第十一話・第十二話①

祐巳の心象の変化を表すのに雨にまつわる題材が用いられています。情緒はイメージと不可分であることを考えると、イメージを担う題材の選択は、極めて重要なことです。
まず、作品全体で強調されている「雨」ですが、これはイメージというよりもより身体感覚に近いものです。感情の表白はもはや言葉のみに留まらず、より直截な身体感覚として伝わってきます。祐巳が祥子との関係に疑念を持ち出した時、古典の授業で出てくる紫陽花は「心変わり」「移り気」を象徴し、祐巳にとっては不安感そのものの表われでした。
ふとした折に無くした傘というのは、身体感覚や生活感と密接な関わりを持ちます。金銭的な価値はさほど無いのとは対照的に、いざというときに無ければ濡れなければならず大変困るものであることは誰もが知っています。そして、色が青であるというのは秀逸だと思います。例えば赤い傘であると女の子の持ち物であるという感じが出ますが、同時に普通の生活感からは離れません。色彩の持つ象徴性はいろいろに解せますが、ここでは神秘的で簡単には了解不可能な「心」の寓意、あるいは祐巳にとっての祥子がそうであったように、「夢・希望」の象徴と取ることもできます。意味合いが昇華されており、「青い傘」に仮託された祐巳の喪失感が伝わってくるところです。
[▽つづきはまた明日]


【付記】
小説ではどのようにして感情を追体験できるようにされているかということについては、その文体に拠るところも大きいと思います。The World's End and Net Life's Wonderlandさまのところで
『マリア様がみてる』シリーズにおける視点位置の考察への試みと題して論じられています。

注意すべきは、例え祐巳視点の三人称的名称で書かれている章であっても、視点は首尾一貫しておらず、同一場面においても移動が行われており、地の文の記述においても、視点人物に対する距離の相違が存在する。

ここで述べられている一人称的記述と三人称的記述の混交は祐巳が中心となる話で頻繁に用いられており、「レイニーブルー」でも顕著です。

雨が降る。
雨が降る。
こんなはずじゃなかったのに。
祐巳は雨と一緒に泣きつづけた。

そして文体という点についてはこの「レイニーブルー」終盤に見られるように、リズム感があってすっと素直に読めるものになっています。特にストーリー展開上のクライマックス(見せ場)のところでは、相当意図されていると思います。《無印》の終盤でもそうです。
五七調というと言い過ぎなのですが、講談調の文体とも比すべき、朗読に向いていそうだと思われる文体上の工夫がされています。これもまた、読者と作品との距離感を縮めることになっているのではないでしょうか。

■次回予告 Transparencyさま制作