くりくりまろんのマリみてを読む日々

第九話「ロザリオの滴」

雨に濡れそぼり、苦悩する志摩子。そしてそれを追いかけてきて志摩子に優しく、かつ力強く語りかける乃梨子の情景はマリみての話全体の中でも白眉の叙情性を誇り、映像化されて良かったなぁと思います。
志摩子は、極めて強い自己抑制を行う人としてこれまで描かれており、そこからの敷衍、あるいは対置が第八話では重要になっています。
小説では「銀杏の中の桜」で、乃梨子は最初からたちどころに志摩子にマリア像のイメージを投影し、次いで志摩子リリアンに入った経緯を聞いて思う部分があります。

情熱や強さの問題ではないんじゃないか、と乃梨子は思った。ただ、この人は真面目で孝行者なだけなのだ。親に迷惑がかからないようにと勘当を望み、説得されれば折れて従う。優柔不断なわけではない。志摩子さんのそれは、やさしさの表れであるように思われた。

抑えた筆致の中に志摩子の哀しみが既にうっすらと感じられるような文ですが、やさしさと解するところに乃梨子のやさしさも表れていると言えます。そしておそらく、志摩子乃梨子からマリア像の投影を受けるだけの根拠や、乃梨子志摩子の魅力に感じる部分も幾分かは示されているのでしょう。
聖女のようなやさしさを持ちながら、感情の細やかさのために、やはり生身の人間としては傷つきやすく生きづらい志摩子の葛藤や哀しみを、乃梨子がどう受け止めていくのかを描いた作品と言えます。
そして驚くべきことにというべきか当然のことにというべきか、志摩子乃梨子をどう思っているのかについては既に自明のものであるかのように、第九話でも明確には語られていません。乃梨子といるときは打って変わって楽しそうであるとか、レフ版としての乃梨子のおかげで光が当たって輝けるといった間接的表現にとどまります。そして志摩子からは「私は私の意志であなたと一緒にいたいと思っている」と言うのみであり、後は、逆の立場の乃梨子からの、私も必要だと自惚れているからという表現となっています。節制の人としての、かなり奥ゆかしい扱いが窺われます。
瞳子から、乃梨子を「妹」にすることの可能性を示唆され、志摩子は混乱します。ここでは端的に、スール制度自体に対する抵抗があるのだ、と解することもできるでしょう。原作ではよりはっきりと表れており、口に上せられるたびにどんどん歪められていくような気がする、と違和感を感じている描写があります。
お姉さまであった聖の姿を求めて混迷する志摩子の前に表れた蔦子は、聖と同じ迷路にいるのだと言います。それは聖がかつて、栞との関係で距離のとり方を踏み誤り、破滅的な方向に向かわざるを得なかったことをさします。志摩子も距離の取り方が良く分からないことは共通しているのでしょう。しかし根底のものは同じでも、その時の聖が迷うことなく貪婪さを持って向かって行ったのに対し、志摩子の場合は迷いの気持ちとなって表れます。終盤の志摩子の言葉の中で間接的に示された「寒さ」とは、恐れて断念せざるを得ないと自覚するときの寂しさを指すのでしょう。そのときの聖には不安や焦燥感はあっても、「寒さ」は無かったと思われます。
ロザリオを渡すこともさまざまな事情を鑑みて踏み切れないうちに、山百合会の仲間たちを取るか乃梨子との平穏な関わりを取るかと祥子に迫られると、逃げ出すしかないのでした。
駆けつけてきた乃梨子の、ロザリオを貸すと思えば良いという言葉は、直接的にはロザリオを渡すことに伴う諸々の負担を気遣う志摩子の心配を和らげるものです。そして同時に、通常とは異なった、微かなものであると同時に重要な操作をロザリオの受け渡しに当たって二人で加えることの提案でもあります。このとき、ロザリオの重さを知らない私だから、と自ら言う乃梨子は既に志摩子にとってのその重さを知っています。そして同時に、重さを引き受けるだけの底力も持っています。志摩子と聖はかつて、通常とは異なる意義をロザリオに求めていました。それは、志摩子の葛藤に対する救済をもたらすものであり、山百合会の仲間を得るきっかけともなりました。
さらにその重さは、聖と栞の間にあったような関係をも整理付けるような過大で難しい働きをロザリオに求めなければならないことに由来します。欲張りで、誰にも嫌われたくないから欲しがらないように生きてきたのだ、と乃梨子が理解を示す志摩子にとってのロザリオは、志摩子の生身の人間としての業の深さをも象徴しているとも言えます。新たに生じる関係性の中で、次第にその業の深さは変容し、洗われていくことができるのでしょう。
片手で仲間を、もう片手で私を掴んでおけば良いと言う乃梨子の言葉に、志摩子の手を取る聖のイメージが志摩子に蘇ります。聖が志摩子の手を引きながら、いつしかある種の開放の道を辿っていったように、志摩子の前にも開放の道が開けていることが示唆されています。
仮にスールという制度に正統的な意義があるとすれば、これからかなり逸れるものかもしれません。本来、スール制度は、先輩・後輩の関係を重んじるといった「形」から入り、やがて実質的なものを得るに至るということを目指しているように思われます。しかしここでは、方向性を見失いがちな乃梨子の言う「二人だけで構成された世界」が最初にあり、これに箍を嵌めてその危険を回避するための安全弁として制度が用いられます。桜の木の美しさと渾然一体となったような出会いをしている二人にとっては、現実的な世界へのしっかりした足がかりが必要です。聖は栞との間ではこの可能性を全く検討していませんでした。志摩子との間では、似すぎているために却って近づき難いという障碍が先に意識されるため、現実的には少々寂しい関係となりました。しかし、志摩子乃梨子の場合は、箍を嵌められたことにより、安心して寄り添いあうことができます。
それは、乃梨子の洞察力の鋭さにも拠るところが大きいとも言えます。乃梨子と言い争ったあげく志摩子を責め立てた祥子は、既に乃梨子を仲間として受け入れているのだという解釈がすぐにできるのは驚くべきことです。二人の間では、気高く力強い自我の機能の寓意としてスールの関係が受け入れられていくのではと思わされます。
くっついて離れないからという、暖かで生々しい実感の伴った乃梨子の誓いの言葉と共に、二人はリリアンスール制度の中に生きることを決意することになりました。異質な要素を含みつつ、いやむしろそれ故に、情熱を秘めた白薔薇のスールは美しいと言えるのでしょう。

■次回予告 Transparencyさま制作