瞳子と「演劇」を中心に⑧ 小笠原一族の心的傾向に関して

"はちかづき"さまより、登場人物の姿勢についての精緻な考察をメールでいただきました(ありがとうございます)。ほぼ全文を転載させていただきます。文中リンク等を加え、余計かもと思いつつ強調表示も入れました。

くりくりまろんさまが『「特別でないただの一日」④』と『瞳子と「演劇」を中心に②』で述べていた、祥子の「構え」に関する考察をまとめると、「構え」とは、正しい行動方針を採るための指針である「中の人」と、その場にあった正しい行動様式である「鎧」の二つの姿から成り、それらが内と外から祥子の行動を規定しているのだ、と言えるのではないでしょうか。
プライドが高く、またお嬢様として厳しく躾けられた祥子には堅固かつ狭量な倫理観、行動方針が育ちました。祥子の行動はこの別人格といっていいほどにまで育った倫理観、つまり「中の人」によって決定されています。
また祥子は何かをするにあたって、その場面にふさわしい行動様式を完璧にこなす事ができます。これもまた、厳しい躾けと無様な真似はできないというプライドのなせる業です。
要するに、彼女は「したい」ではなく「しなくちゃ」で行動している、と言うわけです。正しい行動を正しいやり方で行える祥子は、常に完璧です。しかしそれはひどく窮屈でストレスのかかる生き方であり、ついには心がぽっきり折れてしまうなんてこともあったわけです。

さて、くりくりまろんさまが指摘されているように、幼稚園時代の祥子はこの「中の人」をうまく扱えず、けが人に追い討ちをかけるような態度をとってしまっていました。
この様子は現在高校一年生の瞳子とよく似ています。瞳子もまたお嬢様であり、プライドは高く、躾けも行き届いています。そして彼女もまた、自分にも他人にもやたら厳しい「中の人」に振り回されていると言えます。「中の人」に従わなければならない瞳子は、「中の人」が必要であると判断したのなら憎まれ役も自ら進んで引き受けますし、「中の人」が間違っていると判断したことに対しては相手が先輩だろうがなんだろうが容赦なく批判します。
さて一方で、瞳子にとっての「鎧」とは当然「演技」であるわけですが、この「演技」には単に的確な行動様式として以上の意味があります。瞳子は「中の人」にしたがっていろいろな正しい行動をしなければならないわけですが、それはしばしば周囲との衝突を招き、瞳子自身の心をも傷つける結果となることもあると思われます。
そのため瞳子は、チェリブロの宗教裁判などにおいて、その「演技」によってえらくハイテンションなもう一人の自分を作り出し、本当の自分が傷つくのを防ぐための盾としています。「演技」の瞳子が非難を浴びるのはその行動から考えて当たり前のことですが、それらの非難を浴びているのはあくまで「演技」の自分であり、本当の自分ではないわけです。これによって瞳子は批判や悪意の直撃を防ぐとともに、自らや世間を客観的・俯瞰的に眺めることが可能になります。
さて、ここで面白いのはこの心の鎧が後づけ可能だということです。
ジョアナにおいて瞳子は演劇部の先輩に対して「そんな風に思われていたなんて、私の演技力もたいしたものだ」と言う趣旨の独白をし、「このこじれた関係が修復することなどありえない」と演劇部での人間関係を切り捨てました。どなたかが仰っていらしたのですが(すいません失念しました)、捨てられる前に捨てたわけです。
しかしながら、チェリブロ等でのハイテンションでかわいこぶりっこな瞳子が演技であることは割合わかりやすいと思いますが、それ以外の場面における瞳子には特にキャラクターの違いは見受けられません。また、あらゆる場面で演技の自分を貫けるほどの神経を瞳子が持っているかといったら、僕は疑問です。
ジョアナにおいて瞳子は、傷ついた自分は演技の自分であり、本当の自分は傷ついてなんかいないんだと自分をだまし、さらに傷ついた演技の(演技だということにした)自分をそれに付随する人間関係ごと切り離すことによって、それ以上の問題の発生を抑え、自分の心の平衡を保っているのでしょう。
これはある意味、祐巳と可南子の間の火星のたとえに近いものがあります。しかし現実に向き合うための「火星」に対して瞳子の「演技」は何もかもを拒絶することにもなりかねないかなり乱暴なスキルです。瞳子は自分が傷つくことを、あまりにも恐れすぎているのだと思います。

