姉妹制度の知恵⑥ ― マリみての人物造形

姉妹制度の知恵⑤のコメント欄の続きです。よーすけさまからいただいているのを改めて張り付け直します。

舞台裏的な見方をすると、祐巳の、周囲の動向に対するリアクションでしか自己主張が出来ない、自意識の薄い、曖昧模糊としたキャラクター造型は、古風なミッション系女子高という特殊な舞台の中で個性的なキャラクターたちを見つめる語り手、という位置づけからはやむを得ない部分もあります。
祐巳は作品世界における読者の分身、あるいは水先案内人としての役割が課せられているのであり、それが明らかな個性を主張することは読者の感情移入の妨げになります。
それ故に祐巳は、誰とでも合わせられるけれど、本当に親密な相手は実は誰もいないという、やや歪つなキャラクターになってしまいました(祥子との関係すら、他の姉妹たちと比較すると、どこか上滑りな印象が拭えません)。
しかし実際にそのような祐巳のキャラクターによってシリーズ初期が成功を収めていることもあり、その点はなかなか変更しがたいものがあったでしょう。
一方瞳子はと言えば、当初の役割は完全にトリックスターのそれです。
パラソルをさして」以前の瞳子は、ただ物語の要請がそうであるからそこにいてそのように行動する、という以上の存在意義は一切持たない、状況を動かしかき乱すための都合のいい狂言回しとしてのみ存在するキャラクターであり、瞳子自身の意思や行動原理というものは、劇中においてほぼまったく考慮されていません。
レイニーブルー」においてすら、彼女はただ祐巳と祥子の関係に波風を立てるための材料としての意味しか持たされていません。
それぞれ登場当初には狙い通りの成果を挙げていたと言えますが、しかし中盤以降彼女らが中心になって物語を動かしていかねばならない局面が現れ始めると、逆にそうした役割が足枷になってきています。
水先案内人と狂言回しはいずれも普通は物語の中心からは外れているものですが、それらを敢えて中心に置いて物語を作ろうとするのは、作家にとってかなり困難な挑戦であり、相当に苦心する作業なのではないでしょうか。
「パラソル」で瞳子はようやく物語の駒というだけではない、自由意志を持ったキャラクターとして(半ば強引に)独立しましたが、この時に表した感情が「怒り」であったがために、それ以後の瞳子の性格は怒りを基調としたものになってしまい、「パラソル」以前に見せていた茶目っ気や悪戯好きな部分は、大半が本質的でない表層部分のカモフラージュ、ということにされてしまいました。
これは今にして思えば大きな失敗ではなかったのかという気がしなくもありません。
この結果、瞳子のキャラクター造型が実に余裕のない、殺伐としたもの(「ジョアナ」に現れているような)に変質し、それが祐巳の側にも大幅なキャラクターの変化を要求してしまう、せざるを得ない状況を招いてしまったからです。
しかしそれに対して、読者の分身であり続けなければならない祐巳の側は、そのような瞳子のキャラクターの変質を受けて立てるような大きな変化がなかなか進められず(可南子との交流を通じてそれを試みた形跡はありますが、腰砕けに終わりました)、結果としてただ時間のみが過ぎて巻を重ねるだけという状況に陥っています。
正直なところ、近巻の内容では、著者はこのふたりの扱いを持て余しているのではないか?という印象があります。
妹オーディション」以降、それまであまり多くはなかった由乃視点の描写が急激に増加し、かつそのパートの筆致がたいへん生き生きしているのを読むと、そうした感想を一層強くせざるを得ません。
祐巳が自己意思に基づいて主体的行動を起こすことは、読者の分身としての役割を放棄することに直結します。
また率直に言って、能動的な主人公を求める時、祐巳は残念ながら由乃乃梨子などに比べて大きく精彩を欠くのは否めません。
シリーズの存続を考えれば、祐巳が自意識や個性を主張し始めるのは大きなリスクを冒すことであり、実際に「未来の白地図」において祐巳が遂に瞳子を妹として指名するという意思を表明したことで、読者の何割かの共感は確実に失われてしまうでしょう。
それでもなお祐巳が自らの意思を貫き、大きな変化を成し遂げ、瞳子を妹として獲得することができたならば、その瞬間に祐巳の「自由意志を持ったキャラクター」としての自立(=柏木の言う「上のステージ」への到達)が完成するわけで、あるいはその時点で福沢祐巳を主人公とした「マリア様がみてる」シリーズは終結を迎えるのかも知れません(「ロザリオの滴」で藤堂志摩子の物語が事実上完結しているように)。

