くりくりまろんのマリみてを読む日々

瞳子と「演劇」を中心に⑮ ― 対象と深く関わること

瞳子祐巳祐巳・弓子

「特別でない〜」と「ジョアナ」で異なる二方向から描かれた祐巳瞳子の話は、我慢強い相互理解の物語ではありませんでした。瞳子は状況をひたすらまくし立てながら自己完結して問題は自分で解決したので、一見、祐巳の言葉のほとんどは虚空に消えていったかのように見えます。…ただ、瞳子の内心と祐巳の言葉は多くが合致しており、祐巳の言葉によって本心に気付いたという面も見受けられます。
作品の上では「特別でない〜」が先であり、その時瞳子はどう思っていたのかが「ジョアナ」で後に描かれるという形になっています。しかしむしろ凝り固まったような「ジョアナ」での瞳子の心象に、祐巳の言葉と思いがどのように重なっているのかというふうに、逆方向の見方ができると思います。というのは、「特別でない〜」でみられる瞳子祐巳の関係は「パラさし」での祐巳祐巳の関係と構造的には類似のものとして描かれていると思うからです。
現象(実際に起こっていること)としては《普段より高揚している者(祐巳,弓子)から落ち込んでいる者(瞳子祐巳)に向けられた、確信に満ちた、やや一方的な語りかけ》です。
しかし同時に抽象的には《(瞳子に対する祐巳祐巳に対する弓子は)本人よりも本人について良く知り、見通しの良さを持った導き手であり、自己と対話をしているような意味合いを持つ》ものとして描かれているようです。
パラさし」では祐巳はさほど表立って弓子に反対はしていないものの、深く納得している様子ではありません。これは「特別でない〜」には書かれているが「ジョアナ」には書かれていない祐巳の言葉を、少なくともその時は瞳子がシャットアウトしていることと軌を同じくするものでしょう。「パラさし」での祐巳には新しい知見を得たということに加え、蓋となるような障害(例えば「できの悪い妹」であるという考えにばかりとらわれること)のために覆われていた、本来的に内在しているもの(例えば自己に対する信頼感)を賦活させられたというニュアンスが感じられます。弓子の言葉が後からじわじわと効果を及ぼし祐巳のものの見方に影響を与えていったように、やはり瞳子祐巳の言葉に感応していくものがあったのではないかと推測されます。それは自ら頭を下げに行き、一応の解決をした後のことなのかもしれません。すなわち一段奥の段階が「ジョアナ」の後に、祐巳が何もできなかったよと乃梨子に淡々と語った後にあるのではないかと思われるのです。

向き合い方の変化が主眼の話だったのではないだろうか

パラさし」で描かれた祐巳の祥子への向き合い方と、瞳子の演劇との向き合い方を照応させてみたいと思います。風変わりな考え方かもしれませんが心の姿勢、あるいはエネルギーの傾け方という点に着目すると同一の文脈の上で見ることができると思います。ここでは「お芝居好きでしょ?そんなの見ていればわかるよ」という直感的かつ確信に満ちた祐巳の言葉が手がかりとなりそうです。マリみてでは好きという言葉が頻繁に、そして多様な意味合いで用いられています。展開される話の基底には、「どのように」好きであるのかという問題がいつも流れています。日常的にも「好き」さらには「愛している」という言葉は、人に対してのみならず事柄に対しても用いられるところです。
また「レイニーブルー」と「ジョアナ」は、それぞれの場面に至るまでの描かれ方自体に注目しても、似た形をしています。
①それぞれの場面までは割合広く了解可能な、言わば穏やかな好きという気持ちが伝わって来るようです。祐巳はもともと祥子の「ファン」であったわけですし、以降の祥子に対する向き合い方もおよそその延長上にあります。「女優業に専念する」などと言っている瞳子も、なるほど熱心に取り組んでいるのだろうと思わせられます。
②しかし引き金となるようなできごとによって対象を喪失しかけ、同時に怒りや憎しみの気持ちが表明されます(祐巳は珍しくも、はっきりとした憎しみの気持ちを瞳子に対して抱きます)。そして読者は内心の表白と共に、強い執着心にも似た思い入れをいくらかの意外性と共に知ることになります。
③そして一旦対象を失った後に回復がなされます。「パラさし」において最後に祐巳にもたらされたのは対象の回復であったのみならず、そのできごとを通しての対象への向き合い方の変化です。「ジョアナ」において瞳子も同じような体験をしたのではないかと思うのです。

