瞳子と「演劇」を中心に⑰ ― 取り込まれゆく祐巳の要素

透徹した対象への没入

翻って「ジョアナ」の瞳子がどのようであったかをみてみますと、一貫して「居場所があるかないか」ということに拘っているのがわかります。要らないと言われて矢も盾もたまらず出奔したが、やはり要る存在であることを再認識して自ら戻ったということになります。ただここにいう居場所というのは少なくとも表面的には、どうあっても仲間を求めているのではないことが注目されます。山百合会の劇への参加もかなり自発的であり、(祐巳や可南子がいることも影響しているのでしょうが)劇についてならば押しかけるようなこともするのです。
「演劇」と向かい合うとき、自らをあたかも機能中心の道具のように扱っている様子が「ジョアナ」からは分かります。機能というのが極端であれば、「役割」というのが相応しいでしょうか。役割としてしか見ようとしないのは自らに対してのみならず、認めてくれており、味方であるはずの部長に対しても等しく及んでいます。
そして練習も熱心と評され、役を掴むという成果も得ていることからは、注ぎ込むエネルギーという点では並みのものではないのです。すると瞳子自身の動機・充実感は一体どこにあるのかという疑問もでてくるところです。演劇という事柄の中に自己を捧げ主体を対象の中に溶け込ませているかのようであり、自らを「必要不可欠の駒」とするのは、その端的な表現です。
このとき瞳子自身の能力・才能・達成ですら、演劇に向き合うときの一つの機能、役割の一部になっていたように思われます。瞳子がエネルギーを注ぎ込んでいながら、逆に演劇からは何も受け取ろうとはしない態度もまた特徴的です。通常であれば努力を惜しまないことや能力が高いということにより、割合純粋なものから俗的なものまで、多くの果実・見返りを期待してもおかしくはありません。また、それには周囲から認められたり、さらには能力を通して集団・仲間に加わることができるといった帰属にまつわることも含まれるでしょう。…しかし、あまりそのようなニュアンスも感じられません。
すると"先輩A"に対して怒り出すというのも、無神経である、あるいは気持ちを解そうとしていなかったとばかりは言い切れない気もします。持っている文脈が違っているので瞳子を見るときの"先輩A"の辛さや焦りがそもそも分からなかったのではないかと思われます。「見た目と地」だけで選ばれたという言葉は第一義的には努力や能力に対する冒涜なのですが、瞳子の感覚としては「役を汚された」というのに近かったのではないでしょうか。

