くりくりまろんのマリみてを読む日々

追体験の重奏② ― 「無印」への回帰と展開

こともあろうに、新刊発売から一週間以上経っているのにまだ読めていません。いわゆるネタバレは普段は気にせず、他の方々の感想を読んでから取り掛かることも多いのですが、今回はまっさらの状態で読み始めてみようかと思っているところです。発売直後の掲示板は独特の熱気があっていつも楽しそうですね。感想を読んでからの場合、皆が注目する箇所が先に分かっていて、実際に読みながらこのことを指していたのかと納得しつつ楽しむのですがそんな人は稀なのでしょうか。

理解ということの型

祐巳のなしている理解ということについてやや強引ながら分けて考えてみたいと思います。

関わり方自体が一つの理解の様式

《無印》では祐巳の現在の状況が祥子の状況と重なり合い、「未来の白地図」では祐巳の過去の状況が今の瞳子の様子と重なりあっています。①では、身体感覚を拠り所として過去と現在の時間の差は超克され、今現在の重なり合いと等値のものとなっていると言えるのではないかと考えました。時間の前後の概念を捨象すれば、具体的な詳細は違っていてもおよそ同じような体験に身を浸している、あるいは「他者の追体験をしている」ということになるでしょう。
それは、これまで長く抱いていた人物の像が機が熟して急激に色濃くなり、自分に近い生々しい存在として感じられることになる過程が全体として描かれていると言った方が良いと思われます。「無印」では祐巳は遠くからですが祥子を前々から知っていたわけですし、瞳子についても、もちろんそうです。予め知っていた期間は共に、マリみてで流れている時間軸で言うと長い方に属するのではないかと思われます。突然の出会いでもなければ運命的な出会いでもないわけですね。また瞳子の作った数珠リオについて祥子と訝しがる下りなどでは、瞳子を余裕をもって眺めることができる状態であることが示されています(祐巳が最も落ちついている幸せな時期であったと考えると、なかなか大変です)。
それがふとした出来事によって祥子や瞳子にとっての苦悩が集約されているかのようなものに触れることになります。そこでは、内容が客観的に言って深刻そうであることの他に、祐巳から見た場合の生々しさ、距離感が縮まって感じられるという認識の様式が重要なものになっていると思います。距離感の縮まり方を強めているのが、立場も背景も全く違う同士であるにもかかわらずあたかも身をもって同じ体験をしているかのようなつながりなのだと思います。「無印」の温室の場面は、自分とは違う遠い存在であった祥子が、急に身近な存在として感じられた瞬間ではなかったかと思います。また「未来の白地図」の冒頭もそうです。
そしてどのようにしてそんな状態に至ったかと言えば、さほど強く祐巳が意図して物事に関わっていった結果ではありません。(瞳子が家に来たのも、突然前触れも無くやってきたと感じたと思われます。)この点を捉えれば祐巳は巻き込まれ型の主人公であることを示しているに過ぎないのかも知れません。しかしより肯定的に解せば、状況に巻き込まれているようでありながら動くことをやめない、祐巳の物事に対する接し方の良さが表れているとも言えるでしょう。瞳子に対してはつかず離れずの状態を繰り返しながら次第に印象を変えていきましたし、祥子に対しては肝心なところでは自分から追いかけたりしています。(正確な意味はほとんど知らないのですが、祐巳は「誘い受け」であるとか。関係があるのでしょうか。)機が熟したときに、なかなか得難い「追体験」という現象が起きたように見えるわけです。
ただ同時に、それは心が通い合うことに直接にはつながらないものなのでしょう。

深い踏み込み

瞳子と演劇を中心に⑮〜⑰では、祐巳瞳子に対し局所的に深く踏み込んだのではないかと考えました。祐巳に満足感はありましたが瞳子からの直接の手ごたえは全くといって良いほど描かれておらず、その段差が面白いです。…しかし、瞳子祐巳の手を握り返す場面はまさに「手ごたえ」であるわけで、抒情的ですらある場面です。

包容力を示して全人格を受け容れようと…

そして前々回のコメントでほっぷさまがされている表現は、腑に落ちてくるものがあります。それは祐巳がしようとしているがなしえていないことであり、また「無印」で祐巳が垣間見せた姿勢ではないかと思います。

未終の「無印」 ― 大団円に含まれる心残り

祥子さまのために、自分はいったい何ができるのだろう。/「ロザリオをください」
祐巳は、二回申し出て断わられています。そして二回目に申し出たときは、祐巳は既に自分がロザリオを受け取ったところで全て解決するわけではないことを知っています。また、祥子からもやりとりは不要であると既に言われています。
この場面は祐巳瞳子に申し出、そして断わられる場面に重なってきます。
・その場だけを見れば「取り急ぎ」の感があります。何かをしたいが何ができるのかは分からず、さしあたりできることはロザリオのやりとりしかない、という状態です。
・しかし、単にそうすることが役に立つかもしれないという事情のみに依存しているわけではないのでしょう。やはりその背景には、関係を切りたくないというニュアンスも微かに伺われてくるようです。
ここでの祐巳の気持ちにつき、両想いでないことを辛いと思うという過程を経ながらふと祥子の内面に触れ、そして身近な存在と感じ、姉妹制度を通して人間的な繋がりを持ちたいと思う瞬間が描かれたのではないかと思われます。
祐巳は学園にすっかり馴染んだ生徒として登場していますが、個人的な気持ちのつながりが姉妹へのつながりへとなだらかに結びつくありさまは、やはり制度とも親和性があるように書かれていると言うべきでしょうか。ただ、このときの祐巳の気持ちというのはもっと考えなければならないかも知れません。姉妹関係を結ぼうとするとき、好きという気持ちはもはや語られていないことが注目されます。瞳子に対しても、決して好きとは言っていないのですね。「制度を通しての繋がり⊇好きという気持ち」であり、ずいぶん意味が拡張しています。…この点、どこか借り物のように姉妹関係を見る白薔薇の話とは対極的といえるでしょう。
前回のコメントでよーすけさまが詳細に述べられている、これから成熟が必要な部分の原型が「無印」に表われているのではないかと思われます。
祐巳「でも、私、何も」
祐巳は、祥子に対して何かができたとは思えないまま姉妹となりました。一方、祥子は「してくれた」と述べ、ただ自動的に姉妹になるのではなく、何らかの実質が必要であることを知ったと言っているようです。
・祥子「賭けとか同情とか」
祥子は最後まで、祐巳の行いが同情だと思っていたのかもしれません。しかし祐巳の主観は「未来の白地図」におけるがごとく、同情ではないのに、というものではなかったでしょうか。祐巳が示したかったが示し切れずに終わったのは、もっと全体的な繋がりを持ちたいという気持ちだったのではと想像します。
「無印」で未だ終わらざる物語を微かに含みながら姉妹となったかつての「妹候補」は、今はより大きな意思と現実的な問題を抱えて「姉候補」となっているのだと思われるのです。
[▽この項終わりです]