「演劇部の劇」の現代性

どうにでもなれ、とうち捨てたはずなのに、確かにまだ私は「若草物語」に未練がある。
 エイミーをやりたい。
 口では「私なんかよりずっと上手にやれますわ」なんて言ったけれど、私以上にエイミーを掴んでいる役者はいない。あの劇を成功させるためには、私は演劇部に必要不可欠の駒なのだ。

瞳子が自分が不可欠の「駒」であることに改めて気付き、「あの場所」に戻りたいと思い直すところです。
このときの祐巳は何かの影響を瞳子に及ぼしていたというより、瞳子が自らの姿を映し込んで良く見えるようにするためにだけそこに立っているような、鏡(あるいはスクリーン)の役割をしていたと言えます。(ただ、「鏡」のように話を聞くこと自体、割合難しいことと言えます。)しかし状況が整い、このときの瞳子のように探索的な態度を短い間でも取ることができるならば、今まで見えていなかったことも見えてくることがあるようです。
「駒」という表現に注目すると、一見没個性的でやや非人間的な響きのある言葉です。しかし瞳子自身の状況を見る前に演劇の側から見た場合は相当の正しさを含んでおり、一つの理想形に至っているとさえ言えることは触れなければならないでしょう。
「地域でも一目置かれていて、結構本格的な劇をやる」、「生徒会が余興の延長線上で行う芝居とは違い、かなり本格的」というふうに、演劇部の劇が本格的であることが強調されています。「とりかえばや」の準備の時や、《無印》での衣装の詰め物をめぐる和気藹々とした情景などとはかけ離れた部分もあるのでしょう。本格的であるということはすなわち技術が第一に問われることであり、劇の完成度が極めて重要なものとしてほぼ唯一の目的となりえます。そのためには個人的な思い入れや勝手な解釈は背景に退かざるを得ず、皆が「駒」である必要があります。「役を掴んでいる」「必要不可欠の駒」という自覚は、この目的が瞳子の中でしっかりと内在化されていることを示し、それだけで驚くべきものと言えるでしょう。(音楽の分野でもオーケストラでは指揮者は「音の演出家」と呼ばれ、時にはまるで楽器を扱っているかのように、指揮者が「オーケストラを鳴らす」という言い方がされます。ここでは指揮者の目指す表現を良く理解し忠実に実現するのが良い演奏家であり「駒」という言い方と親和性がありそうです。)
ただ、そうすると演劇における役者の主体性はどこにあるのかという疑問が生じてきます。『演劇入門』演劇入門 (講談社現代新書)を読むと、「俳優は考えるコマである」と題する一章が設けられています。「劇作家、演出家としての私にとっては、俳優はあくまで実験材料でしかない」としながらも現代演劇では演出家に絶大な権力があることの問題点を指摘し、その上で現代の演劇では俳優の「作品創作への自覚的な参加」が殊に要請される…などと論じられています。
なお祐巳が「主役の一人」と言っているように、「若草物語」には唯一の主役がいないことは興味深いと思います。高校演劇であれば、特定の役者を中心に構成を考えるスターシステムとはもとより無縁なのでしょう。しかし、主役が複数いるような題材を選び、できるだけ枠を広げるような配慮があったのではないかと思います。「演劇入門」には「多くの現代演劇では主役ははっきりしないし、それは場面ごとに大きく変化する」と述べられています。瞳子が主役級であるのに「駒」と思っているのはこれいかにという対照性を浮き立たせるためのものだとしても、マリみてでの「若草物語」は古典的な題材でありながらつとめて現代的な演劇活動として描かれているのだろうと思います。
[▽続きます]