くりくりまろんのマリみてを読む日々

瞳子と「演劇」を中心に⑥ 自由に伸びる祐巳

祐巳の認識力

祐巳についてはあなたは自然のままが一番良いと祥子に言われているように性質そのものについては野放しであり、内省は多いのですが鋭く自分と対決せざるを得ないということはありません。
そして③のように祐巳の深層(あるいは二重構造)として描かれていると思われる姿も合わせて考えると、「時々幼子の力(福沢時空)を発揮するものの、基本的には可愛いらしいだけで泣き虫で甘えん坊で駄目な女の子」という形になってしまいそうです。実際「パラソルをさして」まではそのような面も強調されていたと思います。
しかしこれと対抗するかのように、「○○だろうか」という疑問形で示される強い懐疑を含んだ思弁で祐巳の頭の中は一杯です。その中にはすぐには答えが出ないような難しい問いもあり、自問自答を繰り返し、迷いながらも主体的に視野を広げて物事を認識していくことが主な課題となっていると思われます。その姿勢が祐巳の自我の力、あるいは成長力の源と言えましょう。「パラソルをさして」で現われた「世界が拡がる」という主題と接点があり、祐巳はずっとこの主題の上を辿ってきているようです。(イメージによる言い換え:聖母の放つ光は幼子の目にはあまりにも眩しく、周りのものは一切見えなかった。しかし姿が隠れ光が弱まると、今どんな場所にいるのか、周りはどのようになっているのかにも目が向くのだった。)
祥子さまを中心として薔薇様たちと出会い親友も得て、今は下級生たちともさまざまな種類の交流ができています。もともと円満な性質の祐巳はいろいろなできごとが次々に降って湧いてきて鍛え上げられるといった、状況に遭遇して逐次対応する人物となっています。そして小ぢんまりとした自己像を持つにもかかわらず認識の世界は幅広く柔軟で、スケールの大きさを感じさせる理解を時に他の人に示します。それには「子羊たちの休暇」で歌う場面で祥子がただ見ているだけで頑張れたというように、これ以後「絆」による支えを背景に持っているのが前提となっているのですね。
祐巳の持っている強い懐疑の念は敬慕する対象にも容赦なく向けられ、作品に独特の雰囲気をもたらしています。この点に関連して《日刊海燕》さまが、マリみてで使われている人称についてともども述べられています。

このていねいさと辛辣さの落差がユーモラスな風味を生みだしています。実際、彼女は最愛のお姉さまに対してもときどきひどいことを考えます。それが一見すると古風で耽美な設定をうまく相対化しているといえるでしょう。

「祥子さまの寝顔」シリーズに見る祐巳の変容(ややネタっぽく)

辛辣さを含んだ考えが祐巳の認識の変化とパラレルになされている様子が、一つの題材を巡って描かれているところがあります。「祥子さまの寝顔」シリーズ(勝手に名付けました)です。

「長き夜の」での憧憬

祥子のすぐ横に寝て横顔を見ながら、祥子さまの妹になることができる女に生まれて本当に良かったと感謝する場面です。抒情性に富んだ場面でもあり、男である柏木さんには無理なことだ、とマリみての世界における一つの宣言をしたのが祐巳だと考えると、祐巳が実質的に主人公になったのはこの「ロサ・カニーナ」の巻なのかもと想像しています。

子羊たちの休暇」での倒錯

眠れる美女を「寝込みを襲うかのように」起こしに行き、寝顔に見とれる場面があります。行き帰りの車中で祐巳は祥子の寝顔を堪能したのでしょうか。

涼風さつさつ」での疑惑

支倉令が、祥子は飛行機が苦手で薬の力で寝ているという話をする場面です。令は修学旅行のときは祥子のよだれを垂らした寝顔しか見えなかったと言うので祥子は怒ります。このじゃれ合いを聞いての祐巳の感想。

空の上で、ずっと眠り続けたこととかは実話っぽいし。ほんのちょっとくらいはよだれを垂らしていたかもしれないし。

「長き夜の」と比べるとえらい違いです。しかしこのとき祐巳は祥子と修学旅行に行けた令が羨ましいとも思っていて、行間からは…
「もしそういうことなら、私が口の周りを優しく拭いてあげても良いし…いや是非とも拭かせてくださいお姉さま」という含意が読み取れます。かつて祥子にアメ玉を与えられ、紅茶で汚した口の周りの面倒までは見きれないと言われた情景とは逆の立場を想像できるまでになっています。すなわち、祥子に対する認識の変化と相まってそういう考えも出てくることが可能となった、と言えます。

イン ライブラリー」での弛緩

ここに至ると「姉妹」でほぼシンクロして寝てしまい、祐巳は寝顔を見るどころか自分の起き抜けの顔をさらすところでした。そこまで緩んだ顔を見せられるというのは著しい進歩とも言えましょう。祥子にしても学内で居眠るというのは、いつも気を張り詰めている雰囲気が伺われることからすると良い傾向なのかもしれません。しかしかつて祥子が扉から飛び出して祐巳にぶつかった時祐巳に対する理解のなさという限界があったように、瞳子に対する祐巳の限界を示すと解することもできるでしょうか。

「まるで犬みたいだ」 祐巳の意識と資質とのバランス

そして、祐巳の意識と中心的な資質がどのようにバランスを取っているのかが示されている話を一つ選びたいと思います。少し前に書いた美冬には無かった“K”の話 の続きです。
ウァレンティーヌスの贈り物(後編)」のあとがきに書かれている福沢祐巳にあって鵜沢美冬に足りなかったアルファベットの”K”の中身を考えると、『子どもが持つ種類の純粋さ、ひたむきさ』ということになると思います。
「紅いカード」で祐巳に間近で会うことになった美冬は、ゲームに熱中し、カードを探して土を掘っている祐巳を見ながら「犬みたいだ」と思いつつ、到底自分にはできないことだと思います。
それでは祐巳の方は小さい子のように「無心」でそれをしていたのかというと、少々違うようです。見つかったら二人で申請に行きましょうという言葉に美冬は驚き、罪障感を抱きますが、このとき祐巳は労働力は多いほうがいいという考えで言ったことが「びっくりチョコレート」で分かります。
そして掘っているときは、そっくり同じように「犬みたいだ」と自分に対して思っています。この点は美冬とは全く変わらないのですね。
意識はさほど変わらないが、『子どもが持つ種類の純粋さ、ひたむきさ』の中に実際に身を浸すことができるか否かが分かれ目であったという話だと思います。そして祥子は祐巳のそのようなところに支えられ、且つそれを守ろうとする姿勢を通して、徐々に変わっていく力を得たのだと信ずることができるのです。

瞳子の努力

それでは、瞳子はどのような種類の努力を今までしてきたのでしょう。これに関連して、瞳子の問題はちょうど一年前の志摩子のように極私的であるが故に当人にとっては深刻で切実なものなのだろう、そして背景も祐巳が自覚を得ていく過程と共に明らかになるのではという趣旨のメールをいただいております(ありがとうございます)。志摩子ロサ・カニーナに孤独の淵を見せられたり、選挙の立候補で大分迷ったりしています。そして自分を見つけてほしいという気持ちを「白いカード」に託したように、葛藤がいろいろな形で表われていました。
瞳子は周りの様子を客観的に見ることができます。しかしそれ以上に、自分自身に対する眼差しも聖や志摩子のような種類の強さを持っており、それが瞳子の「今」を作り上げているのではないでしょうか。
[▽続きます]