作品論に近いコメント、はなはだ僕の手には余りまして熟した返しができないのを詫びつつ、関連することを述べさせていただきますね。

二作品の完結性

>「ロザリオの滴」で藤堂志摩子の物語が事実上完結
ロザリオの滴」終盤の耽美的な抒情性には圧倒されます。志摩子については「銀杏の中の桜」「ロザリオの滴」を最小のマリみてとすれば、完結しているとみることが確かにできると思います。この話は「突然出会って同性愛傾向に浸りきりそうになる二人が、最も適切な距離を姉妹制度に見出し、その中で安定を得るに至る」というふうに言えるでしょう。志摩子は無自覚の、あるいは隠蔽された、または欲求が極めて薄い同性愛者であることが、…そうですね、暗示されている、またはそういう風に読めなくもないという形で表現されていると思います。志摩子の孤独と疎外感は同性愛者のそれを連想させるという視点での解釈であって、もちろんこの考えに固執しているわけではありません。深く読めばそうなるといったこととは少々違い、二重の物語が(文芸に特有の象徴を用いながらの手法で)流れているのではないかという見方にたった場合です。マリみてでこのような形の話が書かれることは今後ないと思われます。
現在のところ志摩子乃梨子は最もバランスの良い姉妹に見えるのが興味深いです。
 さてそうすると佐藤聖なのですがどうにも「白き花びら」の印象が強く、何をしても意味深に見えます。生身の人間の中に極めて尊いものを見出して失敗してしまうということからは、必ずしも同性愛自体が問題にされたわけではないとも読めます。ちなみに柏木優も僕は女性を「崇拝」しているといった少々看過できない発言をしており(『涼風さつさつ』)、気になるところです。今の柏木の振舞いも崇拝によるものだろうか、などと思われるのです。
====[と、この辺りで朱夏さまからコメントをいただきました。]=======

親子関係の醸成・姉妹制度の中に生きた証

祐巳登場後、親子の寓意が濃厚に含まれるようになり、作品を基礎から支えるものとなったと思います。姉妹制度は親子関係を急速に醸成し、変容させる坩堝です。
銀杏の中の桜』では令と祥子は個性がさほど浮き立たない薔薇さまでしたが、
・令は《長い養育期間を経て、そろそろ娘が巣立つ時がきてもなかなか子離れができない親》
・祥子は《やや強引に養子を取った、類い稀な美貌を有するが不器用で未熟な母親》
…に分化しました。祥子は愛することを知らないのではなく、どのように愛したら良いのかという方法において躓きがちな人物でした。
「祥子は、祐巳ちゃんに夢中だ。/可愛くて可愛くて仕方がないのだ。/それは恋とはちょっと違う。」 というのは親子の寓意が含まれているからとも解せられ、『薔薇のダイアローグ』の清々しさは両者共に「子」に対する関係が完成形に至り、それぞれの道を自律的に進む準備が整ったことを示していることにあるでしょう。そして「薔薇の」と冠せられているのは、姉妹制度の中に生きた証としてそれぞれ《独立を果たす親》、《不全感の無い可愛がり方ができるようになった親》の姿に変容を遂げたことを意味しているように思われるわけです。
そしてさらにこの形を突き詰めることを目指し、より直截に「姉妹」かつ「母子」の物語として構成されたのが可南子・夕子の話でした。しかもそれを祐巳の視点からのみ描くという、ウルトラCの技法であったと思います。
>可南子との交流を通じてそれを試みた形跡はありますが
描かれるべきテーマの上からは可南子・夕子が主で従が祐巳なのではないかという見方からは、祐巳は噛み合わせるのがやっとだったと思われます。
もちろんこの視点のみでは一面的なものになるでしょう。殊に志摩子佐藤聖については親子関係とはまた違った、言わば高次の精神機能と言えるものについて述べられているような気がします。今まで極めて考察不足のところです。

