くりくりまろんのマリみてを読む日々

第八話「銀杏の中の桜」③

アニメは原作と比べると端折り過ぎなのではといった不満を良く見かけます。それではアニメ単体で楽しめるものなのだろうか、原作未読の人から見てどうなのだろうか、という疑問が出てきます。
人魚のくるぶしさまのところは、原作は未読ということなのですが、随分マリみてのアニメを楽しまれているようで、肯定的です。前のクールでの感想〔こちら〕を含め、その楽しんでいるという感想自体を楽しく読ませていただいておりました。しかしこの第八話に関しては少し異なるようです。

志摩子さんの孤独があたかもお寺の娘であるという事実にのみ起因するかのように描かれたのは瑕疵だと言わざるをえません。志摩子さんの孤独は、お寺の娘であるというという事実だけに起因したと考えるのは不自然であり、本来の性格にお寺の娘であるという事実が影響を与え、現状を作り上げたと考えるのが自然です。であるならば、お寺の娘という事実以上に、志摩子さん本来の性格という土台を描かないことには、なにも描きえないはずですが、そのような描写に欠けていたことは残念です。

さて困りました。僕は原作を知っているので、どうしても他の知識で補完しながら見ていると思います。アニメを独立したものと見た上で、志摩子の土台となるものが描かれているのかどうかについての意見は言えません。ただ、既読者としては、これに続く「ロザリオの雫」でこそ志摩子の土台が語られているのを知っているわけです。そして「ロザリオの雫」が実際に書かれたのは「銀杏の中の桜」の随分後であることを考えると、上の「瑕疵」というのはアニメでの瑕疵ではなく、原作自体が持っている瑕疵なのだろうか、と考えてしまいます。確かに原作から省かれたエピソードはありましたが、そのせいでアニメがぼやけたものになったとは言えないのでしょう。乃梨子が慣れないリリアン志摩子に衝撃的な出会いをするという形で描かれているので、志摩子の内面までなかなか踏み込めないという事情もあります。
何だそんなことか、という思いをやはり多くの観る者が持たざるを得ないのであれば、これを逆手に取ることが考えられます。それを作品の中で強調しておけば、「ロザリオの雫」で志摩子の迷いの深さが描かれる中で、やっぱり根が深いものだったのだなと後から感興を呼び起こすことができるのではないか。「甘噛みさんが通る」さまでのtaro-rさまのコメント〔id:amagami:20040824〕は興味深かったです。

前回の使い回しをいれる時間があるのであれば,祐巳志摩子さんの秘密を知ったときに「そんなこと問題になるの?」くらい言わせた方がよかったのでは?(原作でもそんなシーンはありませんが,原作ではあとがきで作者が「他人が聞いたらたいした話じゃなくても,本人が深刻に悩んでいることはある」とかいてあるので)とか思いました。

それぞれの話は完結していなければならないと言いながらも、マリみてでは重層的に話が膨らんでいくことが多いですし。[▽そろそろ瞳子の話をなどと思いつつ続きます]