「マリア様がみてる」にみる鏡像関係

新刊「イン ライブラリー」が早くも出るそうですね。楽しみです。しかも半分以上書き下ろしとのこと。ライトノベルというと延々と次巻が出ないのが珍しくないようですが、それと比べると幸せです。
今日は細川可南子についての続きとして関連性が強い話なのですが、脇道に逸れる点も多いので項を改めました。
マリみては実に数多くの人物が登場します。祐巳・祥子を軸にしながらもそれと綾をなすように他の人物のエピソードが積み重ねられ、青春群像小説と言える面が強いです。しかし、青春だけが描かれているわけではありません。幼い頃の情景や老人まで登場するに至っては、リリアンでの祐巳たちの生活が長大な人生の時間の中の1コマにすぎず、しかしそれ故にかけがえのないものでもあることを思い知らされます。時に現れる大人たちは、一見閉じられた狭い空間のように見える学園を風通しよく、一層色濃い場所にしていると思います。
それでは多数の人物の相互関係の中で特にマリみてに良く現れるものはないだろうか、と考えたときに目立つのが「鏡像関係」です。
大げさに過ぎる言葉かもしれないですけれども、ここではあまり厳密な意味では用いていません。ある人物の特徴の一部を他の人物が備えていること、そのことによって相互に影響を及ぼし合うことです。あるいは、特定の人物の身代わりとなって少し違う生き方が別にされることです。
あまり無理でない程度の分け方をしつつ、例を挙げていきたいと思います。

Ⅰ.別々の時間、場所にいる場合・強いメッセージ性

基本的には、別々の時間や場所にいるために祐巳たちとは少ししか接触しません。身代わりとして別の場面で異なる形で活躍をするために作品の世界が立体的になっていると思います。名前などの類似性によりそのことが暗に示されており、読者に対するメッセージとも言えます。

福沢祐巳鵜沢美冬

「あとがき」で名前の類似性と同時に、違うことをも示されています。文字についての凝った仕組みは説明をされなければなかなか分からないことでもあり、「あとがき」で本編を補っているのだと言えるのではないでしょうか。

佐藤聖久保栞、春日せい子と上村佐織

須加星のペンネームで過去の体験を小説に書いた春日せい子の物語は、佐藤聖久保栞と別れたときよりはるか昔のことでした。しかし、(佐藤聖にとって)良いと思える将来を暗示する形で別れた者に会いに来ます。
少し以前の記事で恐縮ですけれども、蒼い風の眠る場所-はてなダイアリー出張版-の三月剣さまがこんな面白い推理をされています。僕には判断は付きかねますが、あり得ないとは言い切れませんねぇ。

「須加星」は「春日せい子」から「かこ→過去」を取って「須加星」。
 つまり、須加星とは春日せい子が過去を乗り越えたということを暗示していたのだろうかと邪推してみた。

祥子と祐巳、彩子と弓子

名前の類似性は、喧嘩別れをしたまま別々の人生を歩み、長い時間を経た場合の祥子と祐巳の姿を彷彿とさせます。「パラソルをさして」では弓子は祐巳を励まします。抽象的には、年老いた、すなわち成熟し切って大きな知恵を持つに至った祐巳自身が発展途上の真っ只中にある若い祐巳を励ます図です。それ故に弓子の言葉は説得力があるのだとも言えるのでしょう。

Ⅱ.似た部分から始まる・共感と理解のための手がかり

類似する心理的布置があることを互いに知り、そこから話が発展してゆく場合です。

佐藤聖志摩子

片手だけつないで」で描かれる、聖と志摩子の出会い。このときは志摩子の孤独の本体は明らかにされていませんが、それは聖にとって正視できない、自らの鏡像でした。しかしだからこそ聖は、志摩子の唯一の導き手としての覚悟を決めたのだと言えます。以後曲折を経て「チャオ ソレッラ!」では、聖が姿を現さないないことこそが思いやりなのだと志摩子が言えるところまで純化されていきます。

乃梨子志摩子

リリアンの学園生活からは程遠い独自の趣味を持つ乃梨子は、悩みというよりは少々拗ねた態度で登場します。しかしそれ故に志摩子の良き理解者となるきっかけを得たのでした。

祐巳祐麒

少し特異で、面白いのが祐巳祐麒です。顔が似ていて年も僅かしか違わないというのが微妙な雰囲気を出しています。祐巳祐麒の成長振りに刺激され、一方祐麒は柏木氏からシスコン呼ばわりされるなど(笑)好対照であり、良きライバルとして描かれています。祐麒は生徒会長としては強権を揮うのではなくどちらかというと周囲から持ち上げられるタイプのようで、祐巳と似ていますね。もともと姉弟であって今更互いを良く知る必要はないのかも知れません。それぞれの学園で苦労していて、互いに共感するところも多いのではと思わされます。
ただ、祐麒が出てくるときは祐巳をどう捉えているか、そのときどきで違ってきているのではとも思います。「レイニーブルー」など、祐麒祐巳に対するツッコミ役であり、祐巳が良く見えている人物です。

祥子と可南子

可南子の哀しみを最も良く知ることができたのは、祥子であったかもしれません。

Ⅲ.鏡像関係に代わるもの・《無印》から

さて最後に、《無印》での祐巳と祥子に触れてみたいと思います。
登場時の二人はその対照性、祐巳から見た場合の祥子への遠さが強調されており、もとから似た部分が全くないものとして描かれています。ここには祐巳の一方的な憧れはあっても、通じ合うものはありません。それではどこに、共感や理解のための手がかりを求めるのか。
それは『(具体的な詳細は違っても)似たような状況に身を置き、似たような体験を持つ』ことによって可能となるのだということができます。それが《無印》での最も基本的な構造、モチーフなのだと思います。
・内実の伴わない婚約を強制される。
・一方的にロザリオをかけられそうになる。
という二つの状況はパラレルに配置され、祥子が逃げる理由を温室で聞いた祐巳はたちどころに本意を理解して「賭け」は無効化します。
祐巳にとってその状況は、他ならぬ祥子によってもたらされたものであるところが随分酷であるとは言えますが。
では祥子の方は祐巳の気持ちをどのように理解したのかというのは祥子の側からは描かれていないだけに興味が沸いてきます。この点をマリみてTTのワトソンさまが04/11/07付のコラム『無印』での祥子さまの気持ちで取り上げられています。

温室で、祥子さまは祐巳に「ロザリオを下さい」と言われるが、断る。
祥子さまは、このときになって初めて「薔薇の館で祐巳に断られた理由」を悟ったのだと思います。
このときの祐巳からの申し出「ロザリオを下さい」は、100%祥子さまを想っての言葉(祐巳にとっては損ばかり)であることを、祥子さまは理解しましたが、同時に「スールになりたいという気持ちから出た言葉ではない」ことにも気付いてしまいます。そして、そこから自分が「薔薇の館で祐巳に対して『柏木さんが祥子さまにしたこと』と同じことをしてしまっていたこと」に気付きます。

と推測されています。

負の要因があればこそ

Ⅱ・Ⅲからは、辛い事柄や深い事柄については理解や共感というのはなかなか生易しいものではないことが示されていると思います。簡単に全てを了解できるほど、人は完璧にできていません。「相手の立場に立って物事を考えなさい」といった警句は誰でも聞いたことのあるものですが、それはなかなか難しいものです。しかしどちらかというと負の要因とも言える手がかりがあるおかげで、それをきっかけとして以後の物語が進展していきます。負の要因によって端緒が描かれ、次いで以降の進展の様子がじっくりと描かれるのがマリみての骨子なのかもしれません。
(…ところで、祐巳と「妹」については何が手がかりとなるのか、その部分がまだ全く分かりませんね。いや、薄められているだけで実はすでに描かれているのだという方もいるかもしれませんが。誰がなってもおかしくないような状況なのはそのためなのでしょう。)
そして「特別でないただの一日」でも可南子と夕子との間にここにいう鏡像関係が今までとは多少異なった形で作用し、意味のあるものだったのではないかと思うのです。[▽この項終わりです]