くりくりまろんのマリみてを読む日々

瞳子と演劇を中心に⑪ 演劇の周辺

マリみてでは人物の関係が、それぞれどのように変化してゆくのかということを軸に話が展開されています。しかし人物どうしの相互関係とはまた違った視点で注目したいのが、深く特定の活動・物事に関わり、しかもそれが何らかの表現行為へと結びついている様子が描かれていることです。瞳子の他にも幾人かがいます。

音楽

本格的に音楽の道に取り組むとなると、生活のほとんどを練習に捧げなければなりません。在校中の蟹名静も、他のことにはあまり手が回らないとのことでした。
…「のだめカンタービレ」を読むと音楽を学ぶ人たちがの生活ぶりが良く伝わってきます。音楽の分野に限らないものでしょうが、どのように音楽を続けていくかという進路の問題も重要なものであることが分かります。一年留学を先延ばしにするというのは大変なことだったでしょう。(進路と言えば、あみだくじで決めたという芸術学部で鳥居江利子は今何をしているのでしょうか。)

記事を書く

ふと思うのは、三奈子が薔薇さまたちと同時期に高等部で過ごせて幸せだったと言えたのは(『いとしき歳月(後編)』)、記事を書くという手段・能力を持っていたからではないかということです。それがいかに「創作」を含み、山百合会に迷惑をかけて筆禍を招こうともです。そして三奈子の何かに衝き動かされているような情熱が紙面に現われ、生徒たちを楽しませていたのだろうと想像されます。それ以後の三奈子が一歩退いた形で祐巳たちを見ていて落ち着きを感じさせるのは、十分に満たされるものがあったからだろうと思われます。

写真

蔦子のかけている眼鏡は伊達ではないのですが類型的には「分析・客観視メガネ」であると言えば良いでしょうか。蔦子は物事が良く見えます。しかしそれはともすれば自分自身をも良く見えるということであり、却ってつまらないことになりかねないものでしょう。自身が写真に写るのは乗り気でない、という笙子との話の中にそれが窺えます。しかし、写真という方法があることで蔦子はその特質をうまく生かし、自分も他人をも楽しませることができるという面があるのかも知れません。

「感激屋」乃梨子の持つ瑞々しさ

入学当初から瞳子と付き合いができた乃梨子です。「銀杏の中の桜」では住職から見せられた仏像にすぐに引き込まれる様子が描かれます。『真夏の一ページ』で祐巳が自分は到底身につけることは無いだろうと思ってショックを受けた乃梨子のクールさは建物で言えばファサード(正面から見たときの外観・門構え)であり、そのすぐ内側には瑞々しい感性の世界が広がっているのだろうと思われます。薔薇さまの入れたお茶に感動するところは、ふとその感性が目の前の人物に向けられたものだったのでしょうか。『羊が一匹柵越えて』で乃梨子は一人白ポンチョに刺繍を施す瞳子に親しみの情を示します。乃梨子瞳子との間には、ちょっとしたクリエイティブ仲間の感覚が横たわっているように思われます。

瞳子と演劇の親和性 ― 身体と感情との結びつき

瞳子はバイオリンを能くするなど芸事の面で才能があること、あるいは努力を惜しまないことを窺わせます。そして特に、演劇と瞳子の間には親和性、あるいは演劇者としての徴候があるように思われます。
演劇が一体何を「表現」しているのか、なぜ演劇においてリアリティを持ってそこにその役の人物が「いる」と感じられるのか。
あくまで切り口の一つとしてですが、演劇とは生々しい人の感情を表現するものであり、感情の表現が最もうまくなされたとき、リアリティも生じてくるという見方があるでしょう。
音楽でも絵画でも感情とは強い関連性があります。その中で、感情というものを最も直截に扱おうとしているのは演劇ではないだろうか、と。
そして、例えいかに「感情豊か」といっても外から窺うのは難しいものです。そこで手がかりとなるのは(顔の色艶を含めた)表情であり、声の抑揚であり、そして全身での所作・体の動きです。演劇での感情の表現ということにおいて、身体性は切り離すことのできない要素と言えましょう。そして、観客が知覚することができるのは「表現された感情」のみであるとも言えます。
パラソルをさして』から。

・「違ーう!」
両手でグーを作って、思いっきり上から下に振り下ろす瞳子ちゃん。そんな激しいアクションをギャラリーの皆さんに披露しては、いざ泣く演技をするときにマイナスなんじゃないだろうか。
瞳子ちゃんは茹でたタコみたいに真っ赤な顔をして、その場でジリジリと後ずさりした。

瞳子の言葉の意味内容はさて措き、文中での「演技」とはまた違った意味合いで極めて「演劇的」な場面だと思います。前者からは何がどう「違う」のかはさほど明らかではなく、祐巳もそれをどう解したのか示されていません。しかし、「違う」のだという強い気持ちはよく伝わってきます。この後はっと気付いたようになって祐巳に顔を近づけて囁くシーンが続きますが、それでも瞳子所作の一つ一つが生き生きとしたものに感じられます。
後者でも、顔の色艶、そして全身の雰囲気から、強い焦燥感や葛藤が感じられるところです。
自称「女優」である瞳子が「演技」をしているという意識の埒外で、却って演劇に近接する「身体全体を通しての感情表現」がなされていることが示されているようです。そして言わば天然のものであるこれらの瞳子の特徴は、やはり野放しにしておいては単なる特徴に終わってしまうものであり、本当に「表現」と言えるようになるには訓練によって洗練される必要があるものなのでしょう。
そして、何かを隠蔽したり目的を果たすという意味合いでの「演技」というのは瞳子自身が気づき光の当たっている側面であり、演劇にまつわる営みの一部でしかない可能性もあるのかもしれません。

付記

少し勢い込んで書いてしまった感もあるのですがぼくは全く演劇については素人です。付け焼刃でも、これを機会に少しでも知ろうと思いまして次のような本を注文しました。というより読み始めるのが遅すぎです。反省。
演劇入門 (講談社現代新書) 演技と演出 (講談社現代新書) 演劇やろうよ!
[▽続きます]