追体験の重奏① ― 「未来の白地図」から

一言の下にネタと切り捨てられかねない、しかしそれでも一つの見方として纏めてみたい、今日はそんな葛藤に満ちた題です。
柏木氏の言葉や後には山百合会も巻き込んでさまざまな考え方があることを知り、それでも祐巳は「私の妹に」と瞳子に言って断られてしまいます。祐巳瞳子に対する気持ちの俄かとも思える昂まりは、情緒の面に限って言うならば祐巳瞳子を家に引き入れるところに主に描かれています。
「かわいそうでならなかった」「肩を引き寄せて抱きしめていたのかもしれない」というのは、自分が守ってあげたいという強い衝動の表れであり、「頬がカッと熱くなる」というのも衝動を言い当てられたことによるのでしょう。祐巳瞳子の間の「姉妹関係」の端緒がどこから具体的に現れてくるのか楽しみにしながら待っていたのですが、それは祐巳の気持ちの変化であり、しかも祐巳が「姉妹関係」に関して持っている文脈のうちのおそらくは最も大きなものに沿っています。以前「薔薇のミルフィーユ」に関して「姉というものの無視し得ない属性がお母さん役にあるとするならば、その役に失敗したと思っている祐巳が今後姉としての自分を想像し現実の中で形作ってゆくことができるのか、とても覚束ない気がしてきます。」と書いたことがあるのですが少し訂正しなければなりませんね。挫折し、回復を経て、再びより強い気持ちが持てるようになったのだと言った方が良いでしょうか。なお「姉」を守るのに失敗したと思い深い後悔の念を持つ「妹」というのは祐巳が始めてではなく、可南子がそうでした。祐巳は(祥子を)愛したいという気持ちを傾ける機会を失って泣き、次いで(瞳子に対して)流れが堰き止められて大泣きすることになるのですから、このようなあり方自体、マリみてはたいへん優しい世界だなと改めて思いました。
さて…

パラさし」・「未来の白地図」にみる心身一如の思想

・手を引いたときの手は、ものすごく冷たかった
・今は何も言わずに冷えた身体を温めてやりたい。疲れた心を休ませてあげたい。

冷たい感覚を祐巳が知ることに大きな焦点が当たっています。
①心の葛藤により、自ら体を冷やしてしまう。
②葛藤そのものは直接扱われることなく、拾われて他所の家で温まってから家族のもとに帰る。
…という形で話を大掴みにすると「未来の白地図」の祐巳の家は「パラさし」での加東景の下宿先の家のようです。かつて祐巳は雨に濡れてすっかり身体を冷やしてしまいました。それが今瞳子の身に起こっているかのようです。身体感覚の生々しさを手がかりにしながら祐巳は自らの体験を瞳子に重ね合わせたのではないか。瞳子が辛い状況にあることに文字通り身をつまされ、今度は自らが瞳子を温めたいと思ったのではないか、ということが伺えるようです。
レイニーブルー」では三題とも、雨が効果的な心象風景として描かれていました。風景は感情と密接な関係にあります。しかし単に心象風景というにとどまらず、感情と身を置いている状況とが一体化して後々まで記憶に残るようなイメージとして構成されるためには、身体感覚が大きな手がかりとなるでしょう。(ちなみに「ロザリオの滴」の終幕、「だったらもう、私は寒くはないわ」は極めて身体的な感覚に重きを置いた表現です。寒さという身体感覚に志摩子の持っていた孤独感が集約されています。関係がスール制度に定位されることでぴったりとくっつくことができると言っているようです。)
中村雄二郎著『術語集〈2〉 (岩波新書)』の「記憶」の項から。

想起的記憶はまったく身体から切り離せるものであろうか。いうまでもなく、人間は心身の高次の統合体であり、いまや人間において、精神とは、活動する身体のことだと見なされている。そして、記憶が担うイメージ的な表象は、つまりは、身体的なものを基盤とした感性的なものだからである。

…少し込み入った文体ですね(汗)。記憶とイメージとの関連性、イメージは身体に依拠していること、そして心身は一如であるという思想について述べられています。なおイメージというと通常は視覚イメージをさしますが、心理学の分野で研究対象となるときは五感全てを含み、視覚イメージはその一部をさすに過ぎないことがあります。おそらく上記では五感全てにまつわるイメージのことをさしているのでしょう。また「イメージは心と体を結ぶ言語である」とも言われます。
パラさし」で祐巳が落ち込んでいる様子、そして救われるところは、心身は一如であるという見方・立場を話の基礎に導入しているかのようです。「濡れた体で冷えた心を抱きしめて」「冷えた身体を温めて、〜それこそが、今の祐巳に必要なものだったのだ」等となっています。身体的なことは心の中の出来事の結果なのですが認識の世界ではいつの間にか一緒になっています。また二回目に訪ねたときは聖にぬいぐるみ扱いされながら心地よさと甘えの気持ちを自覚し、このとき(聖の側からですが)身体が温かい、ふわふわとしているなど、直截な身体的表現がなされています。冷たさとは対極にある感覚と言えましょう。
ただ同時に注目されるのは、「自分が笑えるくらいの余裕があることを知って、少し驚いた」「傷ついたのは心だけで、この肉体に直接のダメージはないんだ」「じゃあ、心って何だろう」と、心と体は別物であるという考えも述べられていることです。心身が冷え切っている状態をおおもとにしながら、それに抗うかのような理性の働き、自我の働きを認識することまでが描かれているのです。
未来の白地図」で祐巳の感じ取った瞳子は、体が冷えていながら祐巳の前に現れたときは気丈にも微笑んでいます。また、割合はっきりと受け答えをしています。瞳子にしてみれば初めて訪ねる他人の家に、いかにも悄然として現われるわけにはいかないといった気遣いがあったのかもしれません。すると祐巳は、瞳子の冷えた身体のみならずそれとは相反するような瞳子の態度・姿勢をも含めて感じ取ることで、いや増して瞳子の辛さを自身の経験に重ね合わせて知ることとなった、と言えないでしょうか。
そして記憶を呼び覚ますという点では、身体感覚が重要な手がかりになったのではないかと思われるのです。