「中の人」と「演技」による三重構造を取り除くと、瞳子のキャラクターは割合ありふれたわかりやすいお嬢様キャラになると思います。彼女はプライドが高くひどく繊細で、意地っ張りなのは誇り高いからであり、ひねくれているのは心の弱い部分を隠すためです。
そして瞳子は、それぞれ性質の違う3人のキャラクターによって成り立っています。演技の瞳子は、元の瞳子の戦闘用の別人格で、しかも使い捨て可能なそれであり、元の瞳子とは別のキャラクターです。また元の瞳子の行動は、瞳子の中のもう一人の瞳子によって厳しく監督されていて、この瞳子は元の瞳子の心が傷つこうともその手綱を緩めることはありません
瞳子のキャラクターの掴みにくさと、現在の彼女の孤立は、傷つきやすい心と独自の倫理観に突き動かされた行動との乖離、そして人間関係および「演技」の自分の使い捨てからくるものだと思います。
瞳子に必要なのはやはり、「マリみてTT」の「コラムあるいは雑文」の柏木さん関係の話題で少し言及されていたように、「境界を踏み越える」存在である祐巳だろうと思うわけですが、祐巳が自分の価値をまるで自覚していない現状ではなかなか難しいものです。

さてその祐巳ですが、祥子や瞳子ほどではないとはいえ、彼女にも「構え」は存在します。しかしそれは、他の登場人物においてのそれと比べても著しく弱いものであり、祐巳には「しなくちゃ」ではなく「したい」という思いに突き動かされての行動がしばしば見られます。だからこそ、祐巳へのほめ言葉は「躾がいい」ではなく「育ちがいい」であるわけです。
そんな彼女がレイニーでへこみまくった時に、「構え」を心の支えのひとつとしていたのはとても面白いと思います。自分を追い詰めるほどに強力なものでさえなければ「構え」はとても有益なものなのです。

もう一人興味深いのが柏木氏です。彼もまた小笠原の一族であり、いいとこのお坊ちゃんです。しかし彼の場合、「中の人」も「鎧」も彼自身と完全に一体化しており、何の問題も発生させていません。「したい」事と「しなくちゃ」いけない事がまったく同じである柏木氏は、世界が彼を中心に回っている限りにおいて、無敵の存在であると言えます。

以上、ほとんどがくりくりまろんさまをはじめとしたマリみてのディープなファンのかたがたの考察の寄せ集めではありますが、僕なりの小笠原一族の「構え」に関してのまとめです。お粗末さまでした。

構造的で分かりやすくて、複数の人物に及ぶ考察、お見事です。繊細さを持つ瞳子は日頃でも二重三重の守りを自ら築き上げる必要があり、それは「銀杏の中の桜」でも特にそうだったのですね。演劇はあくまで舞台の上でするもので、その枠組みの中で行われるから誰もが安心していられます。しかし外で「演じる」のはいわば禁じ手であり、瞳子を守るものも何も無かったと言えるのでしょう。
以下は補足というよりは、話を広げる形での感想です。

緩やかな祐巳の期待と望み

祐巳には「したい」という思いに突き動かされての行動がしばしば見られるというのは、言われて見れば確かに思い当たるご指摘です。「特別でないただの一日」で皆に背中を押されて瞳子を説得しに行った祐巳もそうでした。ほとんどが「したい」という希望に覆われていて、しなければという部分は少ないのです。瞳子の役を聞いてピョンコピョンコと飛び跳ねて喜び、その後の演劇部までついて行ってあげる、家に来れば良いというのも断られると「つまらない」という感想を持っているように本人の楽しみの部分が多いです。
ここで見られた瞳子祐巳の関わりは、「真夏の一ページ」で見られた祥子と祐巳に相通じるものがあります。始めは祥子に問題に直面させなければというニュアンスの強いものでしたが祐巳は暑気当りをきっかけにして意気阻喪し、自分から立ち向かってほしい、克服する筈であるという期待と望みのみが伝えられ、これによって祥子は自発的に動く気になるのです。
前回のコメント欄の最後でよーすけさまが

特別でないただの一日」で、祐巳だけが「あなたの才能を認めない者を沈黙させ得るのは、あなたの才能だけである」という道を指し示し、「その才能を私のためにも発揮せよ」と光を与えています。

と述べられているように、祐巳の期待のこもった言葉によって瞳子は自分がしなければならないことに気付かされ、自発的に解決する道を選びます。
瞳子にとって、演劇部を追われ山百合会からも引くように言われた帰属に関する問題は寂しくもあり切実な事柄であったでしょう。しかしそれでもなお、一番必要だったのは救いの手というよりも、ただ自分がうまく演ずることができるのを期待し、喜んで心待ちにしているような存在であったのかもしれません。
瞳子祐巳に多くの「姉妹」関係の中に多かれ少なかれ生ずる守り守られるといった関係を期待せず、むしろ自分が祐巳を何としても守るべきであり、傷つけてはならないと思っている可能性すらあると思います。

