「特別でないただの一日」⑤瞳子

演劇部の方を断ってまた復帰する一幕・無自覚の面白さ

ここで一貫してみられる瞳子祐巳の様子は深化せず表層に流れているように見えながらも、しかし確かに、依存とこれと対となる非依存・独立をめぐるやりとりであったと思います。とうとう祐巳も下級生に対してそのような文脈で語り得る関係性を生じてきているのか、と思わされます。
深化していないように見える理由は双方にあります。
瞳子祐巳に懸命に演劇部での出来事を訴えながらも、私ったら何でこんな話を祐巳さまに、などと一瞬迷い、その動機を認識していません。自らの祐巳に対する受け入れられたい気持ち、甘えたい気持ちが少しはありながら、同時にその気持ちには決定的に無自覚であることを示しているように思われます。(仮にその気持ちは祐巳に対する「好意」に発するものであるとしても特に問題ないと思います。)しかし少なくとも瞳子には状況を説明する口の達者さや行動力はあり、事態は解決していきます。
・また、祐巳瞳子が無自覚な状態であることが分かっていません。しかも注意のほとんどが劇をめぐっての楽しさに集中しており、あとはかくあるべしという価値判断があるだけのように見えます。しかも乃梨子に対しては私は何もしていない、と言うなどそこに働いた機微を認識していません。祐巳は自覚のないままに直感的に動き、結果的に相手の気持ちを良く汲むことになることがあります。可南子に対しては細かく観察していたのに実際に自らが動いた瞳子に対してはあまり意識化されていません。しかし、何か「してあげる」という意味合いを含んだ途端に嫌味くさくなる場面でもあり、ピョンコピョンコ飛び跳ねて喜んでばかりいるというのは、祐巳の良さなのかも知れませんね。

やはり両立すべきだったと思う

とうとう爆発して演劇部の役の方を降板してしまった瞳子の主張は、多分に正当なものだったのでしょう。演技が確かに上手いという瞳子もなかなか大変と思います。
疎外感をもたせてはならないというのは可南子に対してだけでなく瞳子に対してもあてはまることだったと思います。自ら志願して来たからといって山百合会の方から拒絶して良いことにはならず、むしろそれだからこそ受け入れるべきでした。瞳子が祥子にも不信を抱いているように見えたのは受容されているようには感じなかったからなのでしょう。由乃に至っては自分で考えて自分で落とし前を付けるのが筋、と言っていますが立場が逆だったら瞳子の言いそうなことでもあります。正規の部の方を優先すべきというのはもっともなことながら、それでは瞳子の気持ちを無視することにつながります。それを祐巳は受け止め、両立させることを提案するのは至当です。
祐巳に話しているうちに考えがまとまってきて、喧嘩の相手側の事情も見えてくるようになったというところが面白いです。頭に血が上っているところに、話せる相手を見つけて自ら何かの気づきを得ていく。受容の良き形の一つと言えるでしょう。
ただ、家に練習にくれば良い、演劇部までついていって上げるというのは些か過剰な保護者的な働きかけであって瞳子にはそう簡単に受け入れられないというのは頷けるところです。しかし、苦笑して祐巳に頭を下げる瞳子には、少し感謝の念があったに違いありません。
なぜ乃梨子祐巳に相談をもちかけたのか、瞳子は一方では祐巳の過剰な提案を拒絶しながらも演劇部へは自ら頭を下げにいくという現実的な結果に至ったのかを考えると、祐巳は随分保護者的な働きをしていたのだと思わされます。祐巳が可南子を招きそれに瞳子が付いてきたのだからと、祐巳自身は一応の答えは見つけているのですがそれだけではないであろう、と思われるところです。
ここでの祐巳瞳子のやりとりは、頼りたい気持ちを受容しながら世話を焼き、しかもその一部は拒絶されるということになっています。特に拒絶するあたりはどこか令と由乃の間に時々起きることに似ていて「姉妹」関係の萌芽のようにも見えます。
依存したりされたり、世話を焼いたりそれを拒絶したりというのは素朴ながら基本的な「姉妹」間のやりとりです。その文脈の中で祐巳瞳子を受容することができており、「姉」としての役割を身に付けつつあるのだと言えます。それには今の祐巳の状態を考えてみる必要があります。

マリみてで描かれる依存関係・「甘え」の受容力と佐藤聖

ここで、佐藤聖について述べたいと思います。依存関係に関し、マリみての中で幅広く描かれているのは佐藤聖です。かつては孤高で今は飄々としているように見える聖こそが最も述べるに相応しいというのは意外性に満ちていて、感動的ですらあります。
・あなたの顔が好き、という言葉を手がかりにし、あるいは隠れ蓑にして「妹」となる。
・「白き花びら」で深い痛手を受けながら、周りの支えやお姉さまの介入や忠告があって立ち直ってゆく。
このときまでは、聖は自分から「妹」にしてもらったわけではないなどと斜に構え、素直に自ら「姉」に頼るということは到底できないことでした。しかし後に、ありったけの愛情を注いでくれたのだと祐巳に述懐しています。もういなくなったときにそのような思いを述べるところが切ないところですが、聖にとって、保護者として甘えて良い存在としての「姉」が確かにいたことが分かります。
祐巳登場。祥子が甘えづらい対象であったことに多少の不幸があった祐巳を、祥子に成り代るように、あるいは補うようにして可愛がる。
・卒業に際して一旦祐巳に別れを告げ、自らの中の祐巳を可愛がった理由の一端が表白される。
・「レイニーブルー」では祐巳の窮地を救い、無条件に頼ることのできる存在となる。
・そして最後の締めくくりが、奥行きの深いものと思います。濡れ鼠になった祐巳を暖める聖と加東景の関係を観察しながらの、

聖さまは本当のところ後輩の面倒をみるより、誰かに甘える方が向いているのではないだろうか。本人は否定するかもしれないけれど、潜在的に求めている、ようにも見える。

という祐巳の目から見た推察が述べられています。なお二回目の訪問のときに、聖さまに甘えているのは居心地良いけれどもいつもそうであってはならない、とするところが祐巳の成長力の一部と言えるのではないかと思います。居心地の良さを十分知ることと、その上でそこに安住していてはならないという緊張を失わない姿勢の両方が必要なのでしょう。
これらの聖の話からは、次の三つのことが言えると思います。
・他者から与えられた経験があるから、今度は自らが他者にしてあげられる。そしておそらく、してもらった経験のないことを他者にするのは困難である。聖も祐巳に出会って突然目覚めたのでしょうが、やはり以前のお姉さまの存在は大きいのでしょう。
・聖は自らの中に甘えたい欲求を持つからこそ、祐巳の甘えを良く理解し、十分に受け止めることができたのではないだろうか。
・守られたい欲求と守りたい欲求は根が同一のものであり、どちらが強く出るかの差に過ぎないのかも知れない。
ここで祐巳に注目すると、今は祥子に対しても存分に甘えることができています。祥子もそれを受け止めることができます。放恣とも言える形で祥子にしがみついて泣きじゃくる終盤での姿からは、依存し浸り切ることの甘美な心地良さが良く伝わってきます。ここに至るまで随分な道のりがあり、一つの到達点とも言えるのでしょう。

依存関係の必要性、または可能性

すると、今の状態では祥子と祐巳は固着したままで身動き取れないことになるのではないかとの心配も出てきます。
しかし上記の点から次のことも言えると思います。
祐巳は既に十分に甘えを満たされており、今度は甘えを受容する側に立つことができるのではないだろうか。
祐巳には守られたい欲求が自らの中にあることを知っており、他者の同じ欲求も良く理解することができるだろう。
・その働きを通して、祥子との関わり方も更に変容していくかも知れない。
このようにして関係性が紡がれてゆく場合もあるのではないでしょうか。(それは主に「姉妹」の間で生じるものですが、聖と祐巳にみられるように、必ずしもそれに限定されないものなのかも知れません。)祥子の「妹をつくりなさい」という言葉は、今の祐巳にすでにその力があることを告げるものであったと思います。
祐巳の現在持つ強さや明るさ、そして瞳子の言う「無防備さ」は、甘えることが必要だったときに十分甘えることができ受容された者が持つもののように思われます。だから意識化されていないながらも瞳子の困難を良く理解し、受け止めることができたのではないのでしょうか。
(この点乃梨子は、事情はどうあれ家を飛び出して遠縁のおばさんのところに身を寄せながら特に寂しさなどは感じていない模様であり、最初から依存や甘えといった関係を必要としていないように見えるところがユニークです。志摩子との関わりでも適切な距離を先に見出したのは乃梨子であり、引用させていただいたエントリで《乃梨子なんかの場合は、むしろ山百合会の中では例外的なまでに「ほんとうに強い子」という面はある》とされている理由の一つだと思います。)
そしておそらく、瞳子祐巳のそんなところがとても好きであり、同時にとても嫌いなのではないでしょうか。数珠リオの話で瞳子の作ったものとそうでないものとどちらを取っても怒るというのは、「ツンデレ」でいうところの「ツンツン」しか表れていないように見え、何か微笑ましいところです。相矛盾する気持ちは同じ部分に根ざし、どちらも否定しえないということがあるのではないかと思います。

フランクフルトをおごる一幕

黄薔薇革命」で祥子との間にあった場面を彷彿とさせます。しかしおごっていただく理由がないと言う瞳子に対して、最も適切な「理由」を祐巳が思い出せないうちに花寺のメンバーに割り込まれます。肝心なことを忘れる祐巳というのは良く出てきますが、起承転結の「結」の無い落ち着かなさ、クライマックスの無いまま立ち消える夢のような中途半端さがあってもどかしい限りです。「姉」へと変容しつつありながら、まだまだ至らない祐巳の状況を表しているようです。

瞳子祐巳のこれから

二人がこれからどうなるかはまだ分かりません。瞳子祐巳に対する相矛盾した気持ちをどう整理するのかが重要な点であり、それは以後描かれる可能性が高いと思います。それはどちらの気持ちを優先するかといったものではなく、共に尊重されなければならないものなのでしょう。瞳子祐巳の手をギュッと握り返したという場面に象徴されるような、互いに頼り頼られるといった濃密な「お互いがお互いを知ってるがゆえに依存」する関係になるのかも知れません。また、祐巳に対して批判的な目を持ち、鋭敏な瞳子だからこそ祐巳の真の良き理解者となる可能性もあり、過度に依存しあわない形での「お互いに自立しながら助け合える」関係が早く築けるのかも知れません。マリみてでは良い関係を追求しながらも、同時にそれは人それぞれであるという多様性をも主張しているようです。
ところで「特別でないただの一日」は可南子と瞳子が中心でしたが、二人の間がどうなっているのかは描かれていません。相当な変化があると思うのですが、それも楽しみですね。瞳子についてはひとまず終了です。