直截には書かれていない構造

話の仕組みから以上のような推測ができるものと仮定しても、厳密にはもう少し複雑です。読み取れるようになっているだけで、祐巳が具体的に思い出したとは全く書かれていません。書かれていないのだからもちろん実際に思い出したわけがないという立場を取れば、上記引用文に言う「想起的記憶」とは異なってきます。
これは《無印》での話の仕組みと似ています。祥子の「内実の伴わない婚約を強制される」という状況と祐巳の「一方的にロザリオをかけられそうになる」という状況は重なっていました。祐巳が「ロザリオを下さい」と翻意するのは、身をもって祥子の立場を理解することができたからだ、あるいは少なくとも無視し得ない要素の一つではあっただろうという推測が成り立ちます。…推測ができるだけで具体的には何も書かれてはいませんが、重要な構造ではありましょう。「未来の白地図」の冒頭は、「パラさし」と「無印」へのオマージュであり翻案ではないか、そんな想像をするのです。
想起ということを緩やかに解せば、祐巳は仮に意識には浮かばなかったとしてもまさに身体で覚えていたのであり、想起の過程を一気に省略し、かわいそうでたまらない気持ちが沸いてきたのではないかとも取れるところです。

付記:心の優位 ― 形あるもの・形のないもの

一方、「涼風さつさつ」では目に見える身体は本質ではなく、目に見えない「心」が本質であるという考えを説いています。身体と精神を二元的に捉え、さらに「心」を見つけることの難しさと歓喜が描かれているようです。
[▽続きます]

瞳子と「演劇」を中心に⑰ ― 取り込まれゆく祐巳の要素

透徹した対象への没入

翻って「ジョアナ」の瞳子がどのようであったかをみてみますと、一貫して「居場所があるかないか」ということに拘っているのがわかります。要らないと言われて矢も盾もたまらず出奔したが、やはり要る存在であることを再認識して自ら戻ったということになります。ただここにいう居場所というのは少なくとも表面的には、どうあっても仲間を求めているのではないことが注目されます。山百合会の劇への参加もかなり自発的であり、(祐巳や可南子がいることも影響しているのでしょうが)劇についてならば押しかけるようなこともするのです。
「演劇」と向かい合うとき、自らをあたかも機能中心の道具のように扱っている様子が「ジョアナ」からは分かります。機能というのが極端であれば、「役割」というのが相応しいでしょうか。役割としてしか見ようとしないのは自らに対してのみならず、認めてくれており、味方であるはずの部長に対しても等しく及んでいます。
そして練習も熱心と評され、役を掴むという成果も得ていることからは、注ぎ込むエネルギーという点では並みのものではないのです。すると瞳子自身の動機・充実感は一体どこにあるのかという疑問もでてくるところです。演劇という事柄の中に自己を捧げ主体を対象の中に溶け込ませているかのようであり、自らを「必要不可欠の駒」とするのは、その端的な表現です。
このとき瞳子自身の能力・才能・達成ですら、演劇に向き合うときの一つの機能、役割の一部になっていたように思われます。瞳子がエネルギーを注ぎ込んでいながら、逆に演劇からは何も受け取ろうとはしない態度もまた特徴的です。通常であれば努力を惜しまないことや能力が高いということにより、割合純粋なものから俗的なものまで、多くの果実・見返りを期待してもおかしくはありません。また、それには周囲から認められたり、さらには能力を通して集団・仲間に加わることができるといった帰属にまつわることも含まれるでしょう。…しかし、あまりそのようなニュアンスも感じられません。
すると"先輩A"に対して怒り出すというのも、無神経である、あるいは気持ちを解そうとしていなかったとばかりは言い切れない気もします。持っている文脈が違っているので瞳子を見るときの"先輩A"の辛さや焦りがそもそも分からなかったのではないかと思われます。「見た目と地」だけで選ばれたという言葉は第一義的には努力や能力に対する冒涜なのですが、瞳子の感覚としては「役を汚された」というのに近かったのではないでしょうか。

