第八話「銀杏の中の桜」①

昨夜はアニメを見る前に、原作を読んで志摩子さんのことを考えようとしていました。しかし読み終わると安心してぐっすり寝てしまい、リアルタイムでの放送を見逃した爽やかな夏の休日です。今回は人物ごとに分けて書いてみようかと。

志摩子乃梨子

前回乃梨子に秘密について言いかけた志摩子ですが、寺の娘であるにもかかわらずリリアンに通っているのは幼いころからシスターになりたかったからであり、十二歳になったら修道院に入るからと、早くも勘当まで申し出ていたということでした。志摩子の一途さと強い意志が随分前からのものであることが分かります。ここでは、なぜそれほどなりたかったのかという説明はなされませんが、あまり多言を要するものでもないのでしょうか。聖なるもの、純粋なものに強く憧れ、そして、自分から勘当を申し出るほど自らも純粋でなければならないと感じ、そしてそうありたいと希求する気持ちが乃梨子に伝わっていきます。
そして、寺の娘であることは学園の中で秘密として抱えていることも告げられます。このとき乃梨子は、それが学園での生活には何にも差し障りはないのではないか、あるいは既に秘密として維持されておらず、知っている人は知っているのではといった気の回し方はしていません。志摩子が学校をやめてしまうのではと心配し、志摩子に訴えるのでした。これは乃梨子の迂闊さとも言えますが、同時に志摩子の心情をよく汲んでいるのだとも言えるのではないでしょうか。
志摩子にとっては寺の娘であること自体が既に信仰に矛盾しているのではという不安が先にあり、それは広い範囲に拡散していく種類のものです。理想とするものがあり、これと引き比べて自らの出自に疑問を抱くという、近代文学で良く扱われる題材のような、何か青年期特有の心性をも窺わせます。その不安を乃梨子は、全面的にではないにしろ次第に受け入れて行き、その延長線上にある秘密は守られなければならないとする強烈な気持ちをも理解して行きます。
場面を変えての、私のことが公になることで誰かに迷惑がかかるのだったらやっぱりいてはいけないという志摩子の言葉には、純粋さを貫こうとする理想主義的な考え方が表れています。これは人目を気にするあまり自由が損なわれるといった、時に日本人にありがちと評されるものとは程遠いもののように思われます。自らの行動にけじめをつけようとする冷厳な判断をしようとしたのでしょう。そして一方、既に学園での生活がとても大切なものになっていることも示されます。乃梨子はそれに戸惑いつつ、私でよければ話の相手になるからと必死なのでした。乃梨子に腕を回す志摩子の図は、互いの理解がだんだんと精緻な形でなされてきていることを物語るようで麗しい限りです。
さて裏で着々と準備は進み、問題の場面となります。密かに志摩子から受け取っていた数珠は、乃梨子の鞄から盗まれ、突如として生徒たちの前に姿を現します。乃梨子はいろいろといい抜けようとしますが、それが志摩子のものであることを言わなければならない状況になります。しかし、ついに志摩子は毅然と数珠が自分が持ってきたのであり、さらに寺の娘であることを宣言します。
このとき志摩子は、学校にいられなくなるかもしれないという犠牲と引き換えに、高邁なものを手にしています。自らを犠牲にして、乃梨子を守ります。友情のために自らが大きな犠牲を払うというのはとても難しいことです。しかし同時に、仮にそう望んだとしてもそのような状況に陥ること自体が稀であり、機会がそうそう訪れるものでもありません。
しかし作為的に作り出された状況により、志摩子にその機会が訪れます。秘密を守ることは自らの身を守ることでしたがそれはいくらかの疑念に基づいた、つらいものでした。しかし志摩子が自発的に大きな犠牲を払ってそれを告白するとき、それは許されたものになり得ます。大切なものとなっていた学園の生活と引き換えに「友情」が守られ、そのことで信仰の純粋をも証明されて、出自に関する諸々の不安も昇華されることができたのでしょう。とうとう言っちゃったね、と乃梨子志摩子に言うとき、二人の間では信仰心も「友情」も共に、高みにある美しいものとして些かも傷つかず、輝きを増しています。そしてその様子を尊いものとして周囲の者も拍手で称揚するのでした。祥子や令が、乃梨子を巻き込んだ上、志摩子に「自分の口から言わせる」ことにこだわったのは、このような考えがあったからだと思われます。
ここでは仮に、事情を知る令や祥子が、志摩子の秘密が既に周知の事実であることを単に告げたとしてもあまり意味が無いと言えるのでしょう。そこにはカタルシスは何も無く、志摩子にとって気休めの慰めにしか聞こえなかったろうと思われます。多くの見守る生徒たちというのは圧力を高め、犠牲を強いる場を構成する仕掛けとして必要とされたと言えます。[▽続きはまたあした]

ちょいと一言

チェリーブロッサム』のあとがき。

志摩子の悩みが判明して「何だ、そんなこと?」って拍子抜けした読者も多いんじゃないでしょうか。…[中略]…悩んでいる本人って、端で見ている他人には想像できないほど深い穴を掘っていたりします。特に、若いときはそうみたい。

と、あります。最初は物語の筋についてのエクスキューズかと思ったのですが、別にそう解する必要も無いと思います。若年層の、何だか得体の知れない悩み方についての今野先生の共感やら暖かい眼差しやらを感じます。前回と今回、祐巳の泣き顔が何とも鬱陶しいという意見もあるようですが、その種の、ややくぐもった鬱陶しさを含む心情にも積極的に焦点が当てられているのですね。作品の中ではまず間違いなく、それがほったらかしにされることはないのですが。