「役割」を「私」に引き戻す

ただ、それでもやはり瞳子の「私」の部分は完全に消し去ることはできず、演劇との合一感が妨げられるとき傷つくのです。そして瞳子が忌むのは、何の力を発揮することもできず、ただじっとしていて情愛を受けるだけの人形「ジョアナ」が表すような無力感なのだろうと思います。(人形の寓意を見棄てられている惨めさに見るか、無力な感じに見るか、力点の置き方によってややニュアンスが異なってくるところです。)
ここで祐巳の言っていることや関わり方を見てみると、多くが瞳子の内心と合致しています。「損失だよ、損失」というのは自らの努力と能力を思い出すのと重なっています。
しかし当初の目的と違い、かつ瞳子の内心とも違う部分もあります。「すごいじゃない」と我が事のように喜び、「家に来て練習すれば良い」等と相当積極的です。我が事のように喜ぶというのは、それ自体は何の目的も持たない点で自己完結的です。(なお、「家に来れば」というのも多くは自らの楽しみのために言っているようであり、これが原因で後に「未来の白地図」で瞳子祐巳の家に来ることになったのだとすれば、祐巳の与える影響が思わぬところで出ているようで面白いです。)しかし常識的に妥当な判断を示す、あるいはできるだけ相手の立場に立って考えるといった努力とは別の、相当な難しさがあるのではないでしょうか。というのは「私」の部分が充実し、しかもそれを素直に重ね合わることで初めてできることだからです。
そして「部員たちに文句を言わせないくらいいい演技をする」というのは、「居場所があるかないか」ということを気にせず、本来的な意味で力を発揮せよという意味に結果的にはつながっていきます。弓子が「あなたの選んだ」お姉さまなのだからと祐巳に言ったような、主体性の回復を促し、これまでの文脈の転換を図るような言葉と言えるのではないでしょうか。
この点瞳子と「演劇」を中心に⑧で、はちかづきさまが《祐巳には「しなくちゃ」ではなく「したい」という思いに突き動かされての行動がしばしば見られ》とされているのはけだし慧眼であると考えます。瞳子のために居場所を確保しようとしながらも、祐巳から全体的に伝えられているメッセージは、「瞳子自身のために演ぜよ」ということであり、「それによって私をも楽しませよ」ということです。
…中庭の方を見て静かに言った。/「何か、つまんなくなっちゃっただけです」という下りは、強い怒りでも悲しみでもない、何か忘れ物をしているがそれを思い出せないでいるような、微かな空しさの感覚が感じられます。瞳子の「私」の部分、埋没しかかった《本当の自分》が祐巳によって思い出され、補われていったのではないかという気がするのです。できごとの直接のきっかけはいろいろと言われたことなのですが、根底にはどのような関わり方をしているのか、という話でもあるのでしょう。
瞳子を見送ったまま視点は祐巳のもとにとどまり、「ジョアナ」でも瞳子が苦笑するところで終わっているため、祐巳の言葉のほとんどは投げかけられたままであり、その後の内心の布置の変化は分からないのですが。
なお、祐巳が「何もできなかったよ」と後に乃梨子に語っているのは、必ずしも祐巳の自己評価が低いためばかりとは言えないのかも知れません。したいという気持ちに基づく行動は、しなければならないことをして達成することより達成感やコントロールの感覚は低いものだからです。

重層的な人物像

内心での向き合い方と、外側から伺われる姿とは少しずつずれがあるようにも見えるところでしょう。祐巳は多くの場合は弱弱しく、さほど強力に物事に働きかけることはしません。しかし時に強い影響力を及ぼすし、内面では(「ロザリオの滴」で乃梨子志摩子に言っていた「欲張り」と同じような意味で)欲張りな面を持っています。
一方、瞳子の一番表層に見えるのは目立ちたがり屋の派手好き、といったところでしょうか。髪型にしたところで、周囲にそんな印象を与えている可能性はあります。しかし奔放かと言えばそうでもなく、慎重な面、あるいは物事との距離をうまくとろうとしているかのようなそつのなさも目立ちます。そして、ここに描かれている、物事に深く関わろうとするときの内面は相当ストイックであり、同時に純粋さと熱心さも持ち合わせています。瞳子祐巳のドラマは、この重層性が絡まり合いながら形作られてきたのではないかと思われます。そして、普段は違いがありすぎるためすれ違いがちな二人の性質が、同じ題材を巡って深い次元でふと重なりあった瞬間が、ここで描かれたのではないかと思います。
そして、これまでの瞳子の行動は、信念や熱心さは感じられるのだがその一方で瞳子自身の満足はどこにあるのかが今ひとつ判然としないような自己犠牲的なものが多かったのではないか、演劇においてその関わり方が端的に現われたのではないかと思われるのです。そして、演劇という場こそは力を投入すべき居場所ではなかったかと思います。
以上のことは、主に「事柄」に対してのものでした。しかしどうでしょう、例えば祥子との関係においても、一方的に支え、あるいは励まそうとしようとしていたようには見えないだろうかと思います。祐巳と違って祥子から何物も受け取ろうとはせず、しかし熱心さはあるのです。ミルクホールで祐巳が感じた瞳子の瞳の「まっすぐさ」は無私の純粋さにあったのではないかと思います。(この点、祥子に対して甘えるような態度は、本当は大して好いているのではないのだが別の要素があってあたかも親密であるかのように振舞う必要があったのではないか、さらには「演技」だったのではないかという見方があるとすれば、少々違うような気がするのですね。少なくともそれは祥子のためではないかということを、やさしさを引き出す「妹」であった可能性 で述べました。)そして瞳子祐巳の間で描かれなければならなかったのは、お互いの背景・立場を捨象してもなお残る、祥子への向き合い方の差ではなかったかと思います。
なお、瞳子祐巳の違いを何らかの生い立ちの違いに求めようとするならば、漠然とながらこんなことを考えます。祐巳は自由に泣いたり笑ったりできるような場にもともと恵まれてきていました。しかし「お邪魔でなかったら」「ご迷惑でなかったら」などと遠慮する瞳子はどこか居心地が悪そうです。何事かに対して自由に振舞ったり気持ちを傾けること自体が、どうかすれば周りに迷惑をかけることに繋がってしまうかような恐れがあるのかもしれません。何かに「抑え込まれている」といった感じがします。しかし一旦見つけた対象には、祐巳とはまた違った純粋さをもって向かっていくのではないかと。