「役割」を「私」に引き戻す

ただ、それでもやはり瞳子の「私」の部分は完全に消し去ることはできず、演劇との合一感が妨げられるとき傷つくのです。そして瞳子が忌むのは、何の力を発揮することもできず、ただじっとしていて情愛を受けるだけの人形「ジョアナ」が表すような無力感なのだろうと思います。(人形の寓意を見棄てられている惨めさに見るか、無力な感じに見るか、力点の置き方によってややニュアンスが異なってくるところです。)
ここで祐巳の言っていることや関わり方を見てみると、多くが瞳子の内心と合致しています。「損失だよ、損失」というのは自らの努力と能力を思い出すのと重なっています。
しかし当初の目的と違い、かつ瞳子の内心とも違う部分もあります。「すごいじゃない」と我が事のように喜び、「家に来て練習すれば良い」等と相当積極的です。我が事のように喜ぶというのは、それ自体は何の目的も持たない点で自己完結的です。(なお、「家に来れば」というのも多くは自らの楽しみのために言っているようであり、これが原因で後に「未来の白地図」で瞳子祐巳の家に来ることになったのだとすれば、祐巳の与える影響が思わぬところで出ているようで面白いです。)しかし常識的に妥当な判断を示す、あるいはできるだけ相手の立場に立って考えるといった努力とは別の、相当な難しさがあるのではないでしょうか。というのは「私」の部分が充実し、しかもそれを素直に重ね合わることで初めてできることだからです。
そして「部員たちに文句を言わせないくらいいい演技をする」というのは、「居場所があるかないか」ということを気にせず、本来的な意味で力を発揮せよという意味に結果的にはつながっていきます。弓子が「あなたの選んだ」お姉さまなのだからと祐巳に言ったような、主体性の回復を促し、これまでの文脈の転換を図るような言葉と言えるのではないでしょうか。
この点瞳子と「演劇」を中心に⑧で、はちかづきさまが《祐巳には「しなくちゃ」ではなく「したい」という思いに突き動かされての行動がしばしば見られ》とされているのはけだし慧眼であると考えます。瞳子のために居場所を確保しようとしながらも、祐巳から全体的に伝えられているメッセージは、「瞳子自身のために演ぜよ」ということであり、「それによって私をも楽しませよ」ということです。
…中庭の方を見て静かに言った。/「何か、つまんなくなっちゃっただけです」という下りは、強い怒りでも悲しみでもない、何か忘れ物をしているがそれを思い出せないでいるような、微かな空しさの感覚が感じられます。瞳子の「私」の部分、埋没しかかった《本当の自分》が祐巳によって思い出され、補われていったのではないかという気がするのです。できごとの直接のきっかけはいろいろと言われたことなのですが、根底にはどのような関わり方をしているのか、という話でもあるのでしょう。
瞳子を見送ったまま視点は祐巳のもとにとどまり、「ジョアナ」でも瞳子が苦笑するところで終わっているため、祐巳の言葉のほとんどは投げかけられたままであり、その後の内心の布置の変化は分からないのですが。
なお、祐巳が「何もできなかったよ」と後に乃梨子に語っているのは、必ずしも祐巳の自己評価が低いためばかりとは言えないのかも知れません。したいという気持ちに基づく行動は、しなければならないことをして達成することより達成感やコントロールの感覚は低いものだからです。

重層的な人物像

内心での向き合い方と、外側から伺われる姿とは少しずつずれがあるようにも見えるところでしょう。祐巳は多くの場合は弱弱しく、さほど強力に物事に働きかけることはしません。しかし時に強い影響力を及ぼすし、内面では(「ロザリオの滴」で乃梨子志摩子に言っていた「欲張り」と同じような意味で)欲張りな面を持っています。
一方、瞳子の一番表層に見えるのは目立ちたがり屋の派手好き、といったところでしょうか。髪型にしたところで、周囲にそんな印象を与えている可能性はあります。しかし奔放かと言えばそうでもなく、慎重な面、あるいは物事との距離をうまくとろうとしているかのようなそつのなさも目立ちます。そして、ここに描かれている、物事に深く関わろうとするときの内面は相当ストイックであり、同時に純粋さと熱心さも持ち合わせています。瞳子祐巳のドラマは、この重層性が絡まり合いながら形作られてきたのではないかと思われます。そして、普段は違いがありすぎるためすれ違いがちな二人の性質が、同じ題材を巡って深い次元でふと重なりあった瞬間が、ここで描かれたのではないかと思います。
そして、これまでの瞳子の行動は、信念や熱心さは感じられるのだがその一方で瞳子自身の満足はどこにあるのかが今ひとつ判然としないような自己犠牲的なものが多かったのではないか、演劇においてその関わり方が端的に現われたのではないかと思われるのです。そして、演劇という場こそは力を投入すべき居場所ではなかったかと思います。
以上のことは、主に「事柄」に対してのものでした。しかしどうでしょう、例えば祥子との関係においても、一方的に支え、あるいは励まそうとしようとしていたようには見えないだろうかと思います。祐巳と違って祥子から何物も受け取ろうとはせず、しかし熱心さはあるのです。ミルクホールで祐巳が感じた瞳子の瞳の「まっすぐさ」は無私の純粋さにあったのではないかと思います。(この点、祥子に対して甘えるような態度は、本当は大して好いているのではないのだが別の要素があってあたかも親密であるかのように振舞う必要があったのではないか、さらには「演技」だったのではないかという見方があるとすれば、少々違うような気がするのですね。少なくともそれは祥子のためではないかということを、やさしさを引き出す「妹」であった可能性 で述べました。)そして瞳子祐巳の間で描かれなければならなかったのは、お互いの背景・立場を捨象してもなお残る、祥子への向き合い方の差ではなかったかと思います。
なお、瞳子祐巳の違いを何らかの生い立ちの違いに求めようとするならば、漠然とながらこんなことを考えます。祐巳は自由に泣いたり笑ったりできるような場にもともと恵まれてきていました。しかし「お邪魔でなかったら」「ご迷惑でなかったら」などと遠慮する瞳子はどこか居心地が悪そうです。何事かに対して自由に振舞ったり気持ちを傾けること自体が、どうかすれば周りに迷惑をかけることに繋がってしまうかような恐れがあるのかもしれません。何かに「抑え込まれている」といった感じがします。しかし一旦見つけた対象には、祐巳とはまた違った純粋さをもって向かっていくのではないかと。

