと思われます。
祐巳祐麒姉弟愛の話です(多分)。しかし恋愛を連想させる部分もあるところが興味深いです。
すると、学園の中にすっかり溶け込み平穏な幸福は約束されていた「水先案内人」と「狂言回し」を出自とする祐巳瞳子は、人格形成上の問題を直截に扱おうとするテーマの貪欲さの前にはやや荷が勝ちすぎる印象を与えるのかもしれません。
>瞳子のキャラクター造型が実に余裕のない、殺伐としたもの
この点、話が深刻であることと情動が殺伐としていることは必ずしもパラレルではないのではという考えからは、軽妙さが失われつつあることを惜しむ方もいるかも知れないですね。

付記:青年期平穏説・危機説 ― 描かれているのはむしろ稀な事例か

一年生の中で大きな転機を迎えたのは可南子、迎えようとしているのは瞳子です。嵐のようだと言えるかどうかはともかくとして、到底平穏ではありません。
しかし葛藤が噴き出るなどというのはごく一部であって多くは大過の無い毎日を楽しく過ごしているのではないか、「姉妹関係」も何か切実な主題を負うものではなく、寧子が期待していたような学園生活を彩る一つの手段となっている場合が多いのではと想像すると興味深いです。
[▽続きます]

瞳子と「演劇」を中心に⑭ ― 内面の探索と受容

未来の白地図』、新宿マイシィティの有隣堂で買ってきました。二時の時点でサイン会の整理番号は76番。ああ、ついに生の今野先生に。
…さて。

主体的な努力がされていた

「女優業に専念する」と言って「パラさし」以降あまり登場していない瞳子ですが、その間に演劇に相当傾倒していたことがわかります。
ジョアナ」での独白からはジェニー・スノウ、ディビス先生だってマーチ伯母さんだって演じ分けることができる、さらに「私以上にエイミーを掴んでいる役者はいない」と大変な勢いです。
そこに至るまでには思いつくだけでも多くの過程が必要であることがわかります。
・物語の筋の把握
直接関係の無い役や物語の部分にまで言及があることからは、物語全体に対する理解も熱心に試みていたと言えます。
・役(キャラクター)の把握
どのような人物であるかを具体的にイメージできる。そして個々の場面で、その人物ならどのような気持ちになり、どのような行動をするかが実感でき、それに相応しい言動が劇の進行に沿って自然にできるようになる。
…と、いったところでしょうか。セリフをなぞることを超えた諸々が必要です。
ここで「役を掴む」という表現がされ、そして練習にも熱心だったということは、地では到底できないものを主体的に獲得していったという実感が瞳子にはあったのではないかと思われます。「間違ったり試行錯誤して当然」、すなわちエイミーというのは瞳子にとって「他者」であり、相当な努力の末にやっと立ち表れるに至ったのではなかったでしょうか。その実感の上に立って、「エイミーをやりたい」と強い未練を表白しているのです。

