姉妹制度の知恵⑤ ― 自己受容の過程・祐巳の優しい分身

姉妹制度の知恵①などでよーすけさまから重い内容を持つコメントをいただいており未だに消化しきれていないのですが、改めて考え直したいと思います。

祐巳にとって他者の好意や愛情というものは、与えられるまで待っていなくてはならない、自分から求めてはいけないものであり、また自分の好意を他者に押し付けてはならないものだ、という認識が潜在的にあるのではないでしょうか。
祐巳の祥子に対する一極集中的な愛情、執着というものは、自らが密かに抱いていた、しかし同時に望んではならないと考えていた願望(「祥子の妹になりたい」「祥子を姉と呼びたい」)が祥子によって思いがけず充足されたという強烈な幸福感と陶酔に支えられているのではないか、という気がします。

祐巳は時々融通無碍な柔軟さを示します。しかしその一方で確かに、極めて抑制的と言える面があるという見方ができそうな気がしてきました。
すると祐巳が祥子を通じてなしてきたものは、祥子の「妹」にならなければ到底知ることのなかった事柄をいろいろと体験するというストーリーだけではないことになるでしょう。
成長というのは一般的に、今までできなかったことができるようになる、あるいは物事に対して広い見方ができるようになるということです。そしてこれには外部から新しい要素が加わるということの他に、本来自らが持っていながら何らかの事情により受け入れ難かったものを、認めるようになることも含めることができるでしょう。すなわち、成長、あるいは少なくとも変化というのは自己受容を含みながらなされるものと言えます。祥子との二者関係のみに限って言えば、姉妹制度と密接な関わりを持ちながら祐巳は今まで知らなかった自らの姿を受け入れるようになったのだと言えます。
そこではなはだ雑駁ながら、描いてみたのが次のようなイメージ図です。

①〜③は特にどの事柄をさすとは決めていないのですが、例えば①は《無印》での②は『パラソルをさして』での変化、③は『涼風さつさつ』や『特別でないただの一日』の終盤に見立てることができると思います。図の①〜③はそれぞれ、次第により奥底の強い願望[オレンジ色の楕円の部分]に到達し、それを意識に浮き上がらせて受け入れることができるようになることをイメージしています。願望が奥底にあるほど強いものですがそれと同時に、抑制[青色の蓋のような部分]も強いものです[次第に色が濃くなっていることで表しています]。そして、各要素は次第に下部に移行するというより、上部の状態を保ちながら、下部の状態も次第に引き寄せて同時に実現してゆくものと捉えたいと思います。

姉妹制度に対する抵抗

祐巳は二度にわたって祥子からの申し出を断っており、それには強い理由と弱い理由の二種が含まれていたと思われます。直接の理由になった、一方的にロザリオをかけられそうになったという祐巳の悲しみは内実の無い婚約を強制されているという祥子の悲しみと重なり合うことで洗われ「賭け」は無効化しました。しかしその他に、うまく説明できないけれども必ずしも妹になりたいわけではなくて…と祐巳が言っているのが注目されます。
それは姉妹制度自体に対する幾ばくかの抵抗を含むと考えられるでしょう。制度の一番表に見て取れる「教え導く」「従う」というほとんどが義務で構成されている制度の外郭と、祐巳の祥子に対する気持ちは反発し合うというほどではなくとも、密接なつながりは持ちません。
志摩子、可南子はもっと明確な形で制度に抵抗しています。生粋のリリアンっ子(こそばゆい感じの響きですね)である祐巳はよりスムースに受け入れることができたということでしょうか。終盤で祐巳は「それいけ」と自らに気合を入れることで抵抗を乗り越えました。コメントで述べられているような「自ら進んで状況を作り動かしていこうという意欲に著しく欠けている」と目されかねない部分が祐巳にあったとしたら、制度は気力を沸かせ、自己成長の契機になるような気持ちを露わにする働きをしていると言えます。そして同時に、我慢しなければならない点が増える点で抑圧的なものでもあります。
なお、このとき祥子は一方的な働きかけをしたことを反省し、祐巳によって勇気付けられたことを自覚して「してくれた」ことがあると言っています。しかし祐巳の方は無自覚でした。この微かな齟齬は「レイニーブルー」への遠因になっているのではないか、そして話の基礎は既にこのときに準備されていたのではないかなどと忖度するのです。

