第八話「銀杏の中の桜」②

雑感としまして、銀杏の中の桜という話のもたらす嫌悪感について考えてみようと思います。ネットを見て回ると、嫌いだと明言する方が多くいますね。
生徒の前で行われるということが一番にあると思います。集団の中で突き上げられてはさぞ辛かろうというのは、容易に想像のつくところですし、私もそう思います。
次に、仲間に対して策謀がめぐらされることがあります。ただしこれはマリみての他の個所でも出てくる題材で、考えみればさほど特異なものではないのでした。「片手だけつないで」では、素知らぬ顔をして志摩子を薔薇の館に引き込んでいる蓉子たちに聖は激怒します。「略してOK大作戦」では、祥子に対して作戦が練られています。小悪魔のように元気に活躍する瞳子を非難する人もいますね。
しかし一番違和感を覚えるのは、生徒が集団で感動してしまうところです。祐巳はかなり事情を知っていたのだから、志摩子乃梨子が浸りきっているところに感動するのは分かります。しかしあまり事情が分かっていないのに、熱に浮かされたように全体が盛り上がる様子には、偏奇なものを感じます。この点アニメではさほど集団としての盛り上がりは描かれてはいませんでしたが。これはおメダイをかける儀式の後に行われるもので、生徒たちの薔薇さまたちへの思い入れが前提としてあり、その余勢を駆っているものと考えられます。
マイクを持って「盛大な拍手を」という祥子の胡散臭さは抜群であり、余興だったという令も少々冷酷です。これが志摩子乃梨子に向けられたものとすれば、確かに酷いとも言えます。しかし同時に、薔薇さまへの生徒たちの思い入れや、その「場」の雰囲気を胡散臭いものとし、これを皮肉ったものが祥子と令の言動と考えることもできます。特に、志摩子乃梨子に対しては既に一仕事終わっており、二人に対しては不要なものです。この冷たい目は、入学した当初、薔薇さまの存在についてあまり感心しなかった乃梨子の目を連想させます。
マリみてシリーズで最初に書かれたのがこの物語であることを考えると、閉じた空間としてのリリアンへの違和感を最初から認め、これを読者の視点として扱おうとする意図があるのでしょう。その後時間を遡り、その空間の中で福沢祐巳薔薇さまたちの活躍が描かれることになるのですが、結果的に現実感を失わないための安全弁が備わった世界が組み立てられることになったと思います。ここで出てくる集団心理は姿を変え、早くも「黄薔薇革命」で重要なテーマとして扱われています。
なまぬくとく、大甘ともいえる物語が多いマリみてですが、時に不意に冷や水を浴びせるような表現や題材が飛び出してくるのも大きな魅力だと思います。そうするとやはり、この作品はマリみての原点というべき存在だと思うのですが、どうでしょう。できればコメントを頂きたく。[▽続きます]

■次回予告 Transparencyさま制作