マリア様の星 ― 可南子の獲得した現実検討力

基本的には「構え」は有益なものであり、瞳子のそれが現実に向かい合うための「火星」に近いと述べられていることに関連して。

幻だったものは、私の想いです。ずっと抱いていた想いを否定されたら、…心を否定されるのは、それはとてもせつないことだから

ここで可南子のいう「心」とは「涼風さつさつ」で祥子の述べていた、捉え難く発見するのは難しいが「ある」ものと確信できる何らかの実体、に近いものをさすのでしょう。「理想の祐巳さま」が既に失い、そうであってほしかったと痛切に願った夕子の姿に強い影響を受けていることは祐巳は知りませんでした。しかしそれを無いものとして否定しなかったのは祐巳のやさしさであり包容力です。可南子の心の存在を認め、そのことによって可南子は次第に「別の人間」である祐巳の心を次第に発見したという話だったと思います。…なぜツーショット写真を可南子は希望したのかがとても気になって [考察]細川可南子の謎というのを以前書きました。SSもどきも付けましたがいろいろな意味で向いていないようです(汗)。
祐巳は何かの線引きが行われているときに境界を踏み越える存在であり、おそらく強い「構え」を持つ瞳子にとってもそうです。しかし逆に厳密な線を引くことが稀にあり、それは祐巳強い現実検討力の表われだと思います。
例えば「パラソルをさして」で

辛くて、自分ではもうどうしようもなくなった時に必要となるのが聖さまなのだ。
喩えるならば、トランプゲームの切札。

というふうに、自分の頭で考えることが無くなってしまうから甘えるのは特別なときだけなのだと限定し切り分けています。
「火星」は、何とか「理想の祐巳さま」が住めるそのとき思いつく限りの遠い場所だったと思います。これが「どこか遠い場所」にいるなどと中途半端なものであれば、双子の片方は幽霊かドッペルゲンガー(二重身)のようにふらふらとさまよい、現実の方に近づいてしまうかもしれません。
限定したことで幻想の姿は安定し、まず最初に可南子は少なくとも「おめでたい」という属性を持つ祐巳の心を発見します。写真の希望を祐巳が了承したとき少しだけ嬉しそうだったのは、抜け殻ではない何らかの実質があると思ったからだと思います。そして「理想の祐巳さま」を自分が大切にしたのと同様、現実の祐巳も祥子などに大切にされていることに気付き「紅薔薇のつぼみの不在」で大切な祐巳さまを傷付けたという表現が出てきました。それは可南子自身が夕子や父親にとって大切な存在であるという実感に繋がっていったと思われます。
このような働きを通して、およそ荒涼としたイメージしか湧かない火星は永遠性をも備えた美しい「マリア様の星」になることができたという話だったのでしょう。可南子と祐巳が手をつないで走り、枯葉がカシャカシャと鳴る情景(写真をとるときの音になぞらえられているのかも)は素敵です。そしてこの情景こそが読者に約束された可南子と祐巳の一つの到達点であり、「ツーショット写真」だったのですね!(どうしてもこの一言が言いたかったのです)

付記Ⅰ

以前も紹介させていただいた《ランゲージダイアリー》さまは、異なる人間同士の相互理解の物語がマリみての中心部分であるとして、関係性を三つの発展段階として捉えています。今野緒雪『マリア様がみてる 妹オーディション』感想で、茶話会に参加した妹候補たちと、昇華した可南子と祐巳の今の関係が対比されていることを述べられています。

付記Ⅱ

《幽霊図書館員が読む本》さまは「マリア様がみてる 妹オーディション」にみる「関係性の落ち着き方」について で、マリみてでは

友情/恋愛感情をきっちり分けるのではなく、むしろ両者をグラデーションのように連なるものとしてとらえていて、そのあたりの複雑な心情や関係性の描写が肝となっているわけです。

と述べられた上、可南子と祐巳において「姉妹にならなかったけど、互いのことは好もしく思う事例」が描かれた意義に注目されています。よく出てくる「好き」という言葉は、全て少しずつ違う内容を持つものなのだろうと思わされます。
佐藤聖祐巳もそうでした。そして、より複雑で繊細に描かれたのが志摩子蟹名静であったと思います。志摩子と聖は互いに導き・導かれる関係であって恋愛感情は皆無でしたが蟹名静にとっての聖は違います。しかし両者とも聖が「好き」であることを確認することでお互いの了解が生まれていました。そして蟹名静にとっての志摩子は聖が志摩子を見る目に近かったでしょう。しかし志摩子は聖に、蟹名静が「好き」であると言っています。これはかなり直截になされた恋愛感情の表白ではなかったかと思います。
三者の関係について、そして乃梨子も合わせた場合について、ぜひ詳しく考えたいところです。
[▽続きます]