くりくりまろんのマリみてを読む日々

瞳子と「演劇」を中心に④ 瞳子と祐巳の絆はどこに

マリみて版「カインとアベルの物語」?

前記のような祐巳の中の幼子と、祐麒瞳子の中に見たような荒ぶる「幼稚園児」(それぞれの「資質」と言い換えても良いですね)を並べるとどのように見えるでしょうか。この点、マリみて解題の試みさまが瞳子について考察の上、

祐巳に甘えている」の中身が、単に「祐巳さまが好き」というだけでなく、依存のような含みがあるように思うのですね。しかしそれは、例えば白チビ聖さまの栞に対するようなものではなく、あるいは恋愛に類するものでもなく、一番近いのは祐麒祐巳の関係、つまり実のきょうだい(姉妹)であるように感じられるのです。

と述べられているのが興味深いです。瞳子祐巳は性質・資質が全く相反する「きょうだい」と言うのが最も近いというのが相応しいのではないでしょうか。実際「ショコラとポートレート」に描かれた内藤笙子とその姉のように、実のきょうだいは相反する価値観をもつ存在として影響を与え合うことが多いものです。自分と少し違う生き方をしている、かけがえの無い半身とも言えましょう。「姉と正反対の生き方をして、幸せになれることを証明してやる」と「姉と二人で密かにチョコレートを摘んでいる方が、ずっと自分らしい」という一見相反する思いが自然に両立する、そんな関係です。
そして祐巳に関しては、薔薇様の妹にならなくても充実した学園生活が送れていたであろう、という証言(?)があります。すなわち少なくとも、大過のない幸福は約束されているのです。
しかし荒ぶる「幼稚園児」を素質として持つような瞳子の場合はどうでしょう。
幸運な場合は、エイミーのように活発な、祐巳とはまた違った魅力のある姿となるでしょうし、それは瞳子自身も最も良い姿として目標とし、しかも「見た目と地」といわれるほど獲得していたものです。
しかしそうでなかったら、力を無理に矯められ、怒り悲しんで泣き喚きながらも暴れようとする…それが今の瞳子の中の「子供」なのだと思います。そして、ジョアナ」に漂う寄る辺無さ、見捨てられ感、底知れぬ虚無感は、全体としてはただ一つの心象に集約されると思います。「私は誰にも愛されて来なかった」と。個別具体的なことを語りながら、同時に底の方にある情緒の世界がどんなものであるかを描いたところと解しています。
また、祐巳瞳子は「きょうだい」に近いのではないかという考えは、少し広げると興味深い点があります。またしても大仰な題材ですが旧約聖書の「カインとアベルの物語」(状況から見るとカイン=瞳子アベル=祐巳なのですが、気持ちの上ではむしろ逆のことがあったと思われます)。
(強引にこじつければアベルがカインに殺される、すなわち事情はどうあれ祐巳瞳子の存在のおかげで立ち直れないほど落ち込むということはあったのですが。しかし瞳子祐巳にときどき批判的ですが、さほど嫉妬はしていないと思います。ただ、イン・ライブラリーで寝起きの祐巳さまの顔がひどく不細工だったというくだりは祐巳にはそういう顔ができる「姉」がいて羨ましいな、という意味だったと思います。)
ここでは…
カインとアベルは性質が逆
・カインの怒りと悲しみは瞳子のそれであり、アベルの呑気さは祐巳のそれではないだろうか。
祐巳の方がむしろ一時期はカインのような気持ちであったかもしれない。
・「居場所」を追われたカインは、その先で町を作った(この点は後述します)。
といった点に接点があるのではないかと思っています。

瞳子祐巳は対抗しているから

あまり複雑に考えずに淡々と材料を拾うような読み方でも瞳子が「誰からも愛されて来なかった」という状態との戦いをしてきたと考えるのは可能です。瞳子祐巳の特徴を見ていくと光と影と言えるほど多くの点で対称性が際立っています。そして祐巳は誰からも好かれ愛される幸せというものを体現してきました。これに対応するものは誰からも愛されない辛さと言えるのではないでしょうか。抽象的には聖母の胸に抱かれるほどの幸福と、人形「ジョアナ」の無惨が対比されています。
また、こんなことも考えます。
祐巳と祥子、志摩子乃梨子由乃と令、そして佐藤聖久保栞において書かれてきたのは「どのように」好きであれば良いかという方法の問題です(なお、聖と志摩子との間は特殊で恋愛感情もしくは類似のものは全く無いですね)。そして可南子ですら愛憎の両極端を統合するという大仕事の末、愛されているということを確信できました。するとここに至って、マリみてでは誰からも愛されていないとしたらどうするのかという話を展開しようとしているのだと思います。

付記

とある方から、ロザリオを断るという形でカインがアベルを殺してしまうという事態はむしろこれから起きるのではとの反応をいただきました(ありがとうございます)。
ただそうすると、祐巳の場合は自分をもう少し見てほしいといった矜持とかロザリオの意味を純化しようという意味合いの前向きな姿勢があったのに比べ、瞳子の場合はかなり自己否定的な意味合いのあるものになりそうでせつないです。それでもおそらく祥子がそうであったように「自分が相手を分かっていなかったことが分かる」ということには繋がると思います。
瞳子の分からなさというのは登場人物からみた場合もそうなのであって、祐巳から志摩子に至るまで、それぞれの理解の度合いとか見方が違うのでしょうね。
[▽続きます]