瞳子=エイミーの含意

すると、「エイミーはつないだ手を、ギュッと握り返してきた」にはいろいろな含意を見て取ることができるでしょう。瞳子即ちエイミーであるという、現実にはありうべからざることを修辞的に述べた一文は印象的です。ここで複数の見方が成り立つとしてもそれらは必ずしも排除し合うものではなく、幾重にも重なった意味を持つと見ることもできると思います。
①この場面では祐巳の視点から衣装を着たたままの瞳子のことが述べられています。すると第一義的には、瞳子の演技がとても良かったことを示すのではないかと思われます。祐巳が見てどう思ったのか、あるいは広く客観的にどうだったのかは直接的には述べられていません。しかし祐巳から見てその時瞳子にエイミーという役が宿っていたことを端的に表しているのではと考えれば、(祐巳の視点であり、同時に客観性を持つ叙述としての地の文でもあるこの一文では、)瞳子即ちエイミーであると言えるほどの演技の良さを表していると考えられるでしょう。
②一方、後から「ジョアナ」を読むにつけ、「ふてくされたような」顔をしていることや「エイミーに戻らなければ」という下りからは、エイミーの像とは程遠い瞳子自身が対照的に示されているのではと思われます。すなわち、役とそれを演じる者との乖離(または他者性)を強調した、反語的な表現です。あるいは手の方がより深い気持ちを表しているとすれば、「やさしい手」を拒みながらも奥底では握り返したいという気持ちもあるのではないか、少なくとも感謝の気持ちが込められているのではないかと取れそうです。
③しかし最後に、さらに積極的な意味合いをも含ましめることができるのではないでしょうか。
瞳子にとって得がたい対象である演劇とのより幅広い関わり方ができたこと、あるいはできつつあることを端的にさした一文であるとも取れそうです。ここでは実際の瞳子が役からかけ離れていそうなことは必ずしも問題となりませんし、むしろその結びつきを一層強めるものなのかも知れないのです。
瞳子祐巳の「やさしい手」を拒み、「未来の白地図」でもロザリオを受け取ろうとはしません。しかしここではしっかりと手を握り返しているのは、二人が共有している場所が違うからと考えられます。そもそも「劇の完成」には最終的には熱心な観客がいてはじめて到達することができるものです。演劇という地平において瞳子は"エイミー"であり、祐巳もまた演者と対抗し、そして不可分一体の存在である熱心な観客でした。そして、瞳子が演劇との向き合い方をより成熟したものにするためには祐巳の持つ「私」の要素を必要とし、抵抗を示しながらも受け入れていったのではないかと思われます。
おそらく「不可欠の駒」でありたいと願うような心性は急に消えて無くなるものでないでしょう。しかし、祐巳が祥子という対象の主体性と自らの主体性が表裏一体のものであることを知り関わり方が変わっていったように、瞳子の演劇に対する関わり方も主体性の加わった一層幅広い関わりかたに至っているのではないかと思われるのです。

似て非なる「〜でなければ」

以上のことからやや見方をひろげていくと、瞳子祐巳の間にあるのは、必ずしも「守り・守られる」関係・文脈上に乗っていゆくことができないという葛藤のみではなく、それを包含するような、もう少し広い関係・文脈ではないかと思われます。瞳子祐巳に対する思い入れは、自らがこれまであまり十分に生きてこれなかった面を祐巳の中に認めることにあるのかもしれません。祐巳と関わることで次第にそれが補われていくようであり、しかし同時に苦労・苦痛を伴うものなのではないかと思われます。「イン・ライブラリー」の「のりしろ」の部分をはじめ、他でも見られる苦情にも似た祐巳に対する言葉から何となく伺える気がしてきます。
ただ、祐巳の側からすればそのような関係にはありません。乃梨子の「祐巳さまは、瞳子じゃなくてもいいと思う」(しかし瞳子にとっては祐巳でなければだめ)というのはこのようなことをさしているのではないかと思います。ふと流した乃梨子の涙は、瞳子祐巳を必要とし、そのことが同時に苦痛でもあることをも知り、瞳子の代わりに泣いているような気がします。
一方、「未来の白地図」での他にやさしい子は沢山いるけれども瞳子ちゃんでなければ〜、という祐巳の思いは「妹」として自分の対象愛を満たし、傾けてゆけるのは瞳子のみであることが分かったと言っているようです。そして祐巳にとっての対象愛というのは守ってあげることであり、互いに「守り・守られる」関係というのはまさに祐巳が祥子との間で醸成してきたものなのですから同じ文脈の延長上にあります。この点で祐巳の考えや振る舞いは納得のいくものです。

佐藤聖の「格好良さ」

上に述べたように祐巳の持つ性質に瞳子が触れながら何らかの影響を受けたとするならば、それは「祐巳が影響力を及ぼした」と言えます。しかし逆の側から見れば瞳子祐巳の要素の一部を取り込んだと言えるものでもありましょう。なお、自らが十分に持っていないものを見出し次第に取り入れていくようなことは他の「姉妹」関係の中にも散見され、たいへん重要な意味を持つと考えます(ただ、興味深いことに祐巳・祥子の間ではあまり無いようです)。瞳子祐巳の間は相当捩れてはいるものの、「姉妹」的な要素を基礎としては持つと言えるのではないでしょうか。
似た例として、「姉妹」ではないが祐巳から影響を受けた、あるいは祐巳の要素を取り入れた人物として佐藤聖がいました。祐巳は聖をいろいろな場面で必要とし助けられたのですが、何かれとなく世話を焼きながら、別の意味で聖も祐巳を必要としていたのだと言えます。そして聖はそんな関係の持ち方に極めて肯定的でした。
「Will」では「私は祐巳ちゃんになりたかった」と進学の道を選んだこと、次いで自らを「こんな格好いいやつ」とややナルシスティックと受け取られかねないことを言っています。聖の自己像は(良くも悪くも)自分は特別な存在だという強烈な特別意識に多くの部分が根ざしているのでしょう。負の方向に働けばなかなか救いがたいほどの疎外感をもたらし、しかし将来に向けて生きようとしたとき、自分は周りとは違う、すなわち「格好良さ」という陽性の認識に変容していったのではないかと思います。この点、割合はっきりと祐巳の自己像が語られているところがあり、聖とは極めて対照的です。「俗的で、取り立てて珍しくもない、小さな日当たりがあれば勝手に根付くタンポポみたいな雑草」(「涼風さつさつ」)というのですから。
そして、祐巳から見えざる補充を受けるのは「幸せな時間」であり、自分を作り上げているという感覚もまた、格好良いという自意識につながっているのだと思います。
[▽続きます]

