くりくりまろんのマリみてを読む日々

追体験の重奏② ― 「無印」への回帰と展開

こともあろうに、新刊発売から一週間以上経っているのにまだ読めていません。いわゆるネタバレは普段は気にせず、他の方々の感想を読んでから取り掛かることも多いのですが、今回はまっさらの状態で読み始めてみようかと思っているところです。発売直後の掲示板は独特の熱気があっていつも楽しそうですね。感想を読んでからの場合、皆が注目する箇所が先に分かっていて、実際に読みながらこのことを指していたのかと納得しつつ楽しむのですがそんな人は稀なのでしょうか。

理解ということの型

祐巳のなしている理解ということについてやや強引ながら分けて考えてみたいと思います。

関わり方自体が一つの理解の様式

《無印》では祐巳の現在の状況が祥子の状況と重なり合い、「未来の白地図」では祐巳の過去の状況が今の瞳子の様子と重なりあっています。①では、身体感覚を拠り所として過去と現在の時間の差は超克され、今現在の重なり合いと等値のものとなっていると言えるのではないかと考えました。時間の前後の概念を捨象すれば、具体的な詳細は違っていてもおよそ同じような体験に身を浸している、あるいは「他者の追体験をしている」ということになるでしょう。
それは、これまで長く抱いていた人物の像が機が熟して急激に色濃くなり、自分に近い生々しい存在として感じられることになる過程が全体として描かれていると言った方が良いと思われます。「無印」では祐巳は遠くからですが祥子を前々から知っていたわけですし、瞳子についても、もちろんそうです。予め知っていた期間は共に、マリみてで流れている時間軸で言うと長い方に属するのではないかと思われます。突然の出会いでもなければ運命的な出会いでもないわけですね。また瞳子の作った数珠リオについて祥子と訝しがる下りなどでは、瞳子を余裕をもって眺めることができる状態であることが示されています(祐巳が最も落ちついている幸せな時期であったと考えると、なかなか大変です)。
それがふとした出来事によって祥子や瞳子にとっての苦悩が集約されているかのようなものに触れることになります。そこでは、内容が客観的に言って深刻そうであることの他に、祐巳から見た場合の生々しさ、距離感が縮まって感じられるという認識の様式が重要なものになっていると思います。距離感の縮まり方を強めているのが、立場も背景も全く違う同士であるにもかかわらずあたかも身をもって同じ体験をしているかのようなつながりなのだと思います。「無印」の温室の場面は、自分とは違う遠い存在であった祥子が、急に身近な存在として感じられた瞬間ではなかったかと思います。また「未来の白地図」の冒頭もそうです。
そしてどのようにしてそんな状態に至ったかと言えば、さほど強く祐巳が意図して物事に関わっていった結果ではありません。(瞳子が家に来たのも、突然前触れも無くやってきたと感じたと思われます。)この点を捉えれば祐巳は巻き込まれ型の主人公であることを示しているに過ぎないのかも知れません。しかしより肯定的に解せば、状況に巻き込まれているようでありながら動くことをやめない、祐巳の物事に対する接し方の良さが表れているとも言えるでしょう。瞳子に対してはつかず離れずの状態を繰り返しながら次第に印象を変えていきましたし、祥子に対しては肝心なところでは自分から追いかけたりしています。(正確な意味はほとんど知らないのですが、祐巳は「誘い受け」であるとか。関係があるのでしょうか。)機が熟したときに、なかなか得難い「追体験」という現象が起きたように見えるわけです。
ただ同時に、それは心が通い合うことに直接にはつながらないものなのでしょう。

深い踏み込み

瞳子と演劇を中心に⑮〜⑰では、祐巳瞳子に対し局所的に深く踏み込んだのではないかと考えました。祐巳に満足感はありましたが瞳子からの直接の手ごたえは全くといって良いほど描かれておらず、その段差が面白いです。…しかし、瞳子祐巳の手を握り返す場面はまさに「手ごたえ」であるわけで、抒情的ですらある場面です。

包容力を示して全人格を受け容れようと…

そして前々回のコメントでほっぷさまがされている表現は、腑に落ちてくるものがあります。それは祐巳がしようとしているがなしえていないことであり、また「無印」で祐巳が垣間見せた姿勢ではないかと思います。

未終の「無印」 ― 大団円に含まれる心残り

祥子さまのために、自分はいったい何ができるのだろう。/「ロザリオをください」
祐巳は、二回申し出て断わられています。そして二回目に申し出たときは、祐巳は既に自分がロザリオを受け取ったところで全て解決するわけではないことを知っています。また、祥子からもやりとりは不要であると既に言われています。
この場面は祐巳瞳子に申し出、そして断わられる場面に重なってきます。
・その場だけを見れば「取り急ぎ」の感があります。何かをしたいが何ができるのかは分からず、さしあたりできることはロザリオのやりとりしかない、という状態です。
・しかし、単にそうすることが役に立つかもしれないという事情のみに依存しているわけではないのでしょう。やはりその背景には、関係を切りたくないというニュアンスも微かに伺われてくるようです。
ここでの祐巳の気持ちにつき、両想いでないことを辛いと思うという過程を経ながらふと祥子の内面に触れ、そして身近な存在と感じ、姉妹制度を通して人間的な繋がりを持ちたいと思う瞬間が描かれたのではないかと思われます。
祐巳は学園にすっかり馴染んだ生徒として登場していますが、個人的な気持ちのつながりが姉妹へのつながりへとなだらかに結びつくありさまは、やはり制度とも親和性があるように書かれていると言うべきでしょうか。ただ、このときの祐巳の気持ちというのはもっと考えなければならないかも知れません。姉妹関係を結ぼうとするとき、好きという気持ちはもはや語られていないことが注目されます。瞳子に対しても、決して好きとは言っていないのですね。「制度を通しての繋がり⊇好きという気持ち」であり、ずいぶん意味が拡張しています。…この点、どこか借り物のように姉妹関係を見る白薔薇の話とは対極的といえるでしょう。
前回のコメントでよーすけさまが詳細に述べられている、これから成熟が必要な部分の原型が「無印」に表われているのではないかと思われます。
祐巳「でも、私、何も」
祐巳は、祥子に対して何かができたとは思えないまま姉妹となりました。一方、祥子は「してくれた」と述べ、ただ自動的に姉妹になるのではなく、何らかの実質が必要であることを知ったと言っているようです。
・祥子「賭けとか同情とか」
祥子は最後まで、祐巳の行いが同情だと思っていたのかもしれません。しかし祐巳の主観は「未来の白地図」におけるがごとく、同情ではないのに、というものではなかったでしょうか。祐巳が示したかったが示し切れずに終わったのは、もっと全体的な繋がりを持ちたいという気持ちだったのではと想像します。
「無印」で未だ終わらざる物語を微かに含みながら姉妹となったかつての「妹候補」は、今はより大きな意思と現実的な問題を抱えて「姉候補」となっているのだと思われるのです。
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