瞳子=エイミーの含意

すると、「エイミーはつないだ手を、ギュッと握り返してきた」にはいろいろな含意を見て取ることができるでしょう。瞳子即ちエイミーであるという、現実にはありうべからざることを修辞的に述べた一文は印象的です。ここで複数の見方が成り立つとしてもそれらは必ずしも排除し合うものではなく、幾重にも重なった意味を持つと見ることもできると思います。
①この場面では祐巳の視点から衣装を着たたままの瞳子のことが述べられています。すると第一義的には、瞳子の演技がとても良かったことを示すのではないかと思われます。祐巳が見てどう思ったのか、あるいは広く客観的にどうだったのかは直接的には述べられていません。しかし祐巳から見てその時瞳子にエイミーという役が宿っていたことを端的に表しているのではと考えれば、(祐巳の視点であり、同時に客観性を持つ叙述としての地の文でもあるこの一文では、)瞳子即ちエイミーであると言えるほどの演技の良さを表していると考えられるでしょう。
②一方、後から「ジョアナ」を読むにつけ、「ふてくされたような」顔をしていることや「エイミーに戻らなければ」という下りからは、エイミーの像とは程遠い瞳子自身が対照的に示されているのではと思われます。すなわち、役とそれを演じる者との乖離(または他者性)を強調した、反語的な表現です。あるいは手の方がより深い気持ちを表しているとすれば、「やさしい手」を拒みながらも奥底では握り返したいという気持ちもあるのではないか、少なくとも感謝の気持ちが込められているのではないかと取れそうです。
③しかし最後に、さらに積極的な意味合いをも含ましめることができるのではないでしょうか。
瞳子にとって得がたい対象である演劇とのより幅広い関わり方ができたこと、あるいはできつつあることを端的にさした一文であるとも取れそうです。ここでは実際の瞳子が役からかけ離れていそうなことは必ずしも問題となりませんし、むしろその結びつきを一層強めるものなのかも知れないのです。
瞳子祐巳の「やさしい手」を拒み、「未来の白地図」でもロザリオを受け取ろうとはしません。しかしここではしっかりと手を握り返しているのは、二人が共有している場所が違うからと考えられます。そもそも「劇の完成」には最終的には熱心な観客がいてはじめて到達することができるものです。演劇という地平において瞳子は"エイミー"であり、祐巳もまた演者と対抗し、そして不可分一体の存在である熱心な観客でした。そして、瞳子が演劇との向き合い方をより成熟したものにするためには祐巳の持つ「私」の要素を必要とし、抵抗を示しながらも受け入れていったのではないかと思われます。
おそらく「不可欠の駒」でありたいと願うような心性は急に消えて無くなるものでないでしょう。しかし、祐巳が祥子という対象の主体性と自らの主体性が表裏一体のものであることを知り関わり方が変わっていったように、瞳子の演劇に対する関わり方も主体性の加わった一層幅広い関わりかたに至っているのではないかと思われるのです。