瞳子と「演劇」を中心に⑯ ― 初めに「私」ありき

くもりガラスの向こう側」、あらすじが発表されているようですね。もやもやとした、不分明な憂鬱が描かれるのでしょうか。しかし向こう側も垣間見えるのだとすれば少し怖いような希望もあるような。題名自体がサスペンドな感じで不安を掻き立てます。
姉妹制度の知恵④で問題を出したままほったらかしにしていた可南子・夕子の話に関し、小此木啓吾北山修著『阿闍世コンプレックス』をテキストにして考え直そうと思い注文してみました。書店にはときどき行きますが何か目的があるときはネットで探すことが多いです。ほんとに便利ですね。
すごい話だったと思うものの、何がどのようにすごかったのかが今一つ腑に落ちず、言葉になっていません。そうか、「姉妹関係」の一つであったのだと思ったときは目の前がぱっと明るくなったような気がしました。しかし良く考えるとなかなか難しく、未だこれまたくもりガラスの向こう側にあるような感じです。今のところ、《可南子は夕子との間の姉妹関係が変容・成熟する過程を通して阿闍世コンプレックスを克服し、家族関係のしがらみを超えて自我を確立させてゆく端緒を掴むことができた》という話ではなかったかという予断と先入観を持っています。…どうなりますことやら。

パラさし」にみる二人称への変化

マリみては多くの話が祐巳の視点で進められているのですが、時に他の人物のものもあり、視点が大きく切り替えられているように見えるのが面白いところです。淡々と見たままの事実を描写するものもあれば、込み入った考えや強い気持ちを表した独白もあります。そして独白の中には特に、外から伺うのは難しい、人物特有の内面の布置が比較的直截に見て取れるようなものもあります。(もっともいくら直截であるとは言っても、やはり読者による解釈も許されているのでしょう。また、強い気持ちが書かれていることとそこから人物の内的な特徴が見て取れることは必ずしもパラレルではありません。)読者は人物の数々の行動と言葉から特徴や内面をいろいろと推し量る中で、言わば「その人物本人の自我関与の高い」、あるいは自我が集約されているかのような独白に時に遭遇します。「ジョアナ」はほぼ全編がそうなのですが、前回引用部分の一節は、殊にこれに当たると思います。
前述したような瞳子の姿勢は他の諸々を省みない点で突き抜けており、透徹した純粋さを認めることができます。しかし一方ではやはり、極端に過ぎるのではとの違和感も感じられてきます。「レイニーブルー」・「パラさし」と「特別でない〜」・「ジョアナ」の話は割合似た形をしていて瞳子祐巳の傾向が端的に現れていると同時に、それ故に対照的なところが表われているのではないでしょうか。
対象と深く関わろうとするとき、自己と対象との間に合一感がもたらされます。あるいは合一を目指そうとします。(それは例えば「白き花びら」での聖の独白「なぜ、私たちは別々の個体に生まれてしまったのだろう」などと端的に表現されているところです。)合一感という点では等しいのですが、内面において祐巳は、自己に対象を強く引きつけ自己と対象との区別が判然としないような状態であり、一方瞳子は自己を滅して対象の中に埋没させていくような状態にあったものとして描かれているではないか、そんな違いが見て取れるのです。ここで自己というのは欲動の主体と言っても良いし対象と向き合うに際しての主体と言っても良いと思います。ここでは仮に「私」(わたくし)と称することにしましょう。
パラさし」の冒頭での「喜びに震える」「指先を心待ちにしている」というのは百合小説としての側面が強い表現とも取れる一方で、やはり祐巳らしさの一つとして書かれているのだろうと思います。心に祥子の像を抱ける限り、それは絶え間ない快さの源泉となることが示されています。それが「大切なオモチャを抱え込むように体を丸めていた」という自覚に変わっていきます。おそらく向き合い方の変化という点では、「パラさし」のハイライトは由乃と話しているときの「人間関係は一対一が基本だから〜ましてや祥子さまは祐巳の所有物でもなんでもなくて、人格をもった一人の人間」の一節にあると思います。ここで「瞳子ちゃんは関係ない」というのは、もちろん第三者を排除した狭い二者関係の中に閉じこもったのではなく、むしろ自己愛的な満足が中心の一人称の次元から二人称の次元に移る過程と捉えると良いのではないかと思います。
「私」と渾然一体の状態にある限りにおいて快さと安心感に浸っていられるが、しかし一旦喪失しかかる体験を通し、やはり自分とは異なる意思を持つ別個の対象であることが分かったという話だと思います。そうすることで相互交通性のある一対一の関係、「私」と「あなた」の関係が開かれるということが示されているようです。

「妹」に含まれゆく「姉」の要素

そして「パラさし」以降の祐巳の変化を眺めてみると、「子羊」の冒頭にあるような祥子との意思の疎通がスムースになったということのみならず、「好き」ということの意味内容が少しずつ変わっているようです。「レイニーブルー」では言わば自己愛的な「愛されたい」という気持ちに主な焦点が当たり、その延長上に「捨てられてしまうのではないか」という不安がありました。しかしそれ以後、対象愛的とも言える「愛したい」という気持ちも強調されており、独立した意思を持つ他者であることの認識に根ざすものではないかと思われます。
もちろんそれは「レイニーブルー」をきっかけにスイッチを切り替えたように変わったのではなく、六対四のものが四対六に変わった、あるいは自己愛的な部分を基礎にして対象愛的な部分をさらに広げていったのではと言う方が適切なのかも知れません。また、両者はもともと判然と区別できるものではないという見方もありましょう。ただ、「涼風〜」と「特別でない〜」の終盤のような「一身に愛される」ことが体現される一方、「真夏の一ページ」での出来事や「レディ・GO!」で垣間見える関係では祐巳から祥子に向けられた「愛したい」という気持ちが表現されているようです。それが「薔薇のミルフィーユ」に結実していったものと思われます。
なお、一体に「妹」という立場は「愛される」側として安定していて逆の立場はなかなか難しいように思われます。しかし「真夏の一ページ」や「薔薇のミルフィーユ」での相当の不全感を残しながら頑張る姿からは、やや逆説的ながら一歩進んだ「妹」らしさというのは「姉」のような振る舞いを含むことが示されているようです。そして、対象愛的な部分が汎化して今度は自らの「妹」へと向けられるのであろうと思われるのです。
[▽続きます]

