「特別でないただの一日」⑧可南子

イン ライブラリーについて少し

新刊を読みました。書き下ろしの部分も既掲載の部分も話に奥行きがあり、一冊としての構成も面白くて大きな満足感がありました。しかも前巻までのエピソードの意味がまた新しい形で見えてくるようで、読みなおしたくなってきます。マリみての積み重ねによる重量感はすごいですね。
これまで垣間見えていた瞳子の強さのあり方が「若草物語」に仮託して伺えたのもとても良かったです。エイミーに戻らなければという決意の中に、祐巳のやさしさをも受け入れるのを拒絶する、寄る辺のないさびしさもあるようです。なぜ瞳子はそこまで依存関係を頑なに拒絶しなければならないのか、考えさせられます。
変わりました、と瞳子に言われた可南子についてもう少し述べてみたいと思います。
スール制度には、「姉妹」の間の一対一の対象関係を濃厚にし、その関係を通しての人間形成を促進する坩堝、または枠付けとしての面があると思います。そしてマリみて全体をみると制度の枠付けを超えた人格形成のダイナミズムに対する視線が感じられることがあり、佐藤聖の辿った適応化の道に、現在の登場人物の過去に遡ったエピソードに、念の入った祥子の性格描写に反映されています。今どのような状態にあるかのみでなく、どのように人は変化してゆくのかという力動性が大胆に描かれていますね。単純化しすぎるのをおそれつつ、可南子を支える対象関係は何だったのかという点から述べてみたいと思います。

可南子にとっての夕子の存在

夕子は可南子にとって、二つの側面を同時に持つ対象であったと思います。
・一つは、尊敬できて自分より少し強くて生きる方向性を与えてくれるような理想化の対象です。物事をどんなふうに頑張って良いか分からないときにそばにいて励ましてくれるといった相互関係があれば、よりしっかりと自分を保ち、成長させることができます。可南子が部活を良く頑張っていたらしいのは、父親の存在に加え、夕子から励ましを受け、夕子を目標とすることができたのが大きかったのでしょう。そして、こんなことも言えると思います。理想化の対象は、少なくとも人生の一時期は同性の親など身近な親族がなることが多いです(この点は十人十色で限定できるものではありませんが)。しかしアンビバレントな心性を持たざるを得なかった可南子にとって父親も母親も安心して十全な理想化ができる対象では到底なく、理想像との交流は夕子が初めてだったのではないでしょうか。この点、可南子には今までいなかった理想の母親像を夕子が体現していたのでは、とも思います。
現実の母親との関係では、緊張感が取り去れない状況がずっと続いていたようです。お酒に逃げていると認識し、同時に母親への気遣いも見せています。ここでは、必ずしも可南子が酷い扱いを受けていたなどということは言いきれないと思います。ただ、可南子と母親は関係が薄かった、あるいはあまり真っ直ぐに向き合うことは無かったのではないか、それは人生の随分早期からだったのではないかという推測はできると考えます。また父親もこのような状況を良く知りながら、どうしようもなく別居に至ったのではないでしょうか。
夕子は可南子にとって、安心できる存在であったということに大きな意味があったのかも知れません。現実レベルで想像できるのは、等身大で普通の、しかし良き先輩・後輩の付き合いです。
・もう一つは、双子の鏡像とも言うべき、自分と同類の対象です。同じような状況にある人が身近にいたら、自分のやっていることや存在はおかしくないのだと確信でき、支えとなります。理想化の対象と比べるとあまり緊張感は無いものですが、普通は友人関係の中に良く表れるものです。可南子と夕子は父親がもう遠くにいることが共通しており、分かり合える部分も大きかったのでしょう。
これまで描かれてきた可南子は頑なで取っ付きの悪いイメージがありますが、それは甘えることをあまり知らない、あるいはことさらに自制した態度のように取れます。両親の争いを可南子は冷静に見ています。
長じて、可南子は夕子に出会うことで足りなかった対象を得ます。しかし男性に対する不信を抱いていることが夕子を近く感じる理由の一つになっていたとすれば、すでに思い違いのきっかけはできていたと言えるのでしょう。