似て非なる「〜でなければ」

以上のことからやや見方をひろげていくと、瞳子祐巳の間にあるのは、必ずしも「守り・守られる」関係・文脈上に乗っていゆくことができないという葛藤のみではなく、それを包含するような、もう少し広い関係・文脈ではないかと思われます。瞳子祐巳に対する思い入れは、自らがこれまであまり十分に生きてこれなかった面を祐巳の中に認めることにあるのかもしれません。祐巳と関わることで次第にそれが補われていくようであり、しかし同時に苦労・苦痛を伴うものなのではないかと思われます。「イン・ライブラリー」の「のりしろ」の部分をはじめ、他でも見られる苦情にも似た祐巳に対する言葉から何となく伺える気がしてきます。
ただ、祐巳の側からすればそのような関係にはありません。乃梨子の「祐巳さまは、瞳子じゃなくてもいいと思う」(しかし瞳子にとっては祐巳でなければだめ)というのはこのようなことをさしているのではないかと思います。ふと流した乃梨子の涙は、瞳子祐巳を必要とし、そのことが同時に苦痛でもあることをも知り、瞳子の代わりに泣いているような気がします。
一方、「未来の白地図」での他にやさしい子は沢山いるけれども瞳子ちゃんでなければ〜、という祐巳の思いは「妹」として自分の対象愛を満たし、傾けてゆけるのは瞳子のみであることが分かったと言っているようです。そして祐巳にとっての対象愛というのは守ってあげることであり、互いに「守り・守られる」関係というのはまさに祐巳が祥子との間で醸成してきたものなのですから同じ文脈の延長上にあります。この点で祐巳の考えや振る舞いは納得のいくものです。

佐藤聖の「格好良さ」

上に述べたように祐巳の持つ性質に瞳子が触れながら何らかの影響を受けたとするならば、それは「祐巳が影響力を及ぼした」と言えます。しかし逆の側から見れば瞳子祐巳の要素の一部を取り込んだと言えるものでもありましょう。なお、自らが十分に持っていないものを見出し次第に取り入れていくようなことは他の「姉妹」関係の中にも散見され、たいへん重要な意味を持つと考えます(ただ、興味深いことに祐巳・祥子の間ではあまり無いようです)。瞳子祐巳の間は相当捩れてはいるものの、「姉妹」的な要素を基礎としては持つと言えるのではないでしょうか。
似た例として、「姉妹」ではないが祐巳から影響を受けた、あるいは祐巳の要素を取り入れた人物として佐藤聖がいました。祐巳は聖をいろいろな場面で必要とし助けられたのですが、何かれとなく世話を焼きながら、別の意味で聖も祐巳を必要としていたのだと言えます。そして聖はそんな関係の持ち方に極めて肯定的でした。
「Will」では「私は祐巳ちゃんになりたかった」と進学の道を選んだこと、次いで自らを「こんな格好いいやつ」とややナルシスティックと受け取られかねないことを言っています。聖の自己像は(良くも悪くも)自分は特別な存在だという強烈な特別意識に多くの部分が根ざしているのでしょう。負の方向に働けばなかなか救いがたいほどの疎外感をもたらし、しかし将来に向けて生きようとしたとき、自分は周りとは違う、すなわち「格好良さ」という陽性の認識に変容していったのではないかと思います。この点、割合はっきりと祐巳の自己像が語られているところがあり、聖とは極めて対照的です。「俗的で、取り立てて珍しくもない、小さな日当たりがあれば勝手に根付くタンポポみたいな雑草」(「涼風さつさつ」)というのですから。
そして、祐巳から見えざる補充を受けるのは「幸せな時間」であり、自分を作り上げているという感覚もまた、格好良いという自意識につながっているのだと思います。
[▽続きます]