瞳子と「演劇」を中心に⑮ ― 対象と深く関わること

瞳子祐巳祐巳・弓子

「特別でない〜」と「ジョアナ」で異なる二方向から描かれた祐巳瞳子の話は、我慢強い相互理解の物語ではありませんでした。瞳子は状況をひたすらまくし立てながら自己完結して問題は自分で解決したので、一見、祐巳の言葉のほとんどは虚空に消えていったかのように見えます。…ただ、瞳子の内心と祐巳の言葉は多くが合致しており、祐巳の言葉によって本心に気付いたという面も見受けられます。
作品の上では「特別でない〜」が先であり、その時瞳子はどう思っていたのかが「ジョアナ」で後に描かれるという形になっています。しかしむしろ凝り固まったような「ジョアナ」での瞳子の心象に、祐巳の言葉と思いがどのように重なっているのかというふうに、逆方向の見方ができると思います。というのは、「特別でない〜」でみられる瞳子祐巳の関係は「パラさし」での祐巳祐巳の関係と構造的には類似のものとして描かれていると思うからです。
現象(実際に起こっていること)としては《普段より高揚している者(祐巳,弓子)から落ち込んでいる者(瞳子祐巳)に向けられた、確信に満ちた、やや一方的な語りかけ》です。
しかし同時に抽象的には《(瞳子に対する祐巳祐巳に対する弓子は)本人よりも本人について良く知り、見通しの良さを持った導き手であり、自己と対話をしているような意味合いを持つ》ものとして描かれているようです。
パラさし」では祐巳はさほど表立って弓子に反対はしていないものの、深く納得している様子ではありません。これは「特別でない〜」には書かれているが「ジョアナ」には書かれていない祐巳の言葉を、少なくともその時は瞳子がシャットアウトしていることと軌を同じくするものでしょう。「パラさし」での祐巳には新しい知見を得たということに加え、蓋となるような障害(例えば「できの悪い妹」であるという考えにばかりとらわれること)のために覆われていた、本来的に内在しているもの(例えば自己に対する信頼感)を賦活させられたというニュアンスが感じられます。弓子の言葉が後からじわじわと効果を及ぼし祐巳のものの見方に影響を与えていったように、やはり瞳子祐巳の言葉に感応していくものがあったのではないかと推測されます。それは自ら頭を下げに行き、一応の解決をした後のことなのかもしれません。すなわち一段奥の段階が「ジョアナ」の後に、祐巳が何もできなかったよと乃梨子に淡々と語った後にあるのではないかと思われるのです。

向き合い方の変化が主眼の話だったのではないだろうか

パラさし」で描かれた祐巳の祥子への向き合い方と、瞳子の演劇との向き合い方を照応させてみたいと思います。風変わりな考え方かもしれませんが心の姿勢、あるいはエネルギーの傾け方という点に着目すると同一の文脈の上で見ることができると思います。ここでは「お芝居好きでしょ?そんなの見ていればわかるよ」という直感的かつ確信に満ちた祐巳の言葉が手がかりとなりそうです。マリみてでは好きという言葉が頻繁に、そして多様な意味合いで用いられています。展開される話の基底には、「どのように」好きであるのかという問題がいつも流れています。日常的にも「好き」さらには「愛している」という言葉は、人に対してのみならず事柄に対しても用いられるところです。
また「レイニーブルー」と「ジョアナ」は、それぞれの場面に至るまでの描かれ方自体に注目しても、似た形をしています。
①それぞれの場面までは割合広く了解可能な、言わば穏やかな好きという気持ちが伝わって来るようです。祐巳はもともと祥子の「ファン」であったわけですし、以降の祥子に対する向き合い方もおよそその延長上にあります。「女優業に専念する」などと言っている瞳子も、なるほど熱心に取り組んでいるのだろうと思わせられます。
②しかし引き金となるようなできごとによって対象を喪失しかけ、同時に怒りや憎しみの気持ちが表明されます(祐巳は珍しくも、はっきりとした憎しみの気持ちを瞳子に対して抱きます)。そして読者は内心の表白と共に、強い執着心にも似た思い入れをいくらかの意外性と共に知ることになります。
③そして一旦対象を失った後に回復がなされます。「パラさし」において最後に祐巳にもたらされたのは対象の回復であったのみならず、そのできごとを通しての対象への向き合い方の変化です。「ジョアナ」において瞳子も同じような体験をしたのではないかと思うのです。

「演劇部の劇」の現代性

どうにでもなれ、とうち捨てたはずなのに、確かにまだ私は「若草物語」に未練がある。
 エイミーをやりたい。
 口では「私なんかよりずっと上手にやれますわ」なんて言ったけれど、私以上にエイミーを掴んでいる役者はいない。あの劇を成功させるためには、私は演劇部に必要不可欠の駒なのだ。