自由にして保護された空間

若草物語」が持つ家庭的な温かさ、その中でも殊に可愛がられているエイミーという立場が役として難しかったのでは、などという想像もできるのですが…。さらに言えば、12歳前後という比較的低年齢なのも気になるところです。自分と同年齢なのが一番やりやすいのか、下の年齢の方がやりやすいのか。明らかに大人の役であれば却って想像で補うのみで済むものかもしれません。エイミーに本当に「なりきる」ことに注力するならば、自らの過去も振り返り、それと照らし合わせながら役を作ることも必要だったと思われます。
ここで演劇という「場」について考えます。セリフをトチれば咎められるといったこともありつつ、感情との関わりということについては、何をしても自由で安全なところということが言えるでしょう。もし失敗してもそれは演技上の失敗にすぎません。現実とは異なる虚構であるという約束事と枠組みの中で、あまり普段は感じていないものを感じとったりする機会も増すのです。
以上のことにより、このように考えます。瞳子は役を作ろうとする過程で、その役に不可欠な新しい感情、あるいは逆に抑えなければならない不適切な自らの感情に気づき、顕在化させていったのではないか。役という「他者」を通じて、その母体であり、同時に対向する存在である自分自身が明確になっていったのではないかと。
そしてもしかすると「ジョアナ」にみられる寂しさと投げ槍な怒りの雰囲気も、役作りの上での副産物のように出てきたものなのかもしれません。すなわち、知らず知らずのうちに自らの内面を探索し、押さえ込んでいた影の部分を顕在化させてしまったように思われます。
しかしそのような過程も含めて「お芝居が好き」なのが瞳子だと、祐巳は見抜いたのです。以後の「演技の幅が広がった」という評価は、あまり快適でないものも含めた、今までよりも幅広い内面を持つに至りそれを受容しつつあるということと緩やかな対応関係にあるのだと思います。
すると「特別でないただの一日」で祐巳の手をぎゅっと握り返したところからは、こんな含意も感じ取れるのです。私は結局のところエイミーではない。それでも演じ切ることができて満足だ、と。

付記

ただ、「他者を生きる」というのとは一見正反対の体験様式もあるようです。興味深いことに心理劇の最初の事例(創始のきっかけとなったこと)は、「家庭においては怒りと暴力を頻発させていたとある女優は、舞台の上では純な乙女の役を演じ続けていた。しかし指示によって悪女専門の女優として訓練を積むと問題が消失していった」というものです。自分自身を決まった枠組みの中で再体験することで受け入れることができるようになった、ということでしょうか。
すると、上記とはまた別の面が見えてきます。
"エイミー"が瞳子のペルソナ(周りと向き合うための姿勢であり、普通は強固なものです)を表わすとしたら、演劇の中でそれを再体験することにより、拘束から離れることができるようになったのではないかと。「エイミーでなければならない」状態から「エイミーでいることもできる」状態への移行です。これは間接的に演技の幅が広がることにもつながるものでしょう。
[▽続きます]

瞳子と「演劇」を中心に⑬ ― 重ね合わされていた影

自らの外に重ね合わされていた?ジョア

感情との向き合い方という点に焦点を当て、どのように描かれてきたのかを見たいと思います。
ジョアナ』は瞳子の内心の独白という形で綴られており、異型のものでした。表題になっている人形「ジョアナ」は重要な意味を背負っていると思われるのですが、「若草物語」を読むと、「寂しさ、見棄てられ感」という感情を一身に担って具象化したものであろうことが分かります。(抄訳などはこちら。ジョアナ①, , , )
ここで、瞳子は私は人形ジョアナではないから、と一瞬思い浮かべ、すぐに否認しました。少し現われてた後にたちまち消えてしまう、極めて受け入れ難い感情であることが分かります。この前の段階は何かと考えると、抑圧(あれども無いが如くに扱う)ということでしょう。
瞳子は感受性の豊かさと言い換えても良い敏感さを持ち合わせていることが示されています。また、時に少々偏奇な印象を受けるものでしたが、いろいろな人物と積極的に関わっています。そこでこんな風に言えるのではないでしょうか。抑圧が完全に成功しているうちはその感情は自らの内にではなく、他者の上に強く投影・投射されて感じられていたのではないだろうか、そして次第にそれは自らの内側に少しずつ引き寄せられるようになってきたのではないか、と。同じような心象が、他者に対するイメージから自己像へと移ってきています。
書かれていることと想像を織り交ぜ、次のようにまとめてみました。

時期 自己像 寂しさの感覚 周りとの関係 演劇との関わり
パラさし」まで 平穏 極度の外在化・他者を見たときのみに感じるもの 強い働きかけ 選択と試行
ジョアナ」まで 揺らぎ 何とはなしの違和感 やや孤立化 演劇を通しての自己沈潜・集中
ジョアナ」以降 再体制化 自らの内のものとして受容しつつある状態 防衛的 より幅のある状態