縦・横のつながりの止揚・情緒的な結びつき

姉妹制度がどのようなものであるのかを考えるとき、それを家族の寓意として捉えることができます。「薔薇ファミリー」「他家の騒動」といった表現、「妹」の「妹」を指して「孫」という表現があります。薔薇の館などは複数の家族が棲む「大きな家」のように見えなくもありません。そしてその中でも縦の関係ですから親子に類似するものと捉えることができます(婚姻に類似する点もあると思うのですがここでは措きます)。
それは単に親子関係の簡易版であるとは言えません。最も大きなことは、実際には一回り、例外的に二回りしか違わないことです。やや逆説的ですがもともとほとんど並列的(横並び)な二者を僅かな差のみを手掛かりにしてことさらに分かち、片方には教え導くことを初めとしたやや過大な義務と責任を負わせて親(母親)の役を、片方にはそれに従うことを初めとして子(娘)の役を負わせたものだと言えます。縦の関係を強調しつつ、横並び、あるいは等質であることを根底に持っていることは重要だと思います。
そしていくら義務を意識しなければならない姉妹の関係といっても、それはたちまちのうちに独特の情緒をもたらすものなのでしょう。紅茶で汚した祐巳の口の周りまでは面倒見切れないという連想、そしてお腹をすかせた「妹」に対してアメ玉をあげた祥子に対して令が「はしゃいでいる」と指摘するところは圧巻です。そういうものなのだ、と経験を積んでいる令が事実を淡々と述べているようです。

普遍的存在との邂逅・元型論からの小考

パラソルをさして』では祐巳が自分を次第に取り戻してゆきます。
・落ち込んでいるときはそのまま一直線に抜け出せないように思われても、底を打てば次第に上向きに戻っていくことが期待できるのではないかという感情の起伏の波形性。
・まずは体から暖めなおすという、体から入ってその後で精神的なところにケアが及ぶという順序。
・甘えの気持ちが十分に満たされることで、冷静に考えられるようになること。また、楽だからといって甘えの気持ちに浸りきったままでいてはいけないという判断力が示されること。
…と、いったところに説得力を感じられる話です。
ここで弓子という老婦人が登場しています。彩子と弓子は祥子と祐巳に名前が類似しており、喧嘩別れをしたまま長い時を経た祥子・祐巳の姿を象徴しているのだろうと思わせます。マリみての世界が、万人を支える普遍的な時間の流れの中にあることを感じさせます。
それでは祐巳にとってどのような意味を持つ存在なのか。今度は逆に時間の概念を取り払い、ユングの元型の考え方に沿うと、祐巳個人にとって普遍的な存在であるといえます。
老いた人であることから、大きな知恵があることを思わせる。しかし普段は気難しい。
・今の祐巳が知らない祐巳自身の姿を良く知り、確信に満ちている。
・さらに、話の内容が祐巳が自分自身と対話しているようであり、自身に対する基本的な信頼感を得ながら自分を受け入れるように導かれてゆく
ということからすると、弓子は祐巳の“老賢者”として描かれているのかと思います。
また、
・世の中から距離を置いてひっそりと暮らしている。
・頑固だが、同時に一種の強さの表れとも言えそうである。
…という弓子の性質からすると、それは祐巳の裏を行っているようです。祐巳は概ね賑やかで楽しい学園生活を謳歌しているのですが、弱々しさも時々垣間見せます。
祐巳の"老賢者"であり"影"に近い存在と、全く怖くない、親しみの感覚をもって交流がされたと言え、弓子は祐巳の「優しい分身」であったとするのが良いと思われます。
なお『子羊たちの休暇』で登場する西園寺家の心を閉ざした老婦人は、もし祐巳たちの「果ての姿」としての意味合いを持つとすると少し寂しいことだなどと思っていたのですが…
たぶん、世の中の穢れを良く知らない、賑やかで楽しい生活を送っている祐巳たちと属性の上で対抗する存在、すなわち"影"として描かれたのではと思って納得することにしています。光のあるところには必ず影があり、時に交流することがあるのだと。そして自らの"影"と邂逅することができた祐巳は、今度は架け橋としての歌で皆の"影"と交流することができたのだ、と。
[▽続きます]