瞳子と「演劇」を中心に⑯ ― 初めに「私」ありき

くもりガラスの向こう側」、あらすじが発表されているようですね。もやもやとした、不分明な憂鬱が描かれるのでしょうか。しかし向こう側も垣間見えるのだとすれば少し怖いような希望もあるような。題名自体がサスペンドな感じで不安を掻き立てます。
姉妹制度の知恵④で問題を出したままほったらかしにしていた可南子・夕子の話に関し、小此木啓吾北山修著『阿闍世コンプレックス』をテキストにして考え直そうと思い注文してみました。書店にはときどき行きますが何か目的があるときはネットで探すことが多いです。ほんとに便利ですね。
すごい話だったと思うものの、何がどのようにすごかったのかが今一つ腑に落ちず、言葉になっていません。そうか、「姉妹関係」の一つであったのだと思ったときは目の前がぱっと明るくなったような気がしました。しかし良く考えるとなかなか難しく、未だこれまたくもりガラスの向こう側にあるような感じです。今のところ、《可南子は夕子との間の姉妹関係が変容・成熟する過程を通して阿闍世コンプレックスを克服し、家族関係のしがらみを超えて自我を確立させてゆく端緒を掴むことができた》という話ではなかったかという予断と先入観を持っています。…どうなりますことやら。

パラさし」にみる二人称への変化

マリみては多くの話が祐巳の視点で進められているのですが、時に他の人物のものもあり、視点が大きく切り替えられているように見えるのが面白いところです。淡々と見たままの事実を描写するものもあれば、込み入った考えや強い気持ちを表した独白もあります。そして独白の中には特に、外から伺うのは難しい、人物特有の内面の布置が比較的直截に見て取れるようなものもあります。(もっともいくら直截であるとは言っても、やはり読者による解釈も許されているのでしょう。また、強い気持ちが書かれていることとそこから人物の内的な特徴が見て取れることは必ずしもパラレルではありません。)読者は人物の数々の行動と言葉から特徴や内面をいろいろと推し量る中で、言わば「その人物本人の自我関与の高い」、あるいは自我が集約されているかのような独白に時に遭遇します。「ジョアナ」はほぼ全編がそうなのですが、前回引用部分の一節は、殊にこれに当たると思います。
前述したような瞳子の姿勢は他の諸々を省みない点で突き抜けており、透徹した純粋さを認めることができます。しかし一方ではやはり、極端に過ぎるのではとの違和感も感じられてきます。「レイニーブルー」・「パラさし」と「特別でない〜」・「ジョアナ」の話は割合似た形をしていて瞳子祐巳の傾向が端的に現れていると同時に、それ故に対照的なところが表われているのではないでしょうか。
対象と深く関わろうとするとき、自己と対象との間に合一感がもたらされます。あるいは合一を目指そうとします。(それは例えば「白き花びら」での聖の独白「なぜ、私たちは別々の個体に生まれてしまったのだろう」などと端的に表現されているところです。)合一感という点では等しいのですが、内面において祐巳は、自己に対象を強く引きつけ自己と対象との区別が判然としないような状態であり、一方瞳子は自己を滅して対象の中に埋没させていくような状態にあったものとして描かれているではないか、そんな違いが見て取れるのです。ここで自己というのは欲動の主体と言っても良いし対象と向き合うに際しての主体と言っても良いと思います。ここでは仮に「私」(わたくし)と称することにしましょう。
パラさし」の冒頭での「喜びに震える」「指先を心待ちにしている」というのは百合小説としての側面が強い表現とも取れる一方で、やはり祐巳らしさの一つとして書かれているのだろうと思います。心に祥子の像を抱ける限り、それは絶え間ない快さの源泉となることが示されています。それが「大切なオモチャを抱え込むように体を丸めていた」という自覚に変わっていきます。おそらく向き合い方の変化という点では、「パラさし」のハイライトは由乃と話しているときの「人間関係は一対一が基本だから〜ましてや祥子さまは祐巳の所有物でもなんでもなくて、人格をもった一人の人間」の一節にあると思います。ここで「瞳子ちゃんは関係ない」というのは、もちろん第三者を排除した狭い二者関係の中に閉じこもったのではなく、むしろ自己愛的な満足が中心の一人称の次元から二人称の次元に移る過程と捉えると良いのではないかと思います。
「私」と渾然一体の状態にある限りにおいて快さと安心感に浸っていられるが、しかし一旦喪失しかかる体験を通し、やはり自分とは異なる意思を持つ別個の対象であることが分かったという話だと思います。そうすることで相互交通性のある一対一の関係、「私」と「あなた」の関係が開かれるということが示されているようです。

「妹」に含まれゆく「姉」の要素

そして「パラさし」以降の祐巳の変化を眺めてみると、「子羊」の冒頭にあるような祥子との意思の疎通がスムースになったということのみならず、「好き」ということの意味内容が少しずつ変わっているようです。「レイニーブルー」では言わば自己愛的な「愛されたい」という気持ちに主な焦点が当たり、その延長上に「捨てられてしまうのではないか」という不安がありました。しかしそれ以後、対象愛的とも言える「愛したい」という気持ちも強調されており、独立した意思を持つ他者であることの認識に根ざすものではないかと思われます。
もちろんそれは「レイニーブルー」をきっかけにスイッチを切り替えたように変わったのではなく、六対四のものが四対六に変わった、あるいは自己愛的な部分を基礎にして対象愛的な部分をさらに広げていったのではと言う方が適切なのかも知れません。また、両者はもともと判然と区別できるものではないという見方もありましょう。ただ、「涼風〜」と「特別でない〜」の終盤のような「一身に愛される」ことが体現される一方、「真夏の一ページ」での出来事や「レディ・GO!」で垣間見える関係では祐巳から祥子に向けられた「愛したい」という気持ちが表現されているようです。それが「薔薇のミルフィーユ」に結実していったものと思われます。
なお、一体に「妹」という立場は「愛される」側として安定していて逆の立場はなかなか難しいように思われます。しかし「真夏の一ページ」や「薔薇のミルフィーユ」での相当の不全感を残しながら頑張る姿からは、やや逆説的ながら一歩進んだ「妹」らしさというのは「姉」のような振る舞いを含むことが示されているようです。そして、対象愛的な部分が汎化して今度は自らの「妹」へと向けられるのであろうと思われるのです。
[▽続きます]