乃梨子へ寄せる熱心さ

チェリーブロッサム』を読むと、乃梨子の人を寄せ付けない雰囲気が瞳子には放っておけないものに感じられたのだと思います。そして同時に乃梨子に対する無力感をも感じられます。特に「こんなに思っているのに」とぽろぽろと泣くところです。
あまり相手にされていないということに対する悲しさというのが描かれている箇所は、祐巳についてもありました。受験の準備で忙しい蓉子のことを気にかけていたため祥子が祐巳の方をあまり見ていなかったときの、「カサカサ」と荒んでゆくような気持ちです。およそ祐巳は好きということにおいて極めて立ち位置がはっきりしており、磐石です。好きな相手から絶えず補充を求め、叶わなければ寂しく思うような気持ちと言えますし、時に独占欲も顔を出すものです。
しかし少しだけ瞳子のものは違うようです。対象自体が持っている寂しさに感応し、これにつれて自分の寂しさの気持ちがわいて来るというニュアンスが感じられます。このとき乃梨子はありがた迷惑の体であまり寂しいという自覚はありません。本人よりも過剰な気持ちであって、まるで身代わりのようになっているようです。
その後の瞳子の振舞いはひとえに乃梨子を薔薇の館に送り出し志摩子と結びつけるためのものでした。これは端的に言って、自らがベスの役になりかわり寂しい人形を拾い上げるような努力だったのではと思われます。
乃梨子が遠くに行ってしまうという寂しさ、あるいは自らが薔薇様にという気持ちより遥かに、乃梨子の寂しさを埋めることに注力されています。成功した後の瞳子の満足そうな様子が印象的です。

祥子に対する無力感・どのように構ってほしかったのか

さてそうすると、祥子との間柄はどうなっていたのかということです。不明な点が多いのですが似たような機制が働いていたのではと思うのです。
祥子は長い間、いつも何かに怒っている、見えない何かと戦っているという凍てついたような心象の中にありました。そしてそれを苦痛とも思わない失感情症のような状況に近かったのかも知れません。これも「人を寄せ付けない」雰囲気です。幼少の頃からとすると相当根の深いものといえましょう。(『answer』での「私は何かかけてる部分があるようなので。それを何かで埋めたい」での「何か」は、祐巳との母性をめぐる結びつきで十全に充足されていくのですが…これは後の話です。)
そこで瞳子 瞳子と演劇を中心に⑩で述べたように、祥子本人よりも痛ましいような感覚におそわれ、何とかしたいという焦燥感に駆られたあげくいつも祥子にくっつこうとする可愛らしい妹のようであろうとしたのではないかと思われます。「親戚」と薔薇の館で言い張る瞳子は、実の妹のような存在だと印象付けたかったのかもしれません。これは祐巳が思い描くような「大好きな祥子お姉さま」というのとは、かなり様相を異にしているのではないでしょうか。
「構ってくれなくなった」という表現を考えると、単にへりくだっているだけとも思われますがあまり相手にされていないことを初めから知り、認めているような印象もあります。だからこれから頑張る、というよりも諦めの気持ちが既に込められているようです。

