くりくりまろんのマリみてを読む日々

銀杏の中の桜

異質な対立の構造

多くの話が濃やかな愛情の文脈で語ることが可能です。そこではさまざまな問題が出てきても相互の了解があることが大前提であり、甘えの通用する世界とも言えます。これとは対極的な、緊張感のある事件が描かれた話です。
学園の集会という場を利用した、乱暴で曝露的な心理治療に見えかねない事件を扱っており、行為の倫理的な当否が問われるレベルまでに至っているのは刺激的で面白いところです。
ここでは、一定の目的を果たすためには、時には明確な決断を下し、さらに苦痛を強いなければならないことがあるのでは、という問題提起が含まれているように思います。
マリア様がみてる」シリーズにおいて出版の時系列からすると一番最初にあたる作品であり、「あとがき」には、ある意味この地点を目指して書かれてきた、とあります。これはさまざまな意味に取れますが、ここでは第一に、事件の首謀者である祥子の人物像に注目したいと思います。志摩子乃梨子が主役ではあるのですが、高圧的でいささか理不尽なところもある上級生として乃梨子の前に登場している祥子と令には、既に物語全体の中でそのような行為をするのに必然性のある造形がなされてきているのだ、と解することもできるからです。

祥子なりの「ノーブレス・オブリージ」ではないだろうか

少し根本的なところですが、登場人物のほとんどが、かなりの真面目人間ぶりを発揮しています。祐巳由乃志摩子は学生としての基本的な役割や義務には忠実で、勤勉です。そして物語の多くが、自らの理想と現実とのギャップを意識するが故に右往左往する様子を描いています。
祥子は潔癖症ゆえに狭量なところがあるのは否めませんが、殊に物事の筋を通すことを重んじ、曲がったことが嫌いな性質であることが知られます。祐巳由乃志摩子も、この点を認め、尊敬しているのではないか。祥子は最も義務に忠実でしかも行動力があるのです。
マリア祭の宗教裁判では、祥子は自らの薔薇様としての地位や周りの人間を最大限に利用することを考えながら、あえて汚れ役を買って出たのではないか、と考えられます。そして、聖が志摩子に何のドライブもかけずに卒業してしまったことを攻撃するとき、誰に言われるのでもなく、既に祥子の中では志摩子を何とかすることが至上命令になっていることが分かります。
周りの全てが認めるお嬢様であり、ふだんも威張っているように見える人間が責任を果たすべきときは、このような役割と場面ではないでしょうか。かなり嫌われる危険を冒しながら、それでも行動を起こすことができるのは、祥子の一つのスタイルと言えます。
なお、自らの考えの正しさを確信し、しかも結果の成功の自己満足に浸ったと見るのは少しく表面的でしょう。執拗とも言える祥子の人物描写では、欠点も含めて自分が見えている人間として描かれています。
また、祥子の親友である令も、多くの点で似通っています。作品ではどのように親友であるのかはあまり描かれていません。しかし、何かのエピソードではなく、今までのそれぞれの人物造形から推測しても何ら問題は無いわけです。共に企みをめぐらすのは割合自然なことと思います。ただ、令の方がよりバランス感覚のある良識を示しそうです。祥子は多少奇矯な行動もできるように思われます。
ところで祥子や令の考え方はどうあれ、他の手段はなかったのだろうか、という問題は未だに残ります。他の手段がなかったとすれば、成る程危険を顧みず挑戦してみる価値があったのだ、という結論に至りやすいことは確かです。これについては、志摩子心理的布置を考える必要がありますね。
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