瞳子と「演劇」を中心に③ 祐巳の中の「子ども」の物語

祐巳の透過性

イメージに注目した話を続けます。
祐巳の中には、天真爛漫で天使のような微笑みを持つ幼子がいるのでしょう。子供というものの一つの理想形で周りの大人を引き付け癒します。決して暴れたりはしません。しかし虚弱体質で良くぐずり、その意味で手間がかかるといったような。
祐巳の特徴は、この中の「子供」と外の世界との間の境界がすぐになくなるところです。
何か聞かれると「へ?」と返し、外側から見ると無防備で危なっかしい雰囲気です。そして逆に内側に対しても無防備なため「百面相」で中身がすぐに外に出る。薄いフィルターしかかからない構えの無さは、言わば透過性があると言えるのではないでしょうか。

「福沢時空」とは

そしてこの幼子が力を得て転がり出たようなシーンが「いとしき歳月」で「どぜう掬い」を踊るところと「子羊たちの休暇」で歌を歌うところです。稚気溢れる踊りをし、「天使」に喩えられています。「福沢時空」が祐巳の資質の何かを表し、周りを巻き込んで物語を進める推進力を言うならば、「福沢時空」とはこの種の子供の持つ力の別の名ではないでしょうか。
もちろんマリみて全編が福沢時空に覆われているわけではないし、祐巳の限界もきちんと書かれていると思います。もしかすると祐巳の本当の限界というのは、作品の今の時点から問題になるのかもしれません。

祐巳の弱力性

天真爛漫で暴れたりしなさそうなのは、両親に対して極めて良い印象を持っていて反抗期がなさそうな祐巳の姿と重なります(そのため祐巳の両親はどんな人だか印象が薄いです)。
そして子供が感じさせる相反する二つの性質、力強さと無力な感じのうち後者に偏っています。誰を責めるでもなく自己完結してさめざめと泣く。祐巳が泣く場面は多いですね。
瞳子のことについて何もできなかったと乃梨子に語る「特別でないただの一日」の祐巳に見られるような小ぢんまりとした自己像はほぼ一生ものに見えるくらい変わらないもののようです。家は庶民派であり、顔は狸顔であり…。私などが祥子さまの「妹」に、から連綿と続いています。内藤笙子が始めて祐巳を見かけた時の、突いたら泣き出しそうな感じというのも関係がありそうです。
それは失望感のある自己否定というのでも、強さへの嫉妬を感じさせる卑屈というのでもないのでしょう。ただ当たり前のこと、自明の理として受け入れていて葛藤がありません。力弱き子が、別にそのことを何とも思わないように。
そうすると、祐巳の辿っている道はさほど険しくはなくとも狭く難しい道なのだと思います。自分の像を肥大させずに満足を得るというのは大変なのではないでしょうか。
祐巳の変わらない部分に注目してみるのも面白いですね。

遊び戯れる二人の子供 ― 佐藤聖祐巳

佐藤聖の中にも祐巳と似たような「子供」がいるようです。「パラソルをさして」ではこう述べられています。

聖さまは本当のところ後輩の面倒をみるより、誰かに甘える方が向いているのではないだろうか。本人は否定するかもしれないけれど、潜在的に求めている、ようにも見える。

そして、「いとしき歳月」での別れの場面ではこう述べられています。

愛してるよ、祐巳ちゃん。君とじゃれあってるのは本当に幸せだった。

じゃれあう、そして「君」という呼びかけは、性別や上下の区別も無い対等でのどかな関係を示します。いくら祐巳ちゃんになりたいと思ってもそれは佐藤聖には不可能なことでしょう。しかし、そう強烈に思ったのは同じものが根っこのところに確かにあるからだ。それを佐藤聖祐巳を通して実際に体験することができた。そして祐巳へは自立を促し、佐藤聖は自己形成への覚悟を新たにして自分だけの道を開いてゆく。一時の幸せな時間を過ごし、二人の「子供」は離れてゆきます。片方は未だ外から透けるようであり、片方は奥深いところにしっかりと根を張りに。

聖母と幼子の物語 ― 祥子と祐巳

そのような幼子の眼に映るものと言えば、聖母の像でありましょう。人が聖母の投影を受けるのは乃梨子にとっての志摩子、そして祐巳にとっての祥子です。しかも(記憶違いでなければ)それぞれ一度きりですが、しっかりと「マリア様」と書かれていますね。「黄薔薇革命」の最後の一文です。

するとマリア様のようにきれいなお姉さまは、よく響く声で「はい」と振り返って、満足げに笑ったのだった。

祐巳が初めて見て憧れたとき、祥子がオルガンで弾いていたのが「アヴェ・マリア」というのが象徴的です。祥子は祐巳に自分を「お姉さま」と呼ぶように言う。このとき「お姉さま」は聖母の別の名です。それは、女性の持ついろいろな性質のうち最も良いものでしょうか。祥子は祐巳に、自分の中の最も良い部分を呼び覚まして欲しいと請うたのでしょう。何しろ奥深くに隠れていて引き出すのは難しく、小さな声だと「聞こえなーい」ものです。
すると、聖母と幼子の物語は次のようになるのではないでしょうか。
幼子はふと、聖母の姿を目にとめる。その呼び声に応じて振り返った聖母は、時に互いの姿を見失いそうになりながら(「レイニーブルー」)歩み寄り、ついに胸にしっかりと抱き上げることができた。
特別でないただの一日」で祐巳の感じた、自他の境界が判然としなくなるほどの感激は抱き上げられた瞬間の幼子の恍惚そのものです。特別でないという祥子の言葉は恒常性、すなわち「永遠の」母を暗示し、「ありがたい」ものです。
そうすると、どぜう掬いを踊る祐巳を見て祥子が笑っているのを見て蓉子が安心するところは、次のように解することができます。
何かの理由で悲しんでいた聖母が、幼子が遊んでいるところを見て微笑んだ。
実際のところは祥子は祐巳の様子を見てふと心が明るくなって笑ったというところでしょうか。どのように祥子が笑ったのかは具体的に書かれていません。いくら祥子が普段から硬い態度を崩さないとは言っても、祥子が笑っているのを蓉子は初めて見たというわけではないでしょう。すると、祥子は佐藤聖と同じくらいげらげらと笑っているのに気付いて蓉子は祥子は確かに変わってきていると思ったのかも知れません。
こうしてみるとマリみてでは強烈なイメージがきめ細かく、しかし大胆に扱われていると思います。そして福沢祐巳は稀代の「妹」キャラであり、お子様キャラだと思います。

付記

似たモチーフに晴子に「ゴール」するAIR神尾観鈴がいます。しかし、観鈴より祐巳の方がはるかに幸せですね。がお。
[▽続きます]