「マリア様がみてる」の世界

紹介文を書くとしたらどんなふうになるかなぁと思って考えたものです。

限定と拡大

作品の特徴として第一に挙げなければならないことがあります。学園内の特殊な制度の下での感情の交流を軸に据えていることから、物語の舞台は一見狭いように見えます。
しかし、物語の題材は多岐に渡り、多様な表現方法を織り交ぜることで、今度は逆に一旦狭くした舞台の限界に挑むかのように話を広く展開する手法を取っていると考えます。
全ての巻に冠せられた巻頭言では、ここは「乙女の園」であると宣言され、なるほど日常とは違う世界が描かれようとしていることが分かります。節制が重んじられ、古き良き時代の道徳観に基づいた徳育がなされている様子が窺われます。しかしたちまち男性キャラクタが登場する一方、人物は直情的であったり葛藤に満ちていたりして、ただ美しいだけの女性、可愛いだけの女の子というのは一人として出てきません。ストーリーの中で呈示される問題は、普遍的な意味を持っていると思います。旧い舞台の上で、現代的意義を持った乙女の像がどのように再構築されていくのか。それが見所です。
作品の形式上の構成はあたかもモザイクのようです。異なった主題、筆致による数々の短編によって全体が構成され、全てに適用しうるテーマは無いように思われるほどです。
このような構成は作品の世界の拡大に深く関わり、重要な役割を果たしていると思います。

擬制の絆とマリア像

しかし、通底するモチーフは見ることができるでしょう。先輩・後輩の関係を姉と妹の関係に喩え、ロザリオを交わして一対一の関係を結ぶというスール制度は、男で言うと義兄弟の契りに似ています。ここでは、互いに支えあうこと、指導することとされることを通して「徳」を高めあうことを誓う盟約であり、互いに義務と責任が発生することを意味します。また、本来家族関係に使われる言葉が転用され、学園内のものとして認められていることは、学園の共同体としての強さを増幅させていることが推測されます。
しかしここでは、リリアンが幼稚舎から大学まで一貫教育がなされている中で、特に高等部のみにある制度であること、また、生徒の間で自然発生的に生じたもので、必ずしも強制のものではないことに着目したいと思います。ここに、徳育や躾という目的を超えた意義が認められるのではないか。
およそ基本的な社会的なルールやマナーを身に付けることは、お嬢様学校である以上十分な注意が払われていることでしょう。しかし、思春期を終えたころ、重要な課題が待ち受けています。他の誰でもない、自身を主体的に確立していかなければならないことです。また、周りから与えられただけのものかもしれない物事に対する価値観も、自身のものとして構築していかなければなりません。
これは一生の課題でもありますが、大変難しいことです。このとき、手本となりうべき、年齢が近いが故に共通するところが多い人がいたら、発展途上にある自我にとって大変意味のあることではないか。これは自己の理想像を投影しやすい人間がすぐ近くにいるということで、安易な道でもありますが一定の合理性があります。制度の存在意義には、このような認識が基底にあると思われます。専属の、一対一の関係であることも重要です。その関係を結ぼうとする時点で、既に固有の、自分の意志による選択が始まっているのだと言えます。
それではこの文脈から見たとき、校舎全体を見守り、学園生活の精神的な拠り所とされるマリア像は何を意味するのでしょうか。作品では、神と対話するとはどういうことか、信仰とはどういうものなのかということは全くと言ってよいほど描かれません。片鱗が一部の登場人物において垣間見えるのみです。厳格な裁断者としての神の像も出てきません。何か解決すべき問題があるとき、マリア像に訊ねてみたが返事は返ってこなかった、とあります。この文脈では、対話すべき対象をあえて挙げるとすれば、自分自身、ということになるのでしょう。登場人物には、目の前の悩みや小さな危機に対して自分の頭で判断し、具体的に行動することが要求されていきます。
しかし同時に、個人の領域を越えた存在としてのマリア像も示唆されています。
マリア様がみてる」から節操のない振る舞いをしてはならないとされます。また、登場人物が何らかの転回点にあったとき、「マリア様がみていた」とされます。ここには、厳しく罰せられるであろう、といった禁圧のニュアンスはありません。この世に追求すべき価値や理想が確かにあること、リリアンという学園が、この作品の世界が、これを追求する営みが許されている場であることを具象化しているのです。

粗忽者の肖像

主人公と目される福沢祐巳は、実にこの世界に相応しい形で登場します。平凡な学園生活を大過なく過ごすはずのところ、かねてより遠くから憧れていた「紅薔薇の妹」の小笠原祥子とふとしたことをきっかけに知り合います。祐巳がおっちょこちょいで落ち着かない印象を周囲に与え、世事に少々疎く、しかしどことなく和やかさの雰囲気を出しているという形容は、優雅だが鋭い雰囲気を持つ祥子と対照をなしています。この大きな隔たりと強い憧れの気持ちが祐巳にあることは、成長の物語の契機を容易に想像させます。そして、前言語的で言葉には表し難い強い感情の方が、理知的な判断よりずっと行動の動機として説得力があるとされているようです。
ただし、祐巳の人物造形に少し違った意味の必然性があると思います。祥子は祐巳にあなたは本当にものを知らないわねと呆れます。このときごく僅かな想像を交えれば、それでは祐巳は違った次元において大きな知恵を持っているのではないか、と考えることが可能です。
ものを知らないというのは一般的には、社会生活上での不利を意味することがほとんどです。しかし作品では、わざわざ説明するのは口幅ったいような、祐巳の優しさや純粋さが発揮されることで事態が進展していきます。俗な知恵よりも巧まざる知の優位が強調されています。目から鼻へ抜けるような現実的な判断力や賢さは、むしろ不必要と言えるでしょう。
かくあれかしという理想が、いろいろな疑問の表白、その結果として導かれる行動を通して、さまざまな形で語られ、そのうちのいくつかが実現されていきます。理想像の強い投影を受けるべくして、福沢祐巳は存在しているのです。

成長の物語なのだろうか

以上のように、物語の設定において、そしてそれぞれの物語において、広い意味での自己陶冶や人間形成の主題が陰に陽に表われます。登場人物の描写の中には、直接的で細かな性格分析を思わせるものも度々出てきます。皆それぞれの問題を持っており、それがどう変化していくのかは、具体的な事件の中によりも複数の巻に渡って長期的に見た方が分かりやすいようです。ここでの問題というのは、すぐに解決されなければならないような切羽詰まったものではありません。どちらかというと未来志向的な課題というに相応しく、しかし変えていくのは難しいものですが希望を抱かせるものでもあります。読む者が登場人物の一挙一動に共感したり、不思議に思ったり、時に反発を抱いたりしながらいつの間にか引き込まれていくのは、この主題が横たわっていることによるものが大きいと思います。
スール制度はこの主題をより浮き彫りにするもので、喩えて言えば化学反応を促進する触媒であり、坩堝です。ここに投げ込まれた二人がいかなるものを醸成していくのかはそれぞれに任されており、異なる個性がぶつかりあうのですから異なるものができてくるのは当然のことです。
殊に福沢祐巳の場合、通常の生活でも特に不満は無かったにもかかわらず、敢えて火中の栗を拾い、思い切って制度の中に飛び込んだ感があります。[▽この項続きます]