瞳子祐巳レイニーブルー

すると祥子のまだ見ぬ「妹」に対しては、どちらかというと期待感・仲間意識が強かったように思われるのです。…そして祐巳を自らと同じタイプか、と思っていたらかなり違っていたという意外性が「おっかしいんだもの」という発言に繋がっているように思われます。祐巳がショックを受けた祥子のやさしさというのは、やっと瞳子が引き出し得ていたものなのかもしれません。そして、「妹」というのは一方的に押しかけているような瞳子とは違い、仮にも祥子が選んだものです。乃梨子志摩子の後押しをしようとしたように、できれば祥子・祐巳の関係の後押しをしようとしていた可能性も高いと思います。
薔薇の館に現れたときの瞳子は、あまりに無防備でリラックスし過ぎ、といったところに尽きるでしょうか。
瞳子の暮らし向きは、祥子ほどではないが相当のお嬢様というのが適切なようです。ある程度の押しの強さ、ずうずうしい感じがあれば祥子に近づくことが可能です。そのような態度の延長上で薔薇の館に現れたこと、「お姉さま」という呼称、由乃の「姉」を狙う下級生という連想、諸々が重なって誤解のもとになっていったのではないかと。
瞳子の祥子に対する無力な感じというのは、ドライブをせがむが祥子に窘められるといったところに端的に表れていると思われます。ほかにさして正当な理由は見当たらず、しかし祥子を放っておくわけにもいかないといった焦燥感があったとすれば何か悲しい感じがします(この点、瞳子はさほど小笠原家には入り込めない立場なのではという忖度もしますが、それはまた別の話です)。大変なことが積み重なり、また以前のような祥子に逆戻りしてしまったと思ったのかもしれません。
このような内心の布置があったとすれば、瞳子にとっては自らの立場は度外視しても祥子こそが見捨てられてはならない存在だったでしょう。しかも自らの無力さもひしひしと感じていた(自分では人形を拾い上げることができない)としたら、祐巳しか祥子を支える人物がいないと言えます。…ただ自分自身が仲違いの一因になっていることをどう感じたのか、またいつ気付いたのかは不明なところです。愕然とし、かなり反省もしたと思うのですが。
さてそうすると、聖の胸に顔を埋めて祥子を拒絶するというのは祥子を見捨ててしまうことであり、ミルクホールでへらへらと笑っているというのは、もうそれで良いと祐巳が思いを決めて確定的にしてしまったという極めて許すべからざることだったのでしょう。
「見損ないました」という言葉には、大きくかけていた期待を裏切られたというニュアンスが感じられます。

瞳子退場

中庭での「私たちは、仲はよくないんです。それでいいんです」と言う場面は、印象的です。「私たち」という呼称や内緒話のように囁くというところからは、怒りとは相容れない親密な雰囲気が漂っています。何かの間違いが無ければ瞳子祐巳は親密な仲間のようになれたのではないか、しかしもう今となっては仲が良くないとしておいた方が都合が良い、という含意が感じられます。
「精神衛生上悪い」「違ーう」と言って薔薇の館から逃げ出す様子からは、祐巳に対する信・不信の気持ちの間で揺れている様子が伺えます。祐巳は本来は極めて頼りたかった対象であったが、しかしそれはもうできなくなったのだと思われます。
その後は祥子のことは祐巳にまかせ、しかし遠巻きに、不器用に心配をするという形が出来上がったようです。
[▽続きます]

姉妹制度の知恵⑤ ― 自己受容の過程・祐巳の優しい分身

姉妹制度の知恵①などでよーすけさまから重い内容を持つコメントをいただいており未だに消化しきれていないのですが、改めて考え直したいと思います。

祐巳にとって他者の好意や愛情というものは、与えられるまで待っていなくてはならない、自分から求めてはいけないものであり、また自分の好意を他者に押し付けてはならないものだ、という認識が潜在的にあるのではないでしょうか。
祐巳の祥子に対する一極集中的な愛情、執着というものは、自らが密かに抱いていた、しかし同時に望んではならないと考えていた願望(「祥子の妹になりたい」「祥子を姉と呼びたい」)が祥子によって思いがけず充足されたという強烈な幸福感と陶酔に支えられているのではないか、という気がします。

祐巳は時々融通無碍な柔軟さを示します。しかしその一方で確かに、極めて抑制的と言える面があるという見方ができそうな気がしてきました。
すると祐巳が祥子を通じてなしてきたものは、祥子の「妹」にならなければ到底知ることのなかった事柄をいろいろと体験するというストーリーだけではないことになるでしょう。
成長というのは一般的に、今までできなかったことができるようになる、あるいは物事に対して広い見方ができるようになるということです。そしてこれには外部から新しい要素が加わるということの他に、本来自らが持っていながら何らかの事情により受け入れ難かったものを、認めるようになることも含めることができるでしょう。すなわち、成長、あるいは少なくとも変化というのは自己受容を含みながらなされるものと言えます。祥子との二者関係のみに限って言えば、姉妹制度と密接な関わりを持ちながら祐巳は今まで知らなかった自らの姿を受け入れるようになったのだと言えます。
そこではなはだ雑駁ながら、描いてみたのが次のようなイメージ図です。

