くりくりまろんのマリみてを読む日々

瞳子と「演劇」を中心に① 祐麒が見た瞳子の素質

月も改まって今日は「妹オーディション」の発刊日。「妹」の字を冠するとはずいぶんとまた直截なと思いつつ、楽しみにしております。土曜が休みで金曜の深夜にじっくり読める、という方は多いのではないでしょうか。

一人の中の対立軸

「『マリア様がみてる』アレンジ日記」さま〔id:asax〕は『イン・ライブラリー』の「のりしろ」の中の一節をさして

「別れた時と同じ場所、同じ姿勢のままで待っていた。」と何だか祐巳ちゃんの言いなり(操り人形みたく・・・)になっている様にも見られる訳です。

という指摘をされています。
「のりしろ」部分での瞳子祐巳のやや上滑り気味の雰囲気と比べて落ち着いていて、自己沈潜とでもいうような考え事をしていたのではないかという印象を受けました。深刻な話に祥子さまがつかまっているのかもという瞳子の連想が暗示的です。そこでこの場面でもそうだったのだろうと思ったのですが、確かに物言わぬ人形をかたどっているようにも読めますね。(このような読み方には気づきませんでした。さすがは瞳子ファンの方です。)
瞳子の描かれ方については少し考えるところがありまして、一人の人間の持つ重層性とか多面性の不思議さということに注力されているように思うのです。確かに祐巳の目から見たときの「分からなさ」というのは祥子と同じようなところもあって、祐巳の視点に立って読者も考えたり感じたりした上で他にもいろいろな見方ができるのでは、という楽しみが提供されています。…未だに祐巳にとって祥子が「宇宙人」の面があるというのは驚きです。それ故に求め方は強くなるのではと思います。
瞳子はこれに加えて、同じところに根ざしたものが別々の表れ方をしているようです。あえて言葉にすれば…

大胆さと慎重さ

チェリーブロッサム」での行動力と「レディ GO!」での玉転がしにみられるような慎重さ。

親しみの感覚と荒涼とした心

外部から入学してきて右も左も分からない乃梨子にかける言葉は温かく優しいです。また、「レイニーブルー」や「パラソルをさして」では祥子や周りの状況に精一杯気を使いながら付き従っていたとも取れます。しかし可南子に対しては酷薄だったり、祐巳に対しても辛辣です。「ジョアナ」では瞳子の冷徹な面が良く出ていますね。

快活さと自己抑制

瞳子祐巳の前に出てくるときは楽しい場面が多いのですが、すっと身を引くこともあります。「子羊たちの休暇」での場面や、「略してOK大作戦(仮)」での帰り際など。私もそれほど暇ではありませんから、と言っているところもあります。

自立心と依存心

祐巳の働きかけをきっかけに現実検討力に満ちた姿を取り戻した瞳子は、自立的でしっかりとしていて、エイミーに譬えられるところでしょう。祐巳の言うことをまるっきり聞いていたとしたら、それはそれでおかしなことになるところです。しかし祐巳にすっかり依存しきったような面もさらりと書かれたのかも知れませんね。

「我が身を捨ててしまう」話

さてそうするとどちらが本当の瞳子に近いのだろうかといった考えも出てきます。しかしその前に、共に「演劇」が重要な題になり、瞳子の立場に立ってみると「ジョアナ」と通低していると思われる「銀杏の中の桜」を見たいと思います。
これは、それぞれの立場での自己犠牲の話というふうにも取れます。最大の自己犠牲を行ったのは志摩子乃梨子です。互いのために身を捨てようとし、そのこと自体によって普通では得られないような大きなもの、友情(または「姉妹愛」)や信仰の純粋性の証を得て不安から開放されています。祥子と令は薔薇様というあまりにも良い位置にいて、自己犠牲というには無理があるかもしれません。ただ、わざわざしなくても済むような努力を義務感にかられてしています。
一方瞳子は堂々と随分危険なことをしています。「演技」がうまいということから本当は相当怖かったのでは、という見方もあるでしょう。また、乃梨子の鞄の中に手を突っ込むという行為も見つかったら断罪されます。「悪いこと」の中に身を投じたとも言えます。止める人はいませんでしたが、場合によっては他ならぬ瞳子自身のために中止することを奨める人がいてもおかしくありません。
では瞳子にとっての動機は何だったのかというと、乃梨子たちへの友情、薔薇様たちのために役立ちたいといった気持ちはあげられます。それが無くては意味がありません。ただそれにも増して強く感じられるのは、自分の気に入った方法なら是非やりとげたいという強い意志なんですね。そのためには自らが犠牲になりかけてもかまわない、といったような。修正は加えられましたが多くは瞳子によるプロデュースです。そのときの瞳子は生き生きとしていたと思います。

荒ぶる幼稚園児 ― 御し難いがエネルギーに満ちた「子供」のイメージ

銀杏の中の桜」や「ジョアナ」で瞳子を動かしている中核的なものや瞳子らしさというのは何かを考えるとき、祐麒瞳子に対する評が手がかりになると思うのです。「真夏の一ページ」で「ボーイミーツガール」の後、帰りがけにバス停で祐麒祐巳が話し合っているところです。

「あの子、可愛いね」
さらりと祐麒が言った。
「可愛い!?」
ああいうのがタイプか? って、祐巳は、驚きとちょっとした抗議を含んだ声をあげて弟を見た。(中略)
「幼稚園児を眺めて『可愛いなぁ』って思うことない?そんな感じに近いかな」(中略)
「…別に、わかってくれなくてもいいや。俺自身も、誰かに説明できるほどはよくわかってしゃべっているわけではないから」

直感的で曖昧なところこそ、何かの真実を示しているのではと思います。
幼稚園児とはまた随分突拍子もないですね。この後祐麒の好みのタイプに話題は変わりますが瞳子はあまり当てはまらず、祐麒は普通の意味での女の子の可愛らしさがあると言っていたのではないことが分かります。また、か弱く大人に頼ることしかできない小さな子供をあやすときに感じる「可愛さ」とも違うようです。祐巳も「ああいうの」と思っています。
幼稚園児というと第一に思い浮かべるのは実際のところ、ピーピーと煩いことです(笑)。天使のように愛らしい面もありますが決してそれだけではない。そして中には大人にとってはどうしようもなく御し難い子供もいます。周囲の大人の対応が悪いためであることもありますが、しかし同時に素質としか言えないような癇の強さに手を焼くということもあるのではないでしょうか。また、わがままでもあります。それは大人の目から見れば悪いこと、困ったことです。しかし当の子供からすれば正当性があるのかもしれません。幼稚園児を穏やかに余裕を持って「眺める」ことのできる立場にいたら、そのような未分化で困った部分もひっくるめた全体を「可愛い」と言えそうです。大人が当たり前のことのように身に付けている自己統制の枠から、どうかすればはみ出してしまいそうなエネルギー祐麒瞳子に感じたのではないでしょうか。

付記

『ほぼプリキュアの決意マックスハート』さまのところで、ポルンをめぐって子供の持つ特質や子供に対する評価について詳しく述べられています。(第一次ポルン戦争)
[▽続きます]