可南子の失ったもの

一気に可南子の口から語られた経緯ですが、可南子が実に多くのものを失っているのが分かります。別居していたという父親は、離婚と結婚という形でますます遠くに行ってしまいます。良いイメージと悪いイメージが同居していたと思われる父親像は、夕子を可南子から奪ったという点、可南子の母親を傷つける点で悪いイメージが圧倒的に優位になります。夕子はもはや可南子の理想化の対象、導き手であることはできず、同類の鏡像であることも不可解さを含みつつやめることになります。
父親だけでなく、夕子を見る目までもが冷ややかであったのが印象的です。夕子にも棄てられたと感ぜらるを得ないとすれば、その点で憎悪の対象になってしまいます。夕子から逃げていたというのはそのことに耐えられなかったからなのでしょう。
涼風さつさつ」の中で示された祐巳に対する偏った像は、祐巳の実際の姿とは掛け離れていました。きっかけは「薔薇様(の妹)」の名前、雰囲気が夕子と似ていたことですが、祐巳だけでなく、夕子の現実の姿やさらには可南子が夕子はこうであって欲しいと望む姿ですらなかったと思います。祐巳は薔薇様の妹であり、夕子とは違うので夕子を慕うように祐巳を慕ったわけではないと思います。この時点ではすでに、(思い込みの上の)祐巳と夕子は違うものとして認識されていたと思います。しかし、変化から守らねばならないという強迫的な不安は、雰囲気が夕子に似ているということで祐巳に対して抱いたものです。(この点、可南子ならずとも祐巳はある種の危なっかしさを感じさせる人物であることは、想像しやすいですね。)
最初に祐巳を見かけたときの可南子の驚きはどんなものだったのかとも思いますが、随分前に祐巳の容姿くらいは知っていた可能性があり、実際に祐巳の前に現れるまでには時間の開きがあるのかも知れません。「雰囲気が似ている」というからには、遠目でなくて随分近くで人となりを見ていたと思うのですが、祐巳に実際に近づこうとしたきっかけ、動機は何だったのか。その点は意図的に書かれていないようです。
偏った像は、理想化する対象との交流がこれまで可南子にはとても希薄で現実的な検証をすることがほとんど無かったこと、それができる夕子もやっと現れたあと十分な時間を過ごさないままいなくなってしまったこと、そして強い喪失感の反動が原因だったのではと思います。地に足のついた頼れるもの、目標とすべき対象を失ったときは、絶対的な存在に帰依したくなります。
登場時の可南子が不自然なまでにキラキラと輝いているのが悲痛なところです。そのときの可南子の状況では到底キラキラとしていられるものではないのですが、たとえ偏ったものであっても理想化の対象に向き合っている限り、活力を与えられて自らも円満な状態になれるものなのですね。ここでは、ギブアンドテイクの無い関係など存在するのだろうか、という祐巳の懸念通り、一方通行の関係になっているのが特徴です。
思えば「薔薇様」という通り名は、遠目から見た場合のみ美を希求しつつある憧れの対象をあらわすのにふさわしいものです。しかし当の薔薇様や「妹」からするとそのあまりに誇大な意味合いに、違和感やしがらみを感じざるを得ないものであることが多かったと思います。

演劇の準備のときの抵抗

可南子は、アリスについておかまのくせにと貶し、男役と女役の「とりかえ」によってやることになった大納言の「私は何て幸せ者なんだ」というセリフに抵抗を示します。両性の気持ちが分かるであろう者に対する抵抗、子供を持つことになった父親への反発が伺われます。これは少し穿って考えると、可南子自身の存在にも関わることであり随分深刻なところでもあります。
他所で、しかも夕子を相手に子供を持つ父親への反発に加え「子供を持つことに対する喜び」自体が分からないとなると、他ならぬ父親から生まれた可南子自身が望まれていない子、ということになります。もしかすると可南子の苦痛の根底には自らの「生まれて在ること」に対する微かな疑念も含んでいたのかもしれません。可南子には何の罪もなくとも、何らかの意味で両親のそれぞれの人生にとって邪魔な存在ではないか。それは明言されるようなことはなくとも、懐疑の種になりえたことなのかもしれません。
[▽この項続きます]