瞳子が自分が不可欠の「駒」であることに改めて気付き、「あの場所」に戻りたいと思い直すところです。
このときの祐巳は何かの影響を瞳子に及ぼしていたというより、瞳子が自らの姿を映し込んで良く見えるようにするためにだけそこに立っているような、鏡(あるいはスクリーン)の役割をしていたと言えます。(ただ、「鏡」のように話を聞くこと自体、割合難しいことと言えます。)しかし状況が整い、このときの瞳子のように探索的な態度を短い間でも取ることができるならば、今まで見えていなかったことも見えてくることがあるようです。
「駒」という表現に注目すると、一見没個性的でやや非人間的な響きのある言葉です。しかし瞳子自身の状況を見る前に演劇の側から見た場合は相当の正しさを含んでおり、一つの理想形に至っているとさえ言えることは触れなければならないでしょう。
「地域でも一目置かれていて、結構本格的な劇をやる」、「生徒会が余興の延長線上で行う芝居とは違い、かなり本格的」というふうに、演劇部の劇が本格的であることが強調されています。「とりかえばや」の準備の時や、《無印》での衣装の詰め物をめぐる和気藹々とした情景などとはかけ離れた部分もあるのでしょう。本格的であるということはすなわち技術が第一に問われることであり、劇の完成度が極めて重要なものとしてほぼ唯一の目的となりえます。そのためには個人的な思い入れや勝手な解釈は背景に退かざるを得ず、皆が「駒」である必要があります。「役を掴んでいる」「必要不可欠の駒」という自覚は、この目的が瞳子の中でしっかりと内在化されていることを示し、それだけで驚くべきものと言えるでしょう。(音楽の分野でもオーケストラでは指揮者は「音の演出家」と呼ばれ、時にはまるで楽器を扱っているかのように、指揮者が「オーケストラを鳴らす」という言い方がされます。ここでは指揮者の目指す表現を良く理解し忠実に実現するのが良い演奏家であり「駒」という言い方と親和性がありそうです。)
ただ、そうすると演劇における役者の主体性はどこにあるのかという疑問が生じてきます。『演劇入門』演劇入門 (講談社現代新書)を読むと、「俳優は考えるコマである」と題する一章が設けられています。「劇作家、演出家としての私にとっては、俳優はあくまで実験材料でしかない」としながらも現代演劇では演出家に絶大な権力があることの問題点を指摘し、その上で現代の演劇では俳優の「作品創作への自覚的な参加」が殊に要請される…などと論じられています。
なお祐巳が「主役の一人」と言っているように、「若草物語」には唯一の主役がいないことは興味深いと思います。高校演劇であれば、特定の役者を中心に構成を考えるスターシステムとはもとより無縁なのでしょう。しかし、主役が複数いるような題材を選び、できるだけ枠を広げるような配慮があったのではないかと思います。「演劇入門」には「多くの現代演劇では主役ははっきりしないし、それは場面ごとに大きく変化する」と述べられています。瞳子が主役級であるのに「駒」と思っているのはこれいかにという対照性を浮き立たせるためのものだとしても、マリみてでの「若草物語」は古典的な題材でありながらつとめて現代的な演劇活動として描かれているのだろうと思います。
[▽続きます]

『未来の白地図』 ― 役との繋がり

明けましておめでとうございます。更新頻度が矢鱈に低くしかも読みづらいブログに関わらず、目を通したりコメントを寄せてくださる方々がいるのは有難い限りです。
ラストスパートに入ったプリキュアに関連する方々の記事も昨年は沢山読ませていただきました。実際の放送を見逃しても記事だけでお腹一杯、満足ということもあったりして(笑)。"ARIA"は和みました。

役との関わり ― 共感・同一化・目標・乖離

何とも散漫なのですが、瞳子と「若草物語」「小公女」での役との関わりについて今考えていることを述べたいと思います。
・共感の対象:他人とは思えないような親しみを感じたり、自らとの共通点を見出していたのではないか
・憧れと目標:共感とはやや違い、物の考え方が共感できるなどといった自らとは違うが良い性質をその役が持っている、あるいは物語の中での自己実現の過程が示されているのではないか
・同一化の対象:物語で示されているのと同様の行動様式を知らず知らずのうちに取っていること・またはペルソナの形成との関連性
・乖離:自分は役が表しているような人間ではないという意識はどの程度なのか、さらにはいつ出てきたものなのか
…というふうに分けて整理しようとしたところ、とっちらかってしまいました。それにこのような考え方自体が合っているかどうか不明なところです。
まず分りづらいのは、瞳子と役との間の類似性が必ずしも役に対する思い入れとは繋がるものではなく、むしろ相反するものであるかも知れないことにあると思います。実際「見た目と地」と言われた途端に激しく抵抗していますし、役を掴むという体験とは相容れないものです。従ってエイミーは憧れる「他者」として捉えられていたのではと思います。…ただ正確にはエイミーというキャラクター自体への思い入れは明確には示されておらず、単に練習の成果としての思い入れかもしれませんし、もしくは「見た目と地」であることは分っているけれども更に役を掴むことができのだと解することもできるわけです。ただ、『特別でない〜』で「エイミーはつないだ手を、ギュッと握り返してきた」という描写からは役との間に何らかの人格的な繋がりがあることが暗示されているようです。
ごく大まかにはこんなことを考えます。
役の担っていた夢や良さというのは思い入れのもとになっていたが、その一方で次第に自らに対しては失望の念が強くなり、迫真の演技という形に昇華されて残っているのではないかと。なお、エイミーも将来は女優として大成する人です(ただし最初から女優になりたいと言っていたわけではなく、Little Women の続編で出てくる話かと思います)。
セーラは不幸な境遇にも関わらず割合前向きで、登場時の瞳子が何となく意欲的な頑張り屋の風情があることを連想させます。大体11歳くらいに不幸に遇っており、瞳子もこの頃に喪失にまつわる何事かがあったのではないかなどと思うのですが、書かれてもいないことを推測するのは禁物ですね。
セーラはいただいているTB瞳子ちゃんとセーラ・クルー;"I Tried Not to Be"の中で詳しく触れられていますがPrincessのようであろうとして自らを支えており、「施し」を惨めさを我慢して受ける場面があります(瞳子が途中まで演じたところです)。かつて瞳子は「薔薇様になりたい」と言っていたとのことであり、このあたりは何となくPrincessのようであろうとする姿勢と重なるのではと思われます。また、想像をいろいろとめぐらすのが得意なことは、「銀杏の中の桜」で制作・出演してしまう点を思わせます。
人形は基本的に愛玩の対象ですが、自らの否定的な分身としての意味を持つことがあるようです。セーラはかつては瞳子にとって共感の対象で、エイミーは後に目標になったのではないかというふうに時間軸に沿って縦に考えると良いかもしれません。名前に注目し、作中で頑張り屋のセーラに何もしないと叱られた人形(Emily)は長じてエイミー(Amy)となり、それは瞳子にとっての目標でもあったが、同時に影となるJoannaという新しい人形に向き合わなければならなくなったのではないかと。
なお、エイミーは後に手紙の中でJoannaをばかにしてごめんなさいと謝っており、瞳子が今まで見向きもしなかった側面に向き合わざるを得なくなることを暗示しているのかもしれません。「未来の白地図」の終盤からは自らの否定的な面に気付き始めているばかりか、浸り切りそうになっているように見受けられます。