①〜③は特にどの事柄をさすとは決めていないのですが、例えば①は《無印》での②は『パラソルをさして』での変化、③は『涼風さつさつ』や『特別でないただの一日』の終盤に見立てることができると思います。図の①〜③はそれぞれ、次第により奥底の強い願望[オレンジ色の楕円の部分]に到達し、それを意識に浮き上がらせて受け入れることができるようになることをイメージしています。願望が奥底にあるほど強いものですがそれと同時に、抑制[青色の蓋のような部分]も強いものです[次第に色が濃くなっていることで表しています]。そして、各要素は次第に下部に移行するというより、上部の状態を保ちながら、下部の状態も次第に引き寄せて同時に実現してゆくものと捉えたいと思います。

姉妹制度に対する抵抗

祐巳は二度にわたって祥子からの申し出を断っており、それには強い理由と弱い理由の二種が含まれていたと思われます。直接の理由になった、一方的にロザリオをかけられそうになったという祐巳の悲しみは内実の無い婚約を強制されているという祥子の悲しみと重なり合うことで洗われ「賭け」は無効化しました。しかしその他に、うまく説明できないけれども必ずしも妹になりたいわけではなくて…と祐巳が言っているのが注目されます。
それは姉妹制度自体に対する幾ばくかの抵抗を含むと考えられるでしょう。制度の一番表に見て取れる「教え導く」「従う」というほとんどが義務で構成されている制度の外郭と、祐巳の祥子に対する気持ちは反発し合うというほどではなくとも、密接なつながりは持ちません。
志摩子、可南子はもっと明確な形で制度に抵抗しています。生粋のリリアンっ子(こそばゆい感じの響きですね)である祐巳はよりスムースに受け入れることができたということでしょうか。終盤で祐巳は「それいけ」と自らに気合を入れることで抵抗を乗り越えました。コメントで述べられているような「自ら進んで状況を作り動かしていこうという意欲に著しく欠けている」と目されかねない部分が祐巳にあったとしたら、制度は気力を沸かせ、自己成長の契機になるような気持ちを露わにする働きをしていると言えます。そして同時に、我慢しなければならない点が増える点で抑圧的なものでもあります。
なお、このとき祥子は一方的な働きかけをしたことを反省し、祐巳によって勇気付けられたことを自覚して「してくれた」ことがあると言っています。しかし祐巳の方は無自覚でした。この微かな齟齬は「レイニーブルー」への遠因になっているのではないか、そして話の基礎は既にこのときに準備されていたのではないかなどと忖度するのです。

縦・横のつながりの止揚・情緒的な結びつき

姉妹制度がどのようなものであるのかを考えるとき、それを家族の寓意として捉えることができます。「薔薇ファミリー」「他家の騒動」といった表現、「妹」の「妹」を指して「孫」という表現があります。薔薇の館などは複数の家族が棲む「大きな家」のように見えなくもありません。そしてその中でも縦の関係ですから親子に類似するものと捉えることができます(婚姻に類似する点もあると思うのですがここでは措きます)。
それは単に親子関係の簡易版であるとは言えません。最も大きなことは、実際には一回り、例外的に二回りしか違わないことです。やや逆説的ですがもともとほとんど並列的(横並び)な二者を僅かな差のみを手掛かりにしてことさらに分かち、片方には教え導くことを初めとしたやや過大な義務と責任を負わせて親(母親)の役を、片方にはそれに従うことを初めとして子(娘)の役を負わせたものだと言えます。縦の関係を強調しつつ、横並び、あるいは等質であることを根底に持っていることは重要だと思います。
そしていくら義務を意識しなければならない姉妹の関係といっても、それはたちまちのうちに独特の情緒をもたらすものなのでしょう。紅茶で汚した祐巳の口の周りまでは面倒見切れないという連想、そしてお腹をすかせた「妹」に対してアメ玉をあげた祥子に対して令が「はしゃいでいる」と指摘するところは圧巻です。そういうものなのだ、と経験を積んでいる令が事実を淡々と述べているようです。

普遍的存在との邂逅・元型論からの小考

パラソルをさして』では祐巳が自分を次第に取り戻してゆきます。
・落ち込んでいるときはそのまま一直線に抜け出せないように思われても、底を打てば次第に上向きに戻っていくことが期待できるのではないかという感情の起伏の波形性。
・まずは体から暖めなおすという、体から入ってその後で精神的なところにケアが及ぶという順序。
・甘えの気持ちが十分に満たされることで、冷静に考えられるようになること。また、楽だからといって甘えの気持ちに浸りきったままでいてはいけないという判断力が示されること。
…と、いったところに説得力を感じられる話です。
ここで弓子という老婦人が登場しています。彩子と弓子は祥子と祐巳に名前が類似しており、喧嘩別れをしたまま長い時を経た祥子・祐巳の姿を象徴しているのだろうと思わせます。マリみての世界が、万人を支える普遍的な時間の流れの中にあることを感じさせます。
それでは祐巳にとってどのような意味を持つ存在なのか。今度は逆に時間の概念を取り払い、ユングの元型の考え方に沿うと、祐巳個人にとって普遍的な存在であるといえます。
老いた人であることから、大きな知恵があることを思わせる。しかし普段は気難しい。
・今の祐巳が知らない祐巳自身の姿を良く知り、確信に満ちている。
・さらに、話の内容が祐巳が自分自身と対話しているようであり、自身に対する基本的な信頼感を得ながら自分を受け入れるように導かれてゆく
ということからすると、弓子は祐巳の“老賢者”として描かれているのかと思います。
また、
・世の中から距離を置いてひっそりと暮らしている。
・頑固だが、同時に一種の強さの表れとも言えそうである。
…という弓子の性質からすると、それは祐巳の裏を行っているようです。祐巳は概ね賑やかで楽しい学園生活を謳歌しているのですが、弱々しさも時々垣間見せます。
祐巳の"老賢者"であり"影"に近い存在と、全く怖くない、親しみの感覚をもって交流がされたと言え、弓子は祐巳の「優しい分身」であったとするのが良いと思われます。
なお『子羊たちの休暇』で登場する西園寺家の心を閉ざした老婦人は、もし祐巳たちの「果ての姿」としての意味合いを持つとすると少し寂しいことだなどと思っていたのですが…
たぶん、世の中の穢れを良く知らない、賑やかで楽しい生活を送っている祐巳たちと属性の上で対抗する存在、すなわち"影"として描かれたのではと思って納得することにしています。光のあるところには必ず影があり、時に交流することがあるのだと。そして自らの"影"と邂逅することができた祐巳は、今度は架け橋としての歌で皆の"影"と交流することができたのだ、と。
[▽続きます]

新刊表紙に寄せて

未来の白地図』の表紙が公開されましたね。展開の予想は苦手でいつも外してばかりゆえ、諦めております。しかし、表紙の絵から連想されることをつらつらと述べたいと思います。言わば判じ絵遊びです。
表紙の構図での、体の向きと視線の方向に注目してみます。
二人の人物が登場している巻を見ると、当然と言うべきか、二人が向かい合ってじっと見つめ合っているというような構図はありません(笑)。表紙は物語が始まる前のスナップショットのようなものですから、登場人物の間で初めから閉じていて読者が入り込みづらい形を避けているということでしょうか。
・『バラエティギフト』:由乃祐巳が決めポーズ。
・『レディ、GO!』:びっくりしたような目の祐巳と、血気に逸る由乃
両者ともいわゆるカメラ目線であり、特に誰かが写真を撮ったかのような印象を与える表紙です。
祐巳由乃の、ほのぼのとした間柄が伝わってくるようです。
・『ウァレンティーヌスの贈り物(前編)』
それぞれ違う物を持って、祐巳と祥子はほぼ背中合わせになっています。
・『黄薔薇革命』、『特別でないただの一日
後ろから「姉」が「妹」をそっと支えています。この二つの巻は構図が似ていますね。《無印》もこの系統に入るでしょうか。姉妹関係を表すのに極めて穏当で、安心感を覚えます。
イン ライブラリー』は言わずもがな、意識を失って凭れかかっている祐巳を本好きの祥子が支えています。
・『涼風さつさつ
髪が風に棚引く爽やかさ。祐巳と祥子の体の向きはおよそ向き合っています。
・『ロサ・カニーナ
斜めに画面が区切られた、特異な構図です。蟹名静志摩子は、聖という接点がなければ知り合うことは無かったでしょう。全く別々の道を行っている者同士が、ほんの短いひと時を経て強い影響を及ぼし合うに至る不思議さを感じます。
さて、『未来の白地図』です。あろうことか、瞳子祐巳は別々の方向を向き、視線も別々でしかも読者の方すら見ようとしていません。背中合わせかと思うとそうでもなく、ほとんど接していません。瞳子のポーズは拒絶を表しているのでしょうか。
二人はバラバラという印象を受けるのは、仮に瞳子が本心を隠しているのだとしても、祐巳があらぬ方向を向いているように見えるからです。虚空を彷徨う空ろな眼差し…などというのは大げさですが。前途多難な気がします。
…あれあれ余りよろしくない結論となりました。
しかし良く見ると祐巳の目には茶目っ気が宿っているようでもあり、新しい境地を示しているとも思われます。構図、二人の表情共に新機軸ですね。ますます楽しみになりました。
[▽この項終わりです]

瞳子はトリックスター?・新刊あらすじに寄せて

新刊の題は『未来の白地図』。浅はかな先入観かも知れませんけれど、瞳子の出奔は心の中のことを抱えきれずに逸脱的な行動をしてしまった(行動化、アクティング・アウト)、などということが書かれているのでしょうか。
これまでの話の現象だけを見るならば、瞳子は一つ間違えれば大変なことになるといった破壊性と、通常ではできないことを実現するといった創造性を合わせ持っているようです。*1
銀杏の中の桜では意図的に特別な「場」を演出し、出演しました。
祐巳の前に現れたときは(おそらくは全く意識しないままに)祐巳・祥子の姉妹関係を壊しかけ、結果として二人の間柄は組み直されました。ただ何より、『B.G.N』では薔薇の館に闖入して、祐巳にとって調和の取れた場所を壊したかのように描かれているのが目立ちます。祐巳の視点に立つ限り、「マリみての世界を壊した」とも言えましょう。
・ほとんど不明な演劇部の内部ですが、瞳子の挙動のおかげで一石を投じられたのではと想像します。
瞳子と演劇を中心に①でも触れましたが、瞳子収まりのつかない強い力を溜め込んでいる子として描かれているようです。それを「幼稚園児」のような可愛らしさとしておぼろげに感じ取っている祐麒が連れ帰るというのは、何となく分かるような気がします。
瞳子にも何か余程の考えがあるのでしょう。少しずつ違う、それぞれの人物の強い意思が感じられるときに魅力を感じます。祐巳がいかに弱々しくなっても、それは強い欲求の裏返しです。
薔薇のミルフィーユ』ではそれぞれの姉妹の関係が改めて見直されているようです。乃梨子志摩子で示されようとしているテーマが何かあるのかも楽しみです。由乃と菜々は、…ええ、飛ばしまくり(飛ばされまくり)なのでしょうかね。
[▽この項終わりです]

*1:はてなのキーワードに「トリックスター」の解説があります。