「人間関係は一対一が基本だから」 ― 今現在の関係に映し込まれる背景

一体何がマリみてでは描かれているのか、あるいは描かれようとしているのかを考えるのは案外と難しいものです。
しかし作品の拡がり方からすると、それぞれの成長物語を通して、若い年代の人格形成に纏わる諸々の要素を広範に取り込み、できるだけ直截に扱おうとしているのではないかという方向性はあると思います。
昔語りの形で聖が少し前は今と随分違っていたことが示され、以後人格の変容を遂げる人物は多く続きました。およそ祐巳たちの年代というのはそれまで抱えていた矛盾や葛藤が顕在化して否定的な気分に陥りがちである一方、将来の可能性を自ら広げようとする自己意識が高まるときでありましょう。家庭という土壌から何らかの形で距離を取らなければならないときでもあります。青年期心理学の教科書の上っ面だけを撫ぜたような言い方ですが。
このような見方からすると、ユニークな設定である「スール制度」というのは今現在の一対一の人間関係を重視することを通してさまざまな果実を得られる仕組みとして描かれていると思います。(「人間関係は一対一が基本だから」というのは『パラソルをさして』での祐巳の独白です。)
・第一に姉妹制度の中に、あるいは関係を結ぼうとする過程自体の中にそれまでの歪みや癖のようなものが如実に映し込まれて像を結びます。すなわちスール制度はレンズとして機能しているようです。例えば祥子や、栞との姉妹関係を拒む聖、ロザリオを受け取らない瞳子のように。
・そして何かの歪みがあったとしてもそれをうまく保持(hold)し、互いに支えあうことができるようになります。例えば志摩子・聖のように。
・さらに一対一の人間関係は姉妹制度という坩堝の中で変わって行き、直接には関係のなさそうな問題も解決してゆく緒口を掴むことに繋がっていきます。家に縛られているような祥子も、祐巳のいる環境を選ぶという気構えを示すことができるようになっています。
以上のようなトピックの扱い方からすれば、家庭や境遇の話が背景に仄見えてくるのは目的と言うよりも必然です。この点、両親との関わりではなくて実の姉という家庭環境に焦点を絞り、「姉と違った生き方」として「生き方」にまで話の射程が及んでいる笙子の話はユニークです。笙子・蔦子が姉妹制度とどう関わるのかというところに話がシフトし、集約されていくことが期待されます。

「好きにもいろいろ」

恋愛を連想させる感情は次第に背景に退きつつあるのも一つの方向性だと思われます。
・祥子に対する令の評:「恋愛とはちょっと違う」
・笙子:蔦子に向けている感情は、本当は実の姉に向けたかった、しかし堰き止められて表現することのできなかった好きという気持ちではないか。
瞳子祐巳は頼りたいような、しかしそれもできないといった特別な存在ではあります。憧憬の念も少しはあるかもしれないのですが恋愛とは程遠いようです。全く逆の生き方をしている自らの分身のようなものと思われます。
祐巳祐麒姉弟愛の話です(多分)。しかし恋愛を連想させる部分もあるところが興味深いです。
すると、学園の中にすっかり溶け込み平穏な幸福は約束されていた「水先案内人」と「狂言回し」を出自とする祐巳瞳子は、人格形成上の問題を直截に扱おうとするテーマの貪欲さの前にはやや荷が勝ちすぎる印象を与えるのかもしれません。
>瞳子のキャラクター造型が実に余裕のない、殺伐としたもの
この点、話が深刻であることと情動が殺伐としていることは必ずしもパラレルではないのではという考えからは、軽妙さが失われつつあることを惜しむ方もいるかも知れないですね。

付記:青年期平穏説・危機説 ― 描かれているのはむしろ稀な事例か

一年生の中で大きな転機を迎えたのは可南子、迎えようとしているのは瞳子です。嵐のようだと言えるかどうかはともかくとして、到底平穏ではありません。
しかし葛藤が噴き出るなどというのはごく一部であって多くは大過の無い毎日を楽しく過ごしているのではないか、「姉妹関係」も何か切実な主題を負うものではなく、寧子が期待していたような学園生活を彩る一つの手段となっている場合が多いのではと想像すると興味深いです。
[▽続きます]