瞳子と「演劇」を中心に ⑫ ― 感情との交流

…そして、祐巳瞳子の役を聞き「ピョンコピョンコ」と飛び跳ねて喜ぶところは、瞳子にも何らかの感慨を与えたに相違ありません。瞳子に対する共感を示すという点では最上のものであった可能性もあります。演劇が題になっているシーンでこのような全身を用いた表現がされているのは、必ずしも偶然ではないのかも知れません。
ただこれらのことは他にも多々見受けられるところであって、特に瞳子において際立っているように見えるというにすぎません。例えば類似のものとして…
・「立ち上がって、身を乗り出して、顔を真っ赤にして、テーブルを叩いて」いる令を由乃がひややかに見つめるところがあります(『妹オーディション』)。
由乃ジェスチャーで「反対」する場面があり(やや形式化された身体的表現と言えましょう)、このようなところは何となく似た者姉妹です。
・ハンカチをキリキリと絞って怒りを表す祥子。
これは、やや芝居がかっています。
…などが描かれています。

祐巳の「百面相」はバイパス(抜け道)?瞳子の場合は?

ところで祐巳にもこのような瞳子の特徴と類似する点があり、他ならぬ「百面相」です。傍目からはややユーモラスであり、時には場を弁えないものになるのでしょうが、取り繕いのない自然なものであることは両者に共通するところです。
祐巳はどちらかというと訥弁であまり流暢に話すほうではありませんし、柏木氏に言われているように普段は嫌悪感などを直接表すことはしません。それでは捌け口が無いということにつながります。しかし百面相というからには、時には不快な気分などあまりよろしくない感情も出ているのかもしれません。どちらかというと不都合なものも含めて、感情との接触が無理することなく図ることができているという意味があるように思われるのです。
瞳子にとってもそうなのかもしれません。この観点から演劇との関連を考えると、劇の中では怒りや憎しみや悲しみといった日常では不都合な感情も積極的に扱われています。「シンデレラ」でも、劇であるから安心して見ていられるのであって、シンデレラを苛める姉たちというのはもし生々しいものであれば相当おぞましい様相を呈するものでしょう。…心理療法の一分野として演劇が位置付けられるとき(演劇療法)、一番最初に期待されるのが感情の吐き出し効果ですし、次いで役を通してさまざまな種類の感情との交流が容易になることも期待されています。役に関して言えば良い人ばかりでなく悪役もいます。そして本人の内面的布置とも密接な関連を持ち、どうしても役と沿うことがなければ可南子のようになかなか掴み難い、しかし強い抵抗を感じるものでもありましょう。…マリみてで劇の話が出て来るときは、本人の内面との関わりという側面ばかりが扱われているわけではありません。しかし可南子の場合はまさにその点が重要でしたし、役を嫌がる祐麒、役を喜びそうなアリスなど、関連性のあるものとして語られています。
日常では「演技」する必要を感じ、物事に対して冷静な姿勢を取ることの多かった瞳子はどことなく窮屈そうです。しかし、最も原初的な部分で演劇との親和性を持つ瞳子は、知らず知らずのうちに演劇の持つ表現形態に惹きつけられ、そこに豊かな感情の世界を見出したのではないかと想像されるのです。演劇を内側として見れば、日常という外側よりはるかに自由でリアルなものではないだろうか、と。

付記

非言語的な面に着目して、冬紫晴さまが正面だあれ?と題して『薔薇のミルフィーユ』で「正面に回る」場面が三薔薇のそれぞれの物語の中で現れていることを指摘されています。類似した身体の挙措(「型」)によって、異なる情景(「場」)が出来しているありさまと言えばよいのでしょうか。
柏木氏と対峙した後、部屋から出て行くときの祐巳の様子は剣呑で隠微な感じです。
意味合いはよく考えようとすると難しいのですが、ここでどうしても連想してしまうのが「涼風」で祐巳に服を脱がせかけられての「僕は脱がすのは好きだが、脱がされるのは苦手」という言葉です。
日頃の姿勢をも知らず知らずに含んでいるとして翻訳すると…
「脱がすのは好き」:柏木氏の手にかかれば温厚な人物でも普段の態度を脱ぎ捨てて怒らせることができます。柏木氏は嫌悪感を露わにする祐巳に手応えを感じて満足の様子で、ここまでは予想の範囲内です。
「脱がされるのは苦手」:苦手というのは必ずしも嫌いとは限らず「慣れていないから不得手」というふうにも解せます。不得手だから手伝ってほしいとまでいくかどうかは別として、この場面では多少うろたえながらも、微かに柏木氏は生身の自分を祐巳に知ってほしいという気配を発しているような気がします(気のせいでしょうか)。そのような矛盾を抱えながらの意思を祐巳が感じ取り、身を固くするしかなかったのではと想像します。
[▽続きます]