くりくりまろんのマリみてを読む日々

「薔薇のミルフィーユ」感想② ― マリみての次のステージ

マリア様がみてる 薔薇のミルフィーユ (コバルト文庫)

突如現われた要素

少し総括的で抽象的な話です。「紅薔薇のため息」で最も驚いたのは、一見マリみてにそぐわないような「上のステージ」「勝てない」「同志」などといった言わば男性原理的な匂いのする言葉が次々に祐巳に投げかけられたことです。勝つ・負けるとか、たたかうという文脈はマリみての中ではほとんど出てこなかったものです。…もちろん男性原理といっても、本来男性がするべきことなどという意味ではありません。学生でも社会人でも、女性がいろいろな「ステージ」でたたかっていることを少しは知っているつもりです。
マリみての中のたたかいというのは自らの思いや性質をどうすれば良いのかといった、相当内在化されたものを中心としていました。(この点、周囲の状況や江利子などとたたかう姿勢を示してきた由乃は貴重な存在です。)

顕在化してきた祐巳の母性と挫折 ― 言語化を伴う自己認識

そして、祐巳が「お母さん」のようであろうとして深い挫折感を味わうという情景もまた印象的です。マリみてでは随分早くから母性を連想させる話は多かったのですが、特に可南子の話では子供を生み育てるといった、より広範で直接的な母性への認識が扱われました。可南子にとってお姉さま、すなわち「お母さん役」と言える人はただひとり夕子であり、同時にそれは学園内の制度の枠を超えています。そして「妹オーディション」での先代薔薇様方が可南子を評しての「マザコン」、祐巳の「お母さん」という独白がこれに続いています。母性を連想させる話が数々扱われながら、端的な言葉で直截に表現されるに至っているのはそのテーマが一つの着地点に至ったという作品上の「宣言」とも言え、大きな意味があると思います。そして祐巳も(心の中でですが)明確に意識し始めています。…ただ、祥子の面倒をみるときに祐巳が柏木氏にはるかに及ばなかったこと、あるいはさほどの落ち度は無かったにもかかわらず自身ではそう思い込んでいることをどうみるのかなど、まだ考えるべき点は多そうです。それに、どうにも母性的な関係の中に入らなさそうな瞳子がどうなるのかという話も残されているのでは、という想像もめぐらしたくなるところです。
祐巳由乃のまだなしえていない「妹選び」というのは特定の対象に対する深い関わりを持つという、割合年相応の課題と言えます。これは一生にかかわることでもあり、課題となり始める年齢である、と言いなおした方が良いかもしれませんが。
祐巳の母性はやっと形を成しはじめたまだ未熟なものですし、「妹選び」にまつわる課題もクリアになっていません。しかしその上にまた、母性的な面と柏木氏の語るような男性原理に基づく考え方とをどう両立させ、あるいは統合していくのかというさらに難しい課題が早くもあらわれているのかもしれません。それが小笠原家という「家」を通して描かれるのだとしたら、祐巳・祥子の物語とマリみては、次のステージに入り始めているのではないでしょうか。
自らを「お母さん役」とする気持ちは、本来「妹」に対して、あるいは少なくとも妹候補になるような下級生に向けられて然るべきとも思われます。
しかし一通りは次のように解することはできるでしょう。同じ一つの気持ちを発する側と受け止める側の差異は同じ文脈の中にある点でさほど大きなものではなく、容易に混交し、逆転しうるものです。「パラソルをさして」での「聖さまは本当のところ後輩の面倒をみるより、誰かに甘える方が向いているのではないだろうか。」という祐巳の推察が示しているように。決まった「妹」がいるわけではなく、そして既に祥子からは十分な補充を受けていると感じている祐巳が祥子に対して「お母さん」のような気持ちを抱く機は熟していたのだと言えます。
それにしても、祐巳は著しく出鼻を挫かれました。「妹選び」についても祐巳の気持ちに関して言えば一歩進んで二歩も三歩も後退した雰囲気です。もし「姉」というものの無視し得ない属性が「お母さん役」にあるとするならば、その役に失敗したと思っている祐巳が今後「姉」としての自分を想像し現実の中で形作ってゆくことができるのか、とても覚束ない気がしてきます。祥子の境遇に対する先行きの見えない不安を度外視しても、祐巳は祥子の言葉によってもなかなか癒えないような傷を負い、自信を失って今現在の苦悩となっています。

祐巳の「嫉妬」にみる成長の契機

祐巳の柏木氏に向ける嫉妬は、第一には(かつて瞳子に向けた感情と同じように)祥子を挟んで取り合うという構図、そして自分は未熟で柏木氏は「大人」であることによります。しかしそれだけではなく自ら観察しているように、「独占しない」という柏木氏の姿勢自体が祐巳にとっては異質であり、反発を感じてしまうものです。嫌なものでありながら同時にいくばくかの価値を認めざるをえないところに葛藤と成長の契機があるようです。

テーマが「女性の生き方」に拡大しているのでは

祐巳の落ち込みと強い関わりを持った柏木氏と彼が示そうとした言葉の意味は、祐巳がこれから乗り越えるべき高い壁となって立ちふさがっているようです。今の祥子に対する思い入れを越えるような視点が必要だと言っているのでしょう。そして作品のテーマから見た場合のメッセージとして捉えると、抽象的にはこんなことも意味しているように思われます。柏木氏が新しい要素である男性原理的なものを表しているのだとしたら、それは単に乗り越え「勝つ」べき対象ではありません。マリみての中で祐巳たちが獲得し体現してきた母性的な部分だけにとどまらず、(「同志」たり得る)男性原理的な部分をも味方につけることによって、より幅広い女性としての生き方(上のステージ)に至ることができるのではないだろうか。「お母さん役」に失敗したと思っている祐巳ですが、「姉妹」をめぐる母性のやり取りを超えた、あるいは包含するような場所もあるはずです。そんな主題をマリみては掲げ始めたのではないかと思われるのです。
もし母性をめぐるやりとりにだけ収束しきるものならば、祥子との関係を深めた祐巳が何らかの形で絆を維持し、その延長線上で自らの「妹」を作って世代交代が起きてマリみて終結するという形できれいに収まると思います。しかし、広く女性の生き方というものも問おうとするならば、少し新しく、祐巳が強い抵抗を示すような要素も必要だということではないでしょうか。「結婚」という言葉が(どれだけの現実味を帯びているのかは別として)祐巳の前に投げかけられたのも象徴的です。

付記Ⅰ

・「妹オーディション」での祐巳との会話の情景での可南子からは、落ち着いた母性的な雰囲気が濃厚に漂っているような気がします。…それこそ気のせいでなければ、ですが(汗)。ところで長身で長髪という身体的特徴といえば「Air」の美凪、「あずまんが大王」の榊さんといったキャラクタがいるわけで、母性的なものをイメージさせるエピソードを持ってます。何か関連があるのでしょうか。
祐巳が泣いてはいけないと思いつつもやはり泣いてしまうところは、あー、何だかすごく可哀想です。「姉」が直接母親にたとえられているところは今までさすがに無いのですが、グラン・スールを「おばあちゃん」、二世代下の「妹」を「孫」にたとえているところはありますね。それに「白き花びら」での「お姉さまは、偉大だ。」という聖の独白は「母は偉大だ」という常套句を容易に連想させるものです。
マリみてにおける母性というのはいろいろな面から語れるほど出てきていると思いますし、祐巳・祥子について言えばほぼ全編に渡ってと言って良いほどです。
その一方で、今後男性原理的なものがマリみてに入ってきて重要な意味を持つのではという予測をしてみたのですが、その内容はほとんど明らかではありません。柏木氏の言葉は今のところ曖昧でどこまで男性原理的と言えるのか定かではありませんし、どのような行動をし、どのような考えを持っているのかがこれから十分に描かれるのか、あるいはさほどの登場はしないのかも分かりません。しかし重要なのは、祐巳・祥子がどのように新しいものを獲得し、育んでゆくのかということなのですね。柏木氏は祐巳の(そして祥子の)導き手でもなく敵でもなく、言ってみれば「我がものとして取り込んでゆくべき対象」として描かれてゆくのではと思います。
そしてこれと呼応するように「白薔薇の物思い」で志摩子の兄が登場しています。

付記Ⅱ

殿下執務室さまマリア様がみてる「薔薇のミルフィーユ」トラックバックさせていただきます。

この兄貴との関係を見てる感じだと、どうも兄貴が家を出たのは「宗教者として志摩子に勝てない」みたいなところをどっかで悟ってしまっていた、みたいな部分があったのかな……なんてことも妄想してみたり。

孤高の姿勢の強かった志摩子リリアンに入ってからいろいろな人から影響を受けてきたのですが、既に強い影響を与えていた人が最も身近なところにいたのかもしれませんね。
[▽続きます]