くりくりまろんのマリみてを読む日々

祐巳さんは少し張り切り過ぎではないでしょうか

殿下執務室さまが祐巳さんの友達関係が薄く見える件についてで興味深い題について論じられています。チェリーブロッサムに思う―乃梨子・祐巳・リリアンは、トラバありがとうございました。
端的に割り切って考え、祐巳はもともと万事においてスローペースでぼけっとしており、今まで親友らしい親友も作らなければ部活にも参加していなかったのはありのままの姿だったのだとするのも良いかもしれません。笙子から見た祐巳が弱々しく見えたというのはその時の事情は差し引いても、それまでのあまり変わらない普段の祐巳の雰囲気だったのでしょう。現実を自ら動かすような覇気は無かったと思われます。学業については宿題を忘れることがないなど、勤勉な「よい子」として適応していたという下地があります。それが祥子さまに見出されてエネルギーを振り絞ることになり、その様子が作品全体の見所として示されることになると。
ただし高校一年といえばもう、移ろいやすく不安定な時期です。想像の域を全く出ていないのですが、さまざまな得体の知れない衝動の突き上げがある中、今までの生活振りが大きく変わっていく可能性が祐巳にもあったと思われます。そこで、「人格の再編成が行われようとする時期と現実での事件・出会いが符合した」という説を唱えたいと思います(半分本気)。高校というのが、単に物語の上で学園という舞台を提供するにとどまらず、それぞれの登場人物にとって変革のときとしての意味合いがあることを強調したいところです。「マリア様がみてる」シリーズ全体を通して活躍している佐藤聖も、著しい変遷を遂げています。内的要因と外的要因とは、はっきり分けて考えることはできません。環境が先か素質・生まれつきが先か、大分古くから問われているような問題ですが、さまざまなエピソードがあり、今のありかたができてくるのだということが示されていると思います。
祐巳は祥子という、何者にも変え難い対象を得てそのエネルギーを発揮していきますが、他の「姉妹」よりも目標が高い分だけ、祥子が祐巳に与える負荷や牽引力は強く、物語を作ることになります。一方、祐巳は内省的な割にはかなり積極的な面があるという印象を《無印》のときから受けます。これはもともと隠れていた素質が表に出てきたのだと解することもできます。

結構祐巳というキャラクターは「恋愛至上主義」みたいなところが強くて、常にそれが行動基準として一貫している辺りで、彼女の人間味が出ているというのが、祐巳の親しみやすさというものの要因になっていると思っている。

と述べられていますが、まさにその通りだと思います。特に「子羊」以降、祐巳はそれぞれの物語のテーマと密着した理想を語っていますが、少なくとも祐巳の頭の中では祥子さまの期待に背かないようとの一心で頑張り、あるいはその支えがあるから頑張ることができるのだという面が強調されており、嫌味くささを減じています。ただし、やはり「急激に成長しすぎ」というところに落ち着かなさを感じざるを得ないかもしれません。これは祐巳の人物造形に関わるというより、物語のテーマの多くを祐巳に背負い込ませ過ぎた結果、祐巳が張り切らざるを得なくなったことによるのではないかと思います。
乃梨子志摩子のために張り切る、というのも考えられますが、「驚異的に成功した後付け設定」と述べられている通り、後から出てきた祐巳の方が活躍の場が広いのでしょう。特に、祐巳の成長を読者が見守るという視点ができているのは極めて祐巳にとって有利と言えます。とは言っても《無印》でそのようなスタイルがすぐにできたとするのは早計かもしれません。
祐巳がなぜ皆に愛されるのか、鵜沢美冬に無くて祐巳にある“K”とは何かということについては、「気性のまっすぐさ」「気立ての良さ」が祐巳の凛質であり、さらに付け加えると芯のところにしっかりした「気骨」があるのかも知れず、これが表に出る機会を得たのだ、と一通りは並べて言うことができると思います。でも物語全体のダイナミズムに関わることなので、もう少し深く考える必要がありますが。
ところで山百合会の活動で忙しいがために、祐巳が級友たちとは疎遠であるということになっていますが、そもそも山百合会の校内での位置付けや活動自体がよく描かれておらず、その忙しさがよく伝わっていないのでは、という疑問が最初に出てきます。蓉子様の「人生最良の日」では開かれた生徒会が悲願であったことが示されます。しかし、薔薇の館が離れたところにあり、薔薇様が生徒にとって遠い存在であるということ以外は、その前に、どう「閉じられている」のかが今ひとつ分からない気がします。この話は、それまで一般生徒との関わりをあまり描いてこなかったことへの一種の罪滅ぼしなのでしょうか。薔薇の館では紅茶を飲んでばかりいてあまり仕事をしている風には見えないと疑問を抱く読者もいるようです。生徒会であるからには他の諸団体との関わりがあるはずなのですが、利害の衝突を整理する働きなどはしていないのだろうか。隣の花寺高校では随分強権的な生徒会のようです。リリアンではどちらかというと事務方に徹するタイプと思われますが。
山百合会に関しては、殊に先代の薔薇さまが卒業してしまって三薔薇制への興味が薄れてからはもはや祐巳を含む「仲間」としての意義が中心となっています。そして、義務や責任はほぼスールとしての義務や責任に吸収されて語られており、薔薇さまとしての責任は背景の一つに退いていると思います。スールの関係ばかりだと平板ですが、それを連ねて「仲間」にすると、話が随分立体的になります。そうすると、ますます祐巳山百合会とは関係の無い他の友人というのは出て来ようがなくなりそうです。
仮に祐巳薔薇さまになったときはどうなるのか。あまり薔薇さまとしての特徴は出ないことが考えられますが、それだけに祐巳さんにはさらに張り切ってもらって、そこまで描かれると楽しいなぁと思います。