くりくりまろんのマリみてを読む日々

山百合会の変節

Transparencyの透-架さまが、10月27日(水)の記事で、《マリみてにおける読者視点を中心とした質の変化》と題して、「ちょっとした小言」を述べられています。

ふと思ったんですけど、小説を読んでいて気が付いたんですが、蓉子、聖、江利子が卒業する前後で
読者の目線というか見る立場って言うのか、うまく言えないんですけど変わりませんか?
私の場合なんですけど、先代薔薇様がいる時は憧れの目で小説読んでました。パーフェクトな薔薇様方に惚れ惚れ。

確かにそう思います。そして、パーフェクトなんだけれども実はそれぞれの葛藤があって、ということでまた惚れ惚れする仕組みになっていますね。それは祐巳たちの視点と同じであって、先を行く理想の姿があるからこそ祐巳たちの状況もより鮮明になるということだったと思います。そして祐巳には普通なんだけれども誰もできなかったことができる、あるいは今までの山百合会のメンバーではできない方法で目的を達するという面白さがありました。
今スポットが当たっている瞳子や可南子にしても分類するとすれば普通の生徒です。そこで先代薔薇様とは逆に、初めから弱点の多そうな登場の仕方をしているからむしろこれから輝き出す、ということが考えられます。少々突拍子も無いのですが、瞳子が学園祭でやっていた若草物語のエイミーというのは、将来大成する人です。しかし、これがまた今のところは想像しづらいのも「小言」の原因になるのではないかと思います。
ただ思うのが、そもそも薔薇様設定というのは巧妙に放棄されつつあるのではということです。最近は祥子さまも令さまも校内に威風をとどろかすことはあまり無いようです。「レディ、GO!」で怒りに震える祥子さまというのも少し戯画化していて、むしろ祐巳とセットになって親しまれているのでは、というところがあります。穿ったようなことを言えば、祐巳たちにとって薔薇様という外側にあって美しい理想は必要なくなり、より内在化され、それ故に少し地味な理想の追求という作業をしていることの現れとも取れます。先代薔薇様のようにはなりようもないし、またなる必要もない、ということなのでしょうか。
そのかわり「特別でないただの一日」に見られるような山百合会での内々での楽しさというのは増しているので、読者もそこに入り込む気分になって楽しめますね。

付記・「薔薇様」について

とあるサイトさま(すみません失念しました)で「部活での三年生の中に、技量も何もかも優れていて、到底かなわないと思う人がいた。自分が三年生になったときも近づけたとは思えなかった。薔薇様というのはこんな感覚ではないだろうか。」という趣旨の感想がありまして、なるほどと思いました。