くりくりまろんのマリみてを読む日々

『未来の白地図』 ― 役との繋がり

明けましておめでとうございます。更新頻度が矢鱈に低くしかも読みづらいブログに関わらず、目を通したりコメントを寄せてくださる方々がいるのは有難い限りです。
ラストスパートに入ったプリキュアに関連する方々の記事も昨年は沢山読ませていただきました。実際の放送を見逃しても記事だけでお腹一杯、満足ということもあったりして(笑)。"ARIA"は和みました。

役との関わり ― 共感・同一化・目標・乖離

何とも散漫なのですが、瞳子と「若草物語」「小公女」での役との関わりについて今考えていることを述べたいと思います。
・共感の対象:他人とは思えないような親しみを感じたり、自らとの共通点を見出していたのではないか
・憧れと目標:共感とはやや違い、物の考え方が共感できるなどといった自らとは違うが良い性質をその役が持っている、あるいは物語の中での自己実現の過程が示されているのではないか
・同一化の対象:物語で示されているのと同様の行動様式を知らず知らずのうちに取っていること・またはペルソナの形成との関連性
・乖離:自分は役が表しているような人間ではないという意識はどの程度なのか、さらにはいつ出てきたものなのか
…というふうに分けて整理しようとしたところ、とっちらかってしまいました。それにこのような考え方自体が合っているかどうか不明なところです。
まず分りづらいのは、瞳子と役との間の類似性が必ずしも役に対する思い入れとは繋がるものではなく、むしろ相反するものであるかも知れないことにあると思います。実際「見た目と地」と言われた途端に激しく抵抗していますし、役を掴むという体験とは相容れないものです。従ってエイミーは憧れる「他者」として捉えられていたのではと思います。…ただ正確にはエイミーというキャラクター自体への思い入れは明確には示されておらず、単に練習の成果としての思い入れかもしれませんし、もしくは「見た目と地」であることは分っているけれども更に役を掴むことができのだと解することもできるわけです。ただ、『特別でない〜』で「エイミーはつないだ手を、ギュッと握り返してきた」という描写からは役との間に何らかの人格的な繋がりがあることが暗示されているようです。
ごく大まかにはこんなことを考えます。
役の担っていた夢や良さというのは思い入れのもとになっていたが、その一方で次第に自らに対しては失望の念が強くなり、迫真の演技という形に昇華されて残っているのではないかと。なお、エイミーも将来は女優として大成する人です(ただし最初から女優になりたいと言っていたわけではなく、Little Women の続編で出てくる話かと思います)。
セーラは不幸な境遇にも関わらず割合前向きで、登場時の瞳子が何となく意欲的な頑張り屋の風情があることを連想させます。大体11歳くらいに不幸に遇っており、瞳子もこの頃に喪失にまつわる何事かがあったのではないかなどと思うのですが、書かれてもいないことを推測するのは禁物ですね。
セーラはいただいているTB瞳子ちゃんとセーラ・クルー;"I Tried Not to Be"の中で詳しく触れられていますがPrincessのようであろうとして自らを支えており、「施し」を惨めさを我慢して受ける場面があります(瞳子が途中まで演じたところです)。かつて瞳子は「薔薇様になりたい」と言っていたとのことであり、このあたりは何となくPrincessのようであろうとする姿勢と重なるのではと思われます。また、想像をいろいろとめぐらすのが得意なことは、「銀杏の中の桜」で制作・出演してしまう点を思わせます。
人形は基本的に愛玩の対象ですが、自らの否定的な分身としての意味を持つことがあるようです。セーラはかつては瞳子にとって共感の対象で、エイミーは後に目標になったのではないかというふうに時間軸に沿って縦に考えると良いかもしれません。名前に注目し、作中で頑張り屋のセーラに何もしないと叱られた人形(Emily)は長じてエイミー(Amy)となり、それは瞳子にとっての目標でもあったが、同時に影となるJoannaという新しい人形に向き合わなければならなくなったのではないかと。
なお、エイミーは後に手紙の中でJoannaをばかにしてごめんなさいと謝っており、瞳子が今まで見向きもしなかった側面に向き合わざるを得なくなることを暗示しているのかもしれません。「未来の白地図」の終盤からは自らの否定的な面に気付き始めているばかりか、浸り